(1)
これまでに一度だけ、友人に金を貸したことがある。もともと個人間での金の貸し借りはしないと決めているから、最初から返してもらうことは期待していなかった。こち
らから返済を求めたことはない。向こうから「返さない」と言われたわけでもない。そ
んな中途半端な貸し金だ。
三ヶ月かけて車でオーストラリア大陸を横断するという旅の費用で、わずかな金額ではなかった。
もちろん私は慈善家
(注1)ではないから、金を出したのには理由がある。①
人生が変わるかどうか、知りたかった。
それ以前の何年か、彼は家庭でも、仕事でも不本意
(注2)な状況に置かれていた。その苦じみがどれほどのものであったかは知らないが、彼はある日、すべてを投げ捨てて旅に出ることを決意し、その金を工面
(注3)するために私のところにやってきた。
彼はこの旅で、人生がやり直せると信じていた。
旅の目的は、誰もいない真夜中の砂漠で、赤い月とともに踊り明かすというものだった。こんな荒唐無稽な
(注4)話になぜ魅かれたのか、自分でも不思議だった。
誰もが心のどこかで、人生をリセット
(注5)したいと考えている。だが残念なことに、人生にはコンピュー夕ゲームのようなリセツトボ夕ンはない。
私たちが暮らす高度化された資本主義社会では、人生を変えたいと望む人々のために、さまざまにコンビニエントな
(注6)方法が用意されている。新興宗教
(注7)自己啓発セミ一
(注8)
(中略)薬物などはどれも、人生をリセツトするためのお手軽な道具の一種だ。
(中略)
私たちは、これらの方法がすべて幻想
(注9)であることを知っている。だがその一方で、どこかで人生を変える出来事を願ってもいる。
(中略)
私にも、漂泊
(注10)への抗いがたい
(注11)憧憬
(注12)がある。非日常の世界に身を投じたいという衝 動
(注13)がある。砂漠の月光の中で踊りたかったのは、②( )。
(橘玲『知的幸福の技術』幻冬舎)
(注1)慈善家:気の毒な人や困っている人を助ける人
(注2)不本意:自分が望むことではないこと
(注3)工面:必要なお金や物をそろえること
(注4)荒唐無稽:言うことややることが理由がなくでたらめなこと
(注5)リセット:最初に戻すこと
(注6)コンビニエントな:便利な
(注7)新興宗教:新しくできた宗教
(注8)自己啓発セミナー:自分を高める研修
(注9)幻想:現実にはないことを考えること
(注10)漂泊:どこへ行くか決めないで歩くこと
(注11)抗いがたい:反対できない
(注12)憧憬:あこがれ
(注13)衝動:目的もなく突然行動をしようとする心の動き