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 漱石の描く男女たちには、手放しの幸福感のようなものはあまり感じられません。むしろ、どうにも (41)ない「愛の不毛」のようなもののほうが目立っています。
 では、それと較べていまの私たちの恋愛はどうなのでしょうか。
 じつは私は、漱石のころよりもはるかに不毛になっているのではないかという気がします。そして、その理由は、私たちがより多くの「自由」を手に入れたからではないかと思っています。
 近代の到来(42)私たち「個人」はさまざまなものから自由になりました。何を信じるかも自由、どう生きるかも自由。そして、「誰をどのように愛するか」も「何を愛と考えるか」も自由になりました。
 百年前の漱石のころの日本は、まだ自由のスタート地点にあり、恋愛についても完全にフリーではありませんでした。(43)でしょう。恋愛結婚をする人はそれほど多くはなく、伝統や家柄、格式、身分や立場など、さまざまな制約の中からおのずと伴侶が決まっていたと思います。相手を完全に自由に選べたわけではありません。しかし、制約があったからこそ、それが「愛」なのか「愛ではないもの」なのかが、まだ見分け(44)のです。たとえば、もし自分の意思とうらはらな伴侶を無理やりあてがわれれば、逆に、自分が真に心惹かれるのはどういう相手なのかわかったりもするでしょう。
 これに対して、何でも自由にしていいと言われたら、人は判断の基準を失って途方に暮れるのではないでしょうか。自由というのはたいへんな困難を伴うものです。
 愛する自由を手にしたことによって、愛からますます遠ざかっていくという皮肉がそこにあります。
 不自由だからこそ、(45ーa)があった。自由にあったから、(45ーb)がある。これは恋愛に限らないことですが、自由の逆説と言えるものなのかもしれません。
 (姜 尚中 「悩む力」集英社新書による) 

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