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自分を表現する日本語は数多い。ワタシ、ワタクシ、オレ、オイラ、ボク、小生、時代劇なら拙者、身共、それがし、などなど。英語にかぎらず、たいていの言語では、自分を表現する言葉は一つで済む。なぜ日本語には自分を示す言葉がたくさんあるのか。たくさんあるということは、じつは①
「定まった私」なんて、ないということではないだろうか。
ジブンという言葉は、関西弁
(注1)では相手を指すことがある。
「ジブン、ニンジン嫌いやろ
(注2)」
などと、相手を指していう。関東で育った若者は、ひょっとすると、なんのことやら、意味がわからないであろう。むろんこれは、
「アン夕、ニンジン嫌いだろ」
という意味である。それならジブンは同時にアン夕という意味である。
これに類する使い方は、ほかにもある。「手前」という言葉がそうである。江戸
(注3)の店屋の番頭
(注4)が揉み手
(注5)をして、
「手前どもでは」
という光景なら、テレビの時代劇でやっているであろう。ところが下町の喧嘩になると、
「テメー、この野郎」
ということになる。このテメーは当然「手前」に由来するわけで、それならここでも、俺とお前は同じ言葉なのである。「己れ自ら」というときの「おのれ」は自分だが、侍が怒り狂う
(注6)と「おのれ、許さん」とかいって、刀を振り回したりする。後のほうの「おのれ」は、テメーこの野郎、のテメーと同じであろう。
あるいは小さい子に対して、
「ボクちゃん、ダメよ、そんなことしちゃ」
と叱っているオバさんがいる。ここでのボクも、②( )という意味である。これを外国人に説明しようと思うと、いささか
(注7)頭痛がしてこないだろうか。
要するに日本語では、③
俺とお前はどんどん行き来する。こんな言語がほかにあるかというのは、ほとんど愚問
(注8)であろう。少なくとも私は、探す気にもならない。
(養老孟司『無思想の発見』筑摩書房)
(注1)関西弁:関西地方で使われている言葉
(注2)~やろ:~だろう、~でしょう
(注3)江戸:今の東京
(注4)番頭:その店の店員のいちばん上の人
(注5)揉み手:何か頼むときや謝るときなどにする手と手をこするような行動
(注6)怒り話う:はげしく怒る
(注7)いささか:少し
(注8)愚問 :つまらない質問