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この三年ほどをかけて、東京・新宿のデパートで、販売員の社員研修をしました。社員教育といっても、販売員の場合は、研修室にひきこもって
(注1)勉強や練習をしているだけでは意味がありません。現場、すなわち売り場に立って、お客様とのやりとりを重ねる中で、実地に
(注2)研修していかねばなりません。
その中で気づいたのが、販売員とお客様との距離の問題です。ある日ネクタイ売り場に、40代ぐらいの男性が一人、スタスタとまっすぐな一直線の動線
(注3)を描いて入ってきました。歩き方のスピードは、街中よりは遅いものの、デパート内の買い物の場面としては速い方です。視線がショ一ケースの上にとり出して陳列して
(注4)あった数本のネクタイのうち、真ん中あたりのものに止まりました。その瞬間、ぐっと近寄った販売員が間髪を入れずに
(注5)、「いらっしゃいませ、いかがですか。そちら、今年流行の柄です」。
すると、この男性客は、まるで販売員の言葉を無視するかのように、何と逆の方向へ歩き出してしまったのです。もちろんネクタイは買わずに、です。
これが客を追い払ういわゆる「客追い動作」と呼ばれるものです。
販売員がせっかくのチャンスを逃がしてしまった主な原因は何だったのでしようか?
その答えこそが、「販売員の対人距離のパフォーマンス
(注6)の失敗」なのです。つまり、失敗の第一の理由は、「距離の接近のいきすぎ」にあります。
(佐藤綾子『自分をどう表現するか』講談社)
(注1)ひきこもって:ずっと外に出ないで
(注2)実地に:実際に現場で
(注3)動線:人が動いたあとを線で描いたもの
(注4)陳列して:よく見えるようにならべて
(注5)間髪を入れずに:間、髪と区切って読む。すぐに、「髪の毛の入る間もないくらいに」の意味
(注6)対人距離のパフォーマンス:人と人との間に適当な距離を置く行動