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昔、しばらくドイツで暮らしていたとき、小学校で学期末、親子面接というのがあった。息子はドイツ語がほとんど話せないのだから成績が良いはずがない。が、教師のほうは何か月もドイツにいて、言葉が話せないというのが解せない(注1)らしい。その釈明に、ドイツ語がすらすら話せないわたしのほうもしどろもどろ(注2)。
他の親たちはどんなぐあいに教師とやりあっているのかと、別の教室をのぞいて見ると、あの親もこの親も、この子がこんな成績であるはずがないと、教師に必死で抗議している。教師のほうも真顔で親の説得にあたっている。
ドイツの親というのはほんとうに「①親ばか」だなあと感心した。徹底的に子供の味方をするのだ。日本なら、子供の成績がかんばしくない(注3)と教師の前で縮こまり、「先生もおっしゃってるでしょう」と、教師の側に立って子供を諭しにかかる。
日本ではこのところ、クレーマー(注4)という「親ばかまがい(注5)」のひとたちが増えてはいる。が、これは真正の親ばかではない。子供からすれば、「うちの子にかぎって」という言われ方は②それほどうれしいものではない。だれの名誉のために言ってるのかと、かすかな猜疑心(注6)も芽生える。
真正の親ばかは、無条件で子供の味方をする。そんな過剰な信頼に、「そこまで言ってくれなくても」と、子供は引き気味になるくらいだ。
「おりこうさんにしていたら」といった条件をつけないで、自分がここにいるという、ただそれだけの理由で世話をしてくれるのが、親というものだ。ところが近頃は家庭でも条件をつける。「もしこんどの模擬テストで百番以内に入たら、あのゲームソフト買ってあげるからね」という言い方。愛情にあふれているように聞こえて、その実、③愛情に浴する(注7)ためには条件がつくは条件がつく。
家庭は「しつけ」の場、社会生活のもっとも基本的なルールを子供に教える場だとよく言われる。けれども、社会的なルールを学ぶ以前に、そうしたルールの前提となるもの、つまりは信頼ということを深く学ぶ場、それが家庭なのではないか。
よその赤ちゃんが親に、ミルクを飲んだあと、だっこして背中を叩いてげっぷをさせてもらったり(注8)、こぼれたミルクを拭ってもらったり、腋の下や肛門をていねいに洗ってもらったりしているのを見て、ああ自分もあんなふうに世話してもらったんだなと思う。そして、熱を出すと親がとても甘くなって、好きなものを何でも食べさせてくれたことを思い出す・・・・。
こうした「存在の世話」をたっぷりしてもらってないと、長じて(注9)、生きることが空しくなり、苦痛になったとき、それでも自分が生きるに値する者であることを、自分に納得させることは難しいだろう。
(注1)解せない:理解できない
(注2)しどろもどろ:ことばが思いつかなくてはっきり話せない様子(注3)かんばしくない:よくない
(注4)クレーマー:何かあればすぐに大げさに苦情をいう人
(注5)~まがい:それに似ているが違うもののこと
(注6)猜疑心:疑いの気持ち
(注7)愛情に浴する:愛情を受ける
(注8)げっぷをさせてもらったり:胃の中の空気を吐き出させてもらったり(赤ん坊の世話ですること)
(注9)長じて:大人になって