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近年、わが国では、物事を解説したり、考え方や視点を明確に伝えたりする際に、難解な言葉や文章を使うことは敬遠され、よりわかりやすい言葉や文章、語りが求められる傾向が頭者である。テレビの番組などでニュース解説を担当するキャスターの中には、そのわかりやすい解説で人気を博す(注1)者もある。わかりやすさは確かに重要であり、学校の授業でもよい授業、子供たちの効果のよい学習活動が展開される授業における指導者の言葉や解説は、わかりやすく的確である。さらに各種の映像装置を駆使するなど、わかりやすさを実現するための技術も進歩している。そこでは、言葉が思考と伝達のための主たる役目を担うことになるが、そのわかりやすさはときとして、受け取る側の思考の多様性や広がり、深まりを妨害することがある。
わかりにくいものとわかりやすいものがあれば、人は当然わかりやすい方を選択する。わかりやすく的確な言葉は、そのまま学習者の中に蓄えられる。そして、多くの人はその時点で学習が終了したと考えるのである。わからなかったことがわかった、新しい知識を得た、これが学習の最終段階だと思ってしまうのである。しかしそれは、自身の中にその解説を発した人の言葉や考えを取り入れたにすぎない。「学びの真正性(注2)」とは、そこから自身の新たな思考を広げ、それらが表現される段階まで進むことである。そして、その多くは自分一人で行われるものではなく、他者との関係性の中で成立することが多い。
(注1)博す:得る
(注2)学びの真正性:ここでは、本物の学び