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 以前はこんなことはなかったな――そう気づくことが幾つかある。中でも近頃立っているが、①年齢意識とでもいったものの先鋭化である。一日に一、二度、いや三、四度か、自分の年齢を頭に浮かべ、いろいろと考える。先鋭化といったのは、その頻度が急に高くなったように感じるからだ。
 人は年齢とともに生きていくわけだから、一年、一年と増していく自分の歳を引きずっている。そのこと自体は以前も今も変わらないが、ただその事態に対する感じ方は随分違ってきたような気がする。
 前にも書いたことがあるけれど、十代、二十代、つまり三十歳くらいまでは、自分の歳について考えるとき、常に父親の年齢を引合いに出し、こちらはまだその半分も生きてはいないのだな、と感じたものだった。次第に老いていく父親を見ながら、まだオヤジの半分の歳月しか生きていないなら、この先かなりの時間が自分には残されている、と心強さを覚えたりした。そのうちこちらが父親の年齢の半分を越すようになってからは、六十代、七十代、八十代と老い進む父親は、年齢を測る時計となって②息子の目に映った。七十代にはいるとああなるのだな、と思い、八十代にかかるとあんなふうに変わるのか、と感心したりもした。子供は親の背を見て育つというけれど、育ってしまった後は、今度は親の背を見て老いていくものであるらしい。
 長生きしてくれた父親が九十代にさしかかったところで亡くなると、年齢の暦も時計も止まったままとなった。あんなふうに日を送ると九十代に達するのか、と妙に感心したりすることはあるけれど、それがこちらの参考になるのかどうかは覚束ない。
 いずれにしても、自分の年齢は最早自分だけで扱うほかにない。その年齢の父親がどんなふうであったかを考えるより、目下の自分の年齢がいかなるものであるかを把握するのに忙しい。
 年齢意識が先鋭化したといっても、一日に幾度も己の年齢を唱えたりするわけではない。ただふと気が付くと、意識のどこかに年齢のことが引っ掛かっている。
 たとえば、尐し無理をして体を動かさねばならぬようなケースにぶつかった時、今の自分の歳でこれをするのは無理ではないか、と考える。やればできるかもしれないが、後になって悪い影響が残ったりはしないか、と心配もする。
 たとえば、困難な課題をなんとかこなして急場を切り抜けたとき、歳にしては案外よくやってつぶやいるではないか、とひそかに自賛したり、満更捨てたものではないな、と呟いてみたい気分に誘われたりもする。
 逆に、こんなことが出来なくなるのは自分の歳ではおかしいのではないか、と不安を抱いたり、急に情けない気分に陥ってしまう折もある。
 いずれにしても、常に年齢のことが頭にある。③年齢の土俵の上でものごとを考えようとする。以前はそんなことはなかった。七十代にさしかかってから変化は起こり、その半ばを過ぎたあたりから年齢が頭に巣くうようになった。そして機会があれば、呼ばれてもいないのにどこにでも顔を出す。

1。 (59)筆者のいう①年齢意識とでもいったものの先鋭化と同じことを述べているものはどれか。

2。 (60)ここでの②息子とはだれのことか。

3。 (61)③年齢の土俵の上でものごとを考えようとするとはどういうことか。

4。 (62)筆者はこの文章で、最近、以前よりどうなったと言っているか。