練習61
 そのホテルの前でタクシーを降り、入口に一歩足を踏み入れたとたん、ハッとした。
 BGM(注1)がいつになくはっきりと耳に飛び込んで来た。クラシック音楽、しかもパイオリンの音であり、やけに聞きなれたその音色。かけられているBGMが「私のCDの音だ」と気がつくのに、さほど時間はかからなかった。
 しかも、そのCDはかなり昔に録音したものであり、私は、稚拙な(注2)過去の自分を突き付けられたような敗北感に襲われた(注3)
 そもそも演奏家というのは、録音した自分の演奏は常に不満なものである。また、不満でなければ進歩はない。
 ましてや昔の録音となれば、前科(注4)を指摘された犯罪者の気分だ。きっと。
 はじめは自分の演奏に似ているなあと思いつつ、聴きすすむにつれ、その思いは確信(注5)へと変わった。
 気がつくと、地方のホテルの気のいい従業員が皆、満面の笑みを浮かべて(注6)私の顔を見ている。「そうですよ。これはあなたのCDですよ」と言わんばかりの笑顔が、私には重たい。サービスのつもりなのだろうが、①リラックス出来ないことこの上ない。
 クラシック音楽が流れているだけでも、私たち音楽家は瞬時に聴覚が緊張するのだ。
 それが同業種の楽器だったら尚更、思考回路までが仕事モードに切り替わり、それまで楽しく会話していた人との話も耳に入らなくなる。耳はBGMを傾聴し(注7)、感性は研ぎ澄まされ、それが例えばレストフンでワインを飲んでほろ酔い気分(注8)になってるときであれば、酔いは一瞬で醒める。(中略)
 部屋に入っても、全館であの音が鳴っていると思うと落ち着かない。私が売店やフロントに用事があって出ていくたびに、待ち構えていた「満面の笑み」が私を追い込む。
 布団を被って寝てしまおうとしても、どこからか「自分の音」が聞こえてくるような気がして、もうノイローゼ状態である。
 翌日、すっかり疲れ果てた私は、予定のフライトを早め、朝一番の便で帰ることにした。
 チェックアウトの時も、なんだか一層音量が上がったように感じられるBGMと、従業員のこれ以上ない満面の笑顔とが私を見送ってくれたことは言うまでもない。
 いやはや、過剰なサービスは客を苦しめる。良いホテルは適度な距離感を心得ている。その距離感こそが良い人間関係を作り出す。それはホテルだけの話ではないとつくづく感じた。
(千住真理子「「自分の音」に追われて」『文鞭春秋』平成22年11月号文革春秋)
(注1)BGM:ホテルや喫茶店などで流す音楽
(注2)稚拙だ:経験が足りず、下手だ
(注3)敗北感に襲われる:「負けた。だめだ」という気持ちになる
(注4)前科:以前に犯した多罪
(注5)確信:「絶対にそうだ」と信じて疑わない気持ち
(注6)満男の笑みを浮かべる:顔全体で、にっこりと笑うこと
(注7)傾聴する:熱心に聞く
(注8)ほろ酔い気分:少しお酒に酔って気持ちがいいこと

1。 筆者の職業は何か。

2。 ①リラックス出来ないのは、なぜか。

3。 この文章で筆者が最も言いたいことは何か。