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交通信号の赤を見ると、私たちは止まらなければなりません。青を見ると、進めという意味に理解します。もしそのときに、赤信号が、「止まれ。」という意味以外に何か私たちの感覚や感情を刺激するものを表すなら、事故が起きてしまいます。ですから、信号に対しては、否応なしに「一か、ゼロか」、あるいは「Aか、非Aか」というデジタルな捉え方をしなければなりません。さもなければ秩序が乱れてしまいます。このように、日常生活においては、①
コトバが信号化することは確かなことです。
たとえば私が、「コップをください」と言ったときに、皿が来たら困るわけですから、「コップ」という語はとにかくコップという物を指す信号であり、「皿」という語は皿を指す信号であるわけです。しかし同時に、私たちは、経験的に②
そうではないコトバがあることを知っているのではないかと思うのです。
つまり、舞台で演じる人の表情や動作、音楽とか絵画とかと同じように、聞くたびに読むたびに、そのつど新しい意味を与えられる、そういうコトバのことです。あるときは人のコトバに感動し、またあるときは