読解力の第三のポイントは、文章の内容についての背景知識です。政治、経済、社会、科学、スポーツ、芸術など、文章のテーマそのものに関わる知識です。こういった背景知識も、これまでの国語の授業では、ほとんど取り扱われてきませんでした。
「先入観
(注1)を排除して文章を読め」という原則を貫く
(注2)ならば、文章の内容自体についての予備知識は、不要であるどころか、客観的・論理的な理解を妨げる障害になります。現代国語の参考書の中には、論理的思考力さえあれば文章の内容についての知識は必要ないと言い切っているものもあります。
たしかに、現代国語のテストは文章の読解力、表現力といった「国語力」を純粋に試すものですから、そのなかで文章の内容に関する背景知識を要求するのは邪道
(注3)かもしれません。しかし、まったく予備知識を持たずに文章を読むことは不可能です。排除しようと思っても、何らかの先入観が入り込んできます。
かりに何の予備知識・先入観も持たない人がいたとすると、その人は、文章で言われていることがどういう位置づけになるのか、たとえば過破な意見なのか穏健な
(注4)意見なのかも分からず、結局、文章の内容は頭に残らないことになります。
この意味で言うと、本当に必要なのは、「先入観を排除して読む」ことではなく「バランスの取れた先入観を持って読む」ことです。ただ、バランスが取れていれば、それは「先入観」ではなく、したがって「バランスの取れた先入観」というのは矛盾した言い方なのですが、ここで言いたいのはこういうことです。
さまざまな問題に関してさまざまな論じ方がある、そのことを具体的な知識として把握したうえで、その知識を①
いったん脇に置いて、先入観を排除して問題文に接する。それによって、たんに形式的な論理的思考力に頼るだけでは得られない、内容についての②
実のある理解ができるのではないか、ということです。
もちろん、どんなテーマの文章を読むのかによって、必要な知識は違ってきます。しかし、新聞や雑誌の論説-評論にせよ、新書
(注5)や教養書にせよ、現代社会を生きる私たちにとって「読解力」が問題になる場面で問われている背景知識は、一言で言ってしまうと、「近代」というものに対する理解につきます
(注6)。
(三上直之『「超」読解力』講談社による)
(注1)先入観:初めに持ったまま、固定した見方
(注2)貫く:絶対に変えない
(注3)邪道:望ましくないやり方
(注4)穏健な:おだやかな
(注5)新書:手のひらぐらいのサイズの本
(注6)つきます:一番重要である