長文
 写真の見方が分からない、どういうのが良い写真なのかよく分からない、という人がいます。作品を判断するのに何か①定規のようなものがあって、それを当ててやれば自分の写真の良し悪しが分かるのではないか、というのです。
 一般に、自分が見たものを人に伝える方法には、「言葉で話す」「文章にして伝える」「映像で伝える」の三つがあります。一見、それぞれ別のように見えますが、実は話しているときも文章を読んでいるときも、頭の中には、その内容が映像として浮かんでいます。映像は、話や文章の内容や表現が変わるにつれて、次々と変わってゆきます。言葉で話しているときも文字を読んでいるときも、映像を連想(注1)させているのです。その逆が写真で、写真は、映像から文字や言葉を感じさせてくれるのです。
 筆者は写真展や新聞、雑誌の中で「いいな」と思う写真に出会ったときは、自分はいま写真を見ているのではない、②写真が捉えたその場に立ち会っているのだ、と思うようにしています。人が撮ってきたモノとして、一歩引いたところで鑑賞するのではなく、自分も同じ現場でこのシーンを見ているのだと考えるのです。そうして、画面の中の人の声や周囲の音、匂い、モノの感触(注2)まで想像するのです。
 写真は、単なる紙の上の二次元(注3)の世界で片づけてしまうと、味も素っ気もない(注4)ものになりますが、映像の中に入り込んでみると、まるで生きているように活気づいてきます。いい写真だな、と思ったら忍者のように作品の中にもぐり込む、孫虚空やドラえもんになって自由にその空間と時間を飛び回ってみるのです。
 写真は実際にあった、ある瞬間を記録したものです。まだ見たことのない、めずらしい風景や人びとの生活の場に直接つれていってくれます。古いアルバムを開け、祖父母といっしょに写っている写真にもぐり込むと、子供の頃に戻って祖父母の声が聞こえてきます。
 良い写真とは、そこに写っている世界に入ってみたくなるような、あるいは、知らないうちに、われを忘れてい(注5)写真と話し込んでいるような、画面の中からいくつもの言葉が聞こえてくるような写真のことをいうのではないでしょうか。

(石井正彦『気づきの写真術』文藝春秋による)


(注1)連想:関連のあることを思い浮かべること
(注2)感触':手で触れたり、肌に触れたりしたときの感じ
(注3)二次元:立体ではなく、長さと幅だけの広がり
(注4)味も素っ気もない:つまらない
(注5)われを忘れて:夢中になって自分のことがわからなくなって

(1)①定規のようなものとは、どういうものか。

(2)②写真が捉えたその場に立ち会っているとは、どういうことか。

(3)筆者が考える「良い写真」とは、どのような写真か。

長文
(2)
 「読書感想文」をネット検索すると、感想文の既製品が束になってヒットする。「小学生向け」「中高校生向け」「大学生向け」ときめ細かく分類してあるサイトや、定番の『坊ちゃん』『羅生門』『こころ』(注1)などがすぐ見つかるものもある。そのまま書き写せば出来上がり。親切にも、「見つかっても自己責任で」と警告文までついている。
 学校に提出するのに丸写しでは①気が引けるという生徒向けには、(  )の空欄を各自の発想で埋めて完成させる「テンプレート」があり、さらに書名などいくつかの質問に答えると文が出来上がる「ジェネレー夕一(生成(注2)ソフト)」というイージーオーダー型もある。
 文をネットから書き写したことが見つかり、教師に注意されることも、この世界では計算ずみと見える。”犬も歩けば”風(注3)に検索を続けていくと、コピぺ(コピー&ペースト)が見つかった場合の「反省文」サイトに出くわす(注4)。「二度とこのような不始末(注5)は行いません」式のサンプルがあって、「順序を変えたり、言葉を換えたり、アレンジをして」反省文を書くようアドバイス。悪ふざけと思いつつも、その至れり尽くせりぶり(注6)に、ただ驚くばかりだ。
(中略)
 子どもの感想文とはいえ、採点する教師も試されている。出来栄えを評価するだけでも大変なのに、ネットからのコピぺかどうかを見定めるのは至難の業(注7)に違いない。
 安易に「よくできました」と言えない先生たちも相当多いらしく、ある大学教授がついに”コピぺ発見ソフト”を考案した。学生のレポートや論文が、ネット上の文章から書き写したものかどうかをチェックするためのものという。デジタル化された文をこのソフトにかけると、ネット上を走り回ってコピペチェックを行い、全文丸写しか部分コピぺか、その割合90%などと判定してくれる。これさえあれば、チェックの手間が大いに省ける。
 しかし、提出された文がコピぺと判定された場合、次に先生たちは、その生徒をどう扱うかで、また試されることになる。
その先は、いうまでもなく、生徒たちの側で「コピぺ発見ソフトを打ち破る」サイトが生まれ、②新たなイ夕チごっこが始まるに違いない。

