「希望」とか「絶望」とか、あるいは「後悔」とか、そういう言葉を心理学辞典で引いてみたことがあるだろうか。そんな日常的な言葉などわざわざ引くまでもあるまいと思うかもしれないが、実際、心理学辞典をいろいろ見てみたら、そもそもそういった項目がのっていないのである。そんな言葉は国語辞典の領分であって、心理学の辞典にのっていなくても当たり前だということだろうか。しかし、①
それは変ではないか。私たちの日常の心理現象の中で希望や絶望、未練や後悔は大事なもので、だれにとっても非常に大きな問題であるはずだ。それが心理学の辞典にのっていない。つまり、心理学の対象にされていないのである。それは、なぜか。
一つは、人を外側から捉えようとする②
視点の問題がある。つまり、現代心理学は、いわば「他者の心理学」に徹している。かんたんに言えば、子どもの発達を研究するとき、子どもの外に視点を置き、そこから子どもに「生後何歳何カ月」といった時計的な時間の物差しを当てて、その育つ過程を観察する。しかし、そうした見方からは、子どもが昨日の体験を抱え、明日に向かって、今を生きるという、子ども自身の主体の世界は見えてこないのではないか。
だれもが生まれてから死ぬまで、時の流れの中を生きている。その時の流れの中に身を置いた視点からしか見えてこない主体の世界がある。それを研究の枠から外しておいて、人間の心をとらえることはできないのではないか。私はそう思う。だが、主観の世界などというあいまいあなものは相手にしないという立場をとる現代の心理学は、結局、外から客観的に観察することの可能な「他社の心理学」に徹して、そこから出ようとはしない。とすれば、そこでは希望とか絶 望とか、そういう概念が問題にならないのは当然だろう。
もう一つは、科学そのものの問題である。自然科学は現在の「現象=結果」を過去の原因に結び付け法則化する学問である。心理学も科学である以上、この「原因⇒結果」の枠組みから逃れられない。現在の心理をすべて過去によって説明しようとする。しかし、そうなると、私たちの心的世界の多くを占めている。「明日」とはいったい何なのだろうか。人間を外から観察して未来を予測するだけならそれでいいかもしれない。しかし、その人間を内側から見たとき「明日」は単なる予測の対象などではない。明日は、私の中で希望として、絶望として、あるいは不安として、期待として現象するのだ。
こうしてみれば、③
心理学辞典に「希望」がないわけははっきりする。今の心理学が「希望」を語る枠組みを持っていないからにほかならない。生物学辞典のどこを見ても「希望」がないのと同じなのである。
(浜田寿美男『意味から言葉へ』ミネルヴァ書房 による)