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 このところ、「○○倫理」という言葉をしばしば耳にする。マスコミでは、政治倫理、企業倫理、メディア倫理などといった言葉はおなじみのものだろう。そうした言葉は、なにか問題が起きたときの掛け声のようなもので、空疎(注1)な常套句(注2)にすぎないのかもしれない。だが、漠然と、倫理といったものが必要だという気分が漂っているのは、事実であるように思う。
 ①そうした雰囲気を受けて、倫理学では、応用倫理学と呼ばれる分野が急速に成長し、さまざまな倫理が提唱されつつある。 たとえば、生命倫理、環境倫理、ビジネス倫理に始まって、情報倫理、工学倫理、スポーツ倫理、さらには、遺伝子倫理、脳神経倫理、ナノ倫理、ロボット論理といった具合に、言葉を見ただけでは、内容がにわかには想像しにくいものまで登場している。 「なんでも倫理症候群」とでもいいたくなるほど、「○○倫理」が大はやりなのだ。どうやら、現代は「②倫理的な時代」らしいのである。こうした倫理ばやりは、わたしのように哲学や倫理学を専攻する人間にとって、必ずしも喜ばしい事態であるわけではない。それは、倫理が空 気のようなものだからだ。
 普段、わたしたちが生活しているときに、空気を吸っていることをとりたてて意識などしな い。生きていく上で空気が必要なことはわかってはいても、希薄になって、息苦しくでもならない限り、空気は意識さ れたりはしない。
 倫理には、それと似たところがある。倫理がさかんに語られるのは、社会がそれまで通りにはいかず、息苦しくなっているような時代である。少なくとも歴史を振り返ってみると、「倫理的な時代」はいずれも価値観の大きな変動期にあたっていた。 つまり、それまで当然だと思っていた考え方や生き方が大きく揺らぎ、どう考え、どう生きたらよいのかわからないようなときに、倫理は求められてきたのだ。わたしたちが生きている現代は、そうした時代である可能性が高い。
 この場合、一番の問題は、変動期の人間には、先が容易に見通せないことである。現在は、 過去の歴史的な事例とは違って、どのような結果が待ち受けているか、あらかじめ知ることはできない。わたしたちは、そうした不確かさのなかで、現在を生きていかざるをえない。
 もちろん、こうした事態を、わたしたちが新たな未 来を切り開くのだと、積極的にいってみることはできるかもしれない。しかし、そうした積極的な態度や発言が簡単にはできないのが、「倫理的な時代」のとれあえずできるのは、が」あるのか、どのような問題が出てきているのかを知り、考えていくことである。 それが、現在を生きるということであるはずだ。
(注1)空疎
(注2)常套句:ここでは、中身のない形だけの言葉

1。 (65)①そうした雰囲気とあるが、どのようなことか。

2。 (66) 倫理と空気の似ている点について、筆者の考えに合うのはどれか。

3。 (67) 筆者は「②倫理的な時代」をどのような時代だととらえているか。

4。 (68)筆者は「倫理的な時代」を生きる人間にできることは何だと考えているか。