(4)
これは私自身の経験ですが、私は全国の江戸時代
(注1)の古文書を仕事の必要から見ており、それを読んで筆写をしたりしていたのですが、ごく最近ふっと、なぜ自分が九州の文書を読めるのだろうかと疑問がおこってきたのです。
つい四、五年前、鹿児島
(注2)にいったときのことでした。バス停で五分ほど待っているあいだ、隣にいたお年寄り二人が、楽しそうに笑いながらいろいろな話をしているので、何を話しているのかなと思って、なんとなく耳を傾けて理解しようとしたのですが、何を話しているのかまるっきりわからない。もちろん単語ぐらいはわかるのですけれども、なぜこんなに楽しそうに話しているのかという文脈は、まったく理解できなかったのです。
その経験が文書を読んでいるときにふっと重なって、どうして自分は全国の文書を読むことができるのだろうということ自体を不思議に思ったわけです。
(中略)
つまり日本の社会の場合、文字社会、文書の世界は非常に均質
(注3)度が高い。これにたいして、無文字の社会、口頭の世界は、われわれが考えているよりもはるかに多様だということなのです。ですから均質な文字社会の表皮をはがしてしまうと、じつはきわめて多様な民俗社会
(注4)が姿を現すということになる。①
日本の社会はいまも決して均質ではないのです。
(網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』筑摩書房による)
(注1)江戸時代:1603年から1867年までの時代
(注2)鹿児島:九州の地名
(注3)均質:どの部分も同じ性質であること
(注4)民俗社会:一定の生活習慣や生活文化を持つ社会