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かつては学校を卒業したら、それから30年か40年の人生を考えればよかったのです。
今は学校を出ても、これから後80年近い人生を考えなければいけないかもしれません。私達を待ち伏せ(注1)している人生の時間が、とんでもなく長くなっています。うかつに(注2)、歳もとれなくなっているのです。
100年前、人生50年と言われた時代には、どんなことをするのにもとんでもない時間がもったいないぐらいかかってしまいました。自動車がなかった。飛行機がなかった。どこへゆくのにも、今から考えればとんでもない時間がかかっています。それがあっという間にどんどん遠くなった。新幹線ができた。かつては動くことだけではなくて、何をするのにも、どこへ行くのにも時間を考えなければならなかったのです。いろいろなことをするというのは、時間のかかることをあえてすることでした。漬物には季節が一つ必要でした。人生は短かった時に、何かするのに、それだけ長い時間が必要でした。ですから、①退屈する前に、時間は過ぎたのです。
昔から一泊か二泊を要したところへ、今は日帰りで行って帰ってくるということをしている。そんなに時間を惜しんで、物事を急いでして、しかも昔の人の生きたのよりもその二倍に近いような、長い長い人生を送らなければいけないとしたら、②時間がむしろ負担になってくるかもしれません。便利になって時間がどんどん節約されてきた。ところが、一生の時間の方はどんどんと長くなった。そうすると、どういうことになるでしょうか。使わない時間、もてあます時間、何もしない時間、極端に言うと、何をしていいのかわからない時間がどんどん増えてくる、ということです。
私たちの人生は、先に途方もない時間が待っている人生です。そうしたことを考えるときに、ますます重要になってくるのが、私の考えでは読書です。私たちの人生に否応なく割り込んできてしまう。この途方もない長さの時間に、じゅうぶんに耐えられるだけのソフトウェア(注3)を持っている、それどころかどんなに一生ぜんぶを使っても絶対に使い切れないほどソフトウェアを持っているのは本しかないからです。何しろ本というソフトウェアは10年や30年の産物ではないのです。すくなく見積もっても、2、3000年かけて作られつづけているのです。
(注1)待ち伏せする:かくれて待つ
(注2)うかつに:うっかり
(注3)ソフトウェア:ここでは知識などの内容を指す