練習6O
関東のおもだった(注1)デパートの「大食堂」は、とっくに姿を消した。ある年齢以下の人にはなんのことかもわからないだろう。子どもと高齢者のいる家族づれが、和洋中(注2)のなかから好きなものをえらんで、ひとつのテーブルで一度に食事ができた場所のことだ。ファミリーレストランとのちがいは、サービスの質だろう(後者のほうがよい)。
 大食堂では、注文するものや、その日の混雑具合によって、料理がはこばれてくる時間にばらつきがあり、ひと家族の注文したものが一度に出てくることはまずない。①それもサービスのうちにふくまれる今日では、まともな飲食店であれば連れの注文したものがきわだって遅いということはまれだが、昭和も四十年代には、あたりはずれの差が大きく、ひとりが食べおわっても、ほかの人の料理がまだこない、ということがありえた。
 大食堂のシステムは、見本をみて食べたいものを選んだら食券を買い、自分で席をさがしてテーブルにつく。ウエイトレスかウエイターを呼びとめ、半券を手渡せば注文したことになる。
 やがて料理をはこんできた人が、のこった半券を回収してゆく。これで完了だが、混雑時には注文したものとちがう料理がはこばれてきたり、あきらかにあとから席についたとなりのテーブルへ、自分が注文したのとおなじ料理が先にはこばれたり、などというサービスの基本にかかわる、混乱がたびたび生じた。
 席の案内係というのも機能しておらず、もうじき席を立ちそうな人の後ろで待ちかまえる(注3)、というふうだった(行列のマナーが今ほど漫透していない)。
 大食堂が消えた要因として、「食のニーズ(注4)の多様化」などと云われもしたが、わたしはそれよりも、消費者が質のよいサービスをもとめるようになったからだと思う。大食堂という乱雑な形式では、それにこたえることは不可能だったのだ。(中略)
 こんな具合の日曜日の大食堂で、だれが楽しめるものか。まともなサービスが追いつかず、消えるべくして消えた大食堂とらうシステムを、郷愁(注5)だけでなつかしむ人がいるようだが、わたしはごめんこうむる(注6)
 あんなざわざわがやがやしたところで(しかもお安くない)食べるくらいなら、セルフサービスのカフェのほうがよい、というのが現代だと思う。

(長野まゆみ「あのころのデパートよそゆきと、おでかけ」『yomyom』2010年10月号新潮社)


(注1)おもだった:主な
(注2)和洋中:和食、洋食、中華料理
(注3)待ちかまえる:用意して待っている
(注4)ニーズ:必要。要求
(注5)郷愁:過去のことについて「昔は良かった」となつかしく思う気持ち
(注6)ごめんこうむる:嫌だと断る

1。 ①それとは、何を指しているか。

2。 筆者の考える大食堂が消えた理由は何か。

3。 この文章で筆者が最も言いたいことは何か。