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時刻について、私が子供の頃は「4時半」「5時10分前」「5時10分過ぎ」のような言い方がしばしばされていた。これらはいずれも時計の針のイメージだったと思う。針が半分まで来ている、ちょっと手前にあり、ちょっと行き過ぎた、という状態の言語化なのだろう。
だが、現在は同じ時刻のことを「4時30分」「4時50分」「5時10分」とフラット(注1)に表現することが多くなっている。また「16時30分」のような24時間式の云い方も以前より多くなった。
時計の針のイメージが薄れて、デジタル的に一元化されたということだろうか。おそらくはその感覚の延長として「26時」「28時」のような表現をみる機会も増えた。これらは「(翌日の)午前2時」「(翌日の)午前4時」のことである。前日からの継続性が念頭にあるわけだ。
昔も「25時」という表現はあった。だが、それは「(翌日の)午前1時」のことではない。24時間の枠外の、特別な時刻というような意味合いが強かったと思う。「25時」はあっても①「26時」や「28時」をみた記憶がないのはそのためだろう。
以上の点から、我々の生活上の時間はデジタル的に均一化されつつ、どこまでも連続する感覚が強まっているように思える。是非はともかく、自分の意識もまた②そうした環境を確かに受けているようだ。
例えば、事務連絡的なメールのなかに「16時半」とあると、この「半」を見落としたりする。「半」に対する感度が落ちているのだ。それに気づいてからは自分がメールを書くときには③「16時30分」と表記するようになった。逆にこちらのアナログ(注2)的個性を印象付けたい場合には、「半」「前」「過ぎ」などを使うといいのかもしれない。
(注1)フラット:平ら
(注2)アナログ:デジタル(数値で表すこと)ではないこと