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以下は筆者が本の中で「哲学の役割」について書いたものである。
ここで、大切なのは、とりわけ科学の意義と限界をしっかりと見定めて、人間的知の全体をほんとうに見渡しうる哲学的知の立場を我がのものとすることにある。というのは、科学的知は、二つの限界を持ち、その限界内でしか意義を持たないからである。
一つには、科学的知は、対象を突き放して、第三者的立場で、自分に関わりのない客観的事象として眺め、しかも、必ずそのつど、特定の観点からだけ対象を扱い、自分が関心を持つ側面だけを取り上げ、それ以外の局面を捨象し
(注)、けっして対象の全体を見ようとはしないのである。だから、科学が進むと、細分化が必至となり、隣の研究室でやっていることが、お互いにはまったくわからなくなる。専門化と特殊化が、科学の運命であり、いかに学際化が叫ばれても、ネ良本的には①
この傾向には歯止めが利かない。それはちょうど、近代的病院で、病気を扱う諸部門が、外科や内科等々として、細かく分かれ、人間全体を扱ってくれる部署は存在しないのと、同様である。
二つには、科学的知は、対象を、自分と無TIU 関係な事柄として扱う客観性がその特色をなしているので、そこでは、私たちが、自己として、主体的に決断して実践的に生きてゆく行為の問題を、本質的に扱うことができないのである。というのも、ある状況のなかで、いかに生きるべきかをよく考えて、決断し、行為してゆくためには、来し方行く末をよく熟慮して、もはや無い過去と、いまだ無い将来とを視野に収めながら、現在の状況のなかにつき入ってゆかねばならない。しかし、そのような無いものを視野に収めながら、記憶と期待という熱い思いを抱きつつ行為することは、知覚的に有る現在の事実に検証されることによってのみ確実性を得ようとする科学の実証性とは、まったく別個の事柄だからである。客観的な事実確認のみを大事と考える科学の次元と、人生の岐路に立って、右すべきか左すべきかに思い悩む行為者の立場とは、別個の事柄である。②
科学は、いかに生きるべきかという後者の問題を、本質的に扱うことができないのである。
したがって、科学とは別に、存在の全体を視野に収め、世界のあり方の原理的全体を考慮して、世界観の知を育むと同時に、そのなかで、人間はいかに生きるであるかという、人間の主体的な行為のオ良本を考究して、人生観の知を形成するところに、哲学的な知の本質的な成立根拠があることになる。哲学が愛し求める真実の知とは、こうした人生観:世界観の根本的な知にほかならない。
(二 郎『現代の哲学』による)
(注)捨象する: 捨て去る