練習58
小学二年生のとき、隣に住んでいたダッグという友だちが、親からバースデープレゼントに「ウォーキートーキー」をもらった。つまり「携帯用無線電話器」だ。警察官や兵隊が使用するものと形はそっくり。ただし子供用に安っぽくできていて、通じる範囲はせいぜい百五十メーター。①
それでも近所で遊ぶには十分だった。
ダッグが裏庭の塀の真へ回り、ぼくは家の前の道を渡って木立に駆け込む。そしてだれにも見られなかったことを確認した上で、ボタンを押して交信開始一「ポプラの木まできた。そっちはどこ?どうぞ」。
方々走りながら見えない相手と会話できるというのは、当時のぼくらにとって衝撃的だった。けれど、互いの現在地を確認したあと何を話すのか、中身の面では物足りなさ
(注1)をいつも感じた。からかい合ったり、小学生なりの世間話をしたり、戦争ごっこにもあの無線をずいぶん使ったが、結局、互いの顔を見ながらしゃべったほうが楽し〈、「コリンズおばさんの庭のスズカケの木で落ち合おう
(注2)』。どうぞ」と合流地点を決めて、スイッチをオフに。
今、東京の街を歩いていると、携帯電話の会話の断片があちこちから聞こえてくる。仕事の段取りや、部下を叱る上司、恋人をふっているような話などなど。だが、むかしダッグと二人で散々
(注3)やった現在地確認の類いが、圧倒的に多い。車内で、②
「いま電車」という言葉を何度耳にしたことか。
こっちは開くつもりなんか毛頭ない
(注4)のに、盗み聞きを強いられるというのが、気に障る
(注5)主原因だろう。おまけに内容も、ほとんどが退屈なしろもので、少々興味をそそられるはずの別れ話さえ、ケータイで済まされてしまっていると、かなり殺風景
(注6)だ。
ぼくはケータイを持たない。一種の食わず嫌いだが、在りし日のウォーキートーキーでだいたい、交信の限界が分かったのか。それに外を歩いているとき、電話に出たいとは思わない。歩きながら考えたいと思う。しかも、他人のケータイの会話に妨害されずに。
(アーサー・ビナード『日々の非常口』新潮社)
(注1)物足りなさ:何か足りないようで、不満に思うこと
(注2)落ち合う:ある場所で一緒になる
(注3)散々:飽きてしまうぐらい何度も。よく
(注4)毛頭ない:全くない
(注5)気に障る:感情を害する。嫌な気持ちになる
(注6)殺風景:あるべき雰囲気や感情が感じられなくて、興味が持てない