以下は、伊能忠敬という人物について書かれた文章である。

 初めて正確な日本地図を作成した人物として知られる伊能忠敬は、1745年、上総国(今の千葉県)に生まれた。優れた経営者だった忠敬だが、50歳を前に仕事をやめ、興味が
あった星や暦について高橋至時のもとで(48)。19歳も年下の至時を忠敬は敬い、熱心に勉強した。
 当時の学者たちの関心は、地球の直径を知ることにあった。江户(今の東京)から蝦夷地(今の北海道)までの距離は当時はまだわからなかったが、それが(49)正確に直径が計算できると知った忠敬は、蝦夷地へ行くことを願う。しかし、蝦夷地に行くには国の許可が必要だった。至時は、蝦夷地の地図作成を理由に国の許可をとり、忠敬を担当にする。(50)、忠敬55歳のとき、地図作りの旅が始まった。
 昼間は測って歩き、夜は星を観察して昼間測った数値を修正する日々が続いた。完成した蝦夷地の地図は国から高く評価され、忠敬は東日本の地図作成も(51)。地図作成の旅は順調に終わったが、完成前、忠敬を支え続けた至時が病気で亡くなってしまう。一番の理解者である至時を失い、忠敬はひどく落ち込んだ。だが、悲しみに耐え、さらに命じられた西日本の地図作成にも取り組む。旅を終え、完成に向けて作業の最終段階に入っていた1818年、忠敬は73歳で人生の幕を閉じた。作業は弟子らが続け、1821年、日本全国の地図が完成した。
 忠敬は自分に大きな仕事ができたのはすべて至時先生のおかげだと書き残している。歴史に残る(52)は、二人の信頼関係によって、誕生したのである。

1。 (48)

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3。 (50)

4。 (51)

5。 (52)