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 私たちは、その時の状況や、周りの人のまなざいこ合わせるように、行動を決めていることがある。人は一人の時の行動と、人に見られている時とでは行動が変わる。誰かのまなざしを気にして動くのである。そして、多くの人々が生き交う街は、皆が皆に視線を向け合う「まなざしの集合体」と言える場所だ。そんな場所では何が適切な行動で、何が不適切な行動なのかという暗黙の公共性が生まれてくる。まなざしの集合によってそこに社会規範が生まれ、それは生活の型となって私たちの認識を導く。
 こうした社会規範や公共性は、かつてはその場所での営みの中で自然に生まれてくるものであった。同じ土地で、たくさんの人が争わずに仲良く生活するためにひつようだからである。それがはっきりと明文化されていったものが、法律や制度がたくさんあるように思える。「街角でギターを鳴らしてはいけません」、 「路上で物を売ってはいけません」、あげくの果てには(注)、「公園でキャッチボールをしてはいけません」ということになる。
 一体どういう意味があるのか明確ではないルールは単なる記号だ。それがなぜダメなのかという理由が共有できないまま、ルールは押し付けられて従っていることがある。そうやって与えられているルールに、自分でいちいち判断せずに従っていると、今度はそれが無意識の型となってくる
 なんとなく街を眺めて、なんとなくその場の型に従っていると、そのうちに周りの物事に対する疑問は次第に薄れていくのである。私たちは、なぜその行動をしているのか、なぜその場所にそのルールがあるのかを改めて考えなくなる。そうすると今度は物事の判断基準が「ルールに従っているかどうか」に変わってしまう。まなざしが集まるからルールが生まれるのではなく、決められたルールにまざしを合わせることになる。
 ルールとは私たちが共有している記号である。街ではどういう振る舞いが共有されていて、どういう行動は許されないのか。それに対して街の人々が想像したことが集合した結果として、取り決められるものである。しかしそれは繰り返される間に、だんだんと単なる記号になり、私たちの行動や認識も、単なる方型にはまっていく。だからこそ、もう一度それに正しくまなざしを向けなおすためには、その想像の型をいったん外して、全く違う型を取ってみることが重要なのである。
(注)あげくの果てには:そして最後には

1。 (64)橋田さんからの返事(B)に対して前田さんがさらに返信するときは、前田さんはまずどのようなことを書くべきか。

2。 (65)かつての社会規範や公共性について、筆者はどのように述べているか。

3。 (66)無意識の型となってくるとあるが、どういうことか。

4。 (67)筆者が言いたいことは何か。