希代の喜劇作家。現代の戯作者(げさくしゃ)博覧強記(はくらんきょうき)の知恵袋。時代の観察者。平和憲法のために行動する文化人。
 井上ひさしさんを言い表す言葉は、幾通りも思い浮かぶ。だが、多面的なその活動を貫いた背景は一つ。自分の日で見て、自分の頭で考え、平易な言葉で世に間う姿勢だ。
 本や芝居は、深いテーマを持っているのにどれも読みやすく、わかりやすい。それは、ことの本質を掘り出して、丁寧に磨き、一番ふさわしい言葉と語り口を選んで、私たちに手渡していたからだ。
 そのために、( 41 )たくさんの資料を集め、よく読み、考えた。途方もない労力をかけて、自分自身で世界や歴史の骨組みや仕組みを見極めようとしていた。
 この流儀は、井上さんの歩んだ道と無縁ではないだろう。
 生まれは1934年。左翼運動に加わっていた父を5歳で亡くし、敗戦を10歳で体験した。戦後の伸びやかな空気の中で少年時代を過ごすが、高校へは養護施設から通った。文筆修業の場は、懸賞金狙いの投稿と浅草のストリップ劇場。まだ新興( 42‐a )だった( 42‐b )台本で仕事を始め、劇作家としては、デビュー当時はまだ傍流とされていた喜劇に賭けた。
 王道をゆくエリートではない。時代の波に揺られる民衆の中から生まれた作家だ。だからこそ、誤った大波がきた時、心ならずもそれに流されたり、その波に乗って間違いを( 43 )しないためには、日と頭を鍛えなければならない、歴史に学ばなければならないと考え、それを説き、実践した。
 特に、あの戦争は何だったのかを、繰り返し、間い続けた。
 復員した青年を主人公に、BC級戦犯の問題を書いた「閣に咲く花」という芝居に、こんなせりふがある。
 「起こったことを忘れてはいけない。忘れたふりは、なおいけない」
 井上さんは2001年から06年にかけて、庶民の戦争責任を考える戯曲を3本、東京の新国立劇場に書き下ろした。名付けて「東京裁判3部作」。
 東京裁判を、井上さんは〈(きず)のある宝石〉と呼び、裁判に提出された機密資料によって隠された歴史を知る( 44 )ことを評価している。
 同劇場は、8日から、この3部作の連続公演を始めたところだ。その翌日、拍手に包まれて幕が下りた直後に、井上さんは旅立った。
 くいつまでも過去を軽んじていると、やがて私たちは未来から軽んじられることになるだろう〉。公演に寄せた作者の言葉が、遺言になった。
 生涯かけて築いたのは、広大な言葉の宇宙。( 45 )きらめく星座は、人々を楽しませてくれる。そして、旅する時の目当てにもなる。

(「朝日新聞」2010年4月13日付)

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