(今泉哲雄「研究員の目コピぺ全盛、先生は試される」2010年3月24日付けYOMIURI ONLINEによる)


(注1)『坊ちゃん』『羅生門』『こころ』:いずれも小説のタイトル
(注2)生成:ものができること
(注3)”犬も歩けば”風:「何かをすれば、幸運に出会うこともある」という意味のことわざの「犬も歩けば棒に当たる」のような感じ
(注4)出くわす:偶然見つける
(注5)不始末:不注意や無責任な行動によって、人に迷惑をかけたり問題を起こしたりすること
(注6)至れり尽くせりぶり:すべてに注意が行き届いている様子
(注7)至難の業:するのがとても難しいこと

(1)筆者がネット検索して見つけた「読書感想文」の作成方法には、いくつのタイプがあるか。

(2)①気が引けるとあるが、どういう意味か。

(3)②新たなイ夕チごっこが始まるとは、どういうことか。

長文
(3)
 40%という低い食料自給率の日本で、まだ食べられるのに賞味期限(注1)切れが近付いたという理由で返品された食品を大量に廃棄している。消費者が賞味期限の表示の意味を理解していない、あるいは食品の鮮度にこだわりすぎる(注2)ことが原因で食品が売れ残ると消費者庁は考え、日付を過ぎても食べられるとPRすることや消費者の意識を改革する啓発(注3)活動を行うという。
 しかし、これだけでは食品の廃棄を減らすには不十分だと私は考える。なぜなら、いくつかの調査によれば、八割前後の人が賞味期限の正しい意味や賞味期限を過ぎた食品を食べても健康上問題がないことを知っているという結果が出ているからだ。
 賞味期限切れの近付いた食品はなぜ売れ残るのか。私の考えでは、原因は賞味期限切れの近付いたものと期限に余裕のあるものが同じ値段で売られていることにある。値段が同じなら、少しでも鮮度の良い、つまり賞味期限に余裕のあるほうを選ぶのは、食品の鮮度を気にする消費者としては当然である。一方、期限切れが近付いたものの価格を下げれば、消費者は新鮮で通常の価格のものと鮮度は少し落ちるが低価格のもののどちらかを選択できるようになる。(中略)
 ①値引き販売をすれば賞味期限の近付いた食品の売れ残りは減少するのに、メーカーや小売店はそのことに消極的である。現状では、消費者の安全に配慮して期限切れ間近のものは販売せずに返品・廃棄している。しかし、賞味期限を過ぎても食べられるのだから、それを販売しても何も問題はない。購入した食品を消費者が正しく保存・管理しなかったせいで健康に問題が生じたとしても、それは本人の責任である。また、値引きが恒常化する(注4)と定価で購入する消費者が減少し、ブランドイメージが低下するという考えもあるが、企業の社会的責任という観点からも食品の大量廃棄を続けるのは望ましくない。
 現状ではメーカーや小売店は賞味期限切れの近付いた食品を売ろうという努力をせずに返品・廃棄しているが、それを購入するかどうかを消費者に委ねれば(注5)売れ残りは減少し、食品の廃棄も減らせるはずだ。それゆえ、消費者庁はメーカーや小売店が返品・廃棄の前に値引き販売を実施するように指導し、消費者が食品を安く購入できるようにすべきである。

(熊倉和幸「賞味期限前食品の廃棄」よみトク小論文講座2010年12月7YOMIURI ONLINEによる)


(注1)賞味期限:おいしく食べられる期限を示す年月日
(注2)こだわりすぎる:気にしすぎる
(注3)啓発:人が気づかないでいることを教え、知識や理解を深めること
(注4)恒常化する:いつものこと、あたりまえのことになる
(注5)委ねれば:任せれば

(1)この文章によると、賞味期限切れが近づいたという理由で食品を返品したり廃棄したりしている理由は何か。

(2)①値引き販売をすれば賞味期限の近付いた食品の売れ残りは減少するとあるが、どうしてそう考えられるか。

(3)この文章で筆者が言いたいことは何か。

長文
(4)
 もともと世界中の人々は同じ言葉を使っていた。そして自分たちが地上にちらばってしまうのを防ぐため、統合の象徴として天まで届く高い塔を建設しようと考えた。これがバベルの塔です。
 ところが神は、人間がこのようなことを企てるのはみんなが同じ言葉を話しているせいであり、放っておくとどんなに大それたこと(注1)をしでかす(注2)かわからないと考えて、彼らの言葉を混乱させてたがいに理解できないようにしてしまった、というのですね。世界には3000以上の言語がある、とはじめに申し上げましたが、なぜ言葉がこんなにばらばらになってしまったのかを説明するために、こうした物語が考え出されたのでしょう。
 確かに、地域によってこれだけ多様な言語が使われているというのは、考えてみれば不思議なことでもあり、たいへん不便なことでもあります。もし世界中の言語が統一されたら、どこに行っても誰とでも話せるし、外国旅行も気軽にできるわけですから、どんなに便利だろうと思ったことのある人も少なくないでしょう。実際そうした理念(注3)から、世界共通の言葉として「エスペラント語」という人工言語を作る試みがなされてきたことは、みなさんもご存知だと思います。
 しかし、逆にこう考えてみることもできるのではないでしょうか。もし世界にひとつしか言語が存在しなかったとしたら、これほど変化に富み、これほど魅力的で、これほど豊かな文化が生み出されることはなかったのではないか。言語がばらばらだからこそ、世界にはあんなにも個性にあふれた多彩な文化が形成されてきたのではないか。そして私たちは、それらの文化に触れることで、自分とは異なる価値観、異なる習慣、異なる思想、異なる信仰をもった人たち、つまり①絶対的な「他者」というものが、世界のいたるところで生きているのだという厳粛な(注4)事実にはじめて想いをいたし(注5)、そのことに率直に驚き、心の底から謙虚になることができるのではないか。また、そうした人々と話がしたい、理解しあいたいという、切実な(注6)欲求を抱くことができるのではないか。
 つまり、バベルの塔が挫折(注7)してしまったせいで、確かに世界の人々は別々の言語を話すようになり、簡単にはコミュニケーションがとれない不便な状況に置かれてしまったけれども、逆にそのおかげで、私たちは未知の言語を学ぶ機会を与えられたのであり、それを通して、異文化にたいする関心やあこがれを抱く喜びを与えられたのではないか一むしろそう考えてみるべきなのではないでしょうか。

(石井洋ニ郎「『星の王子さま』と外国語の世界一文化の三角測量」
東京大学教養学部編『高校生のための東大授業ライブ純情編』東京大学出版会による)


(注1)大それたこと:常識の範囲から大きく外れていること
(注2)しでかす:大変なことをしてしまう
(注3)理念 :物事がどうあるべきかについての基本的な考え
(注4)厳粛な:厳しい、変えられない
(注5)想いをいたし:遠く離れた物事に関心を向けて
(注6)切実な:身近で重大なために、強く感じられる
(注7)挫折:だめになること

(1)筆者は、「バベルの塔」の物語が考え出されたのはなぜだと言っているか。

(2)①絶対的な「他者」とは、どのような人たちか。

(3)筆者は、人間社会に多くの異なる言語が存在することをどう考えているか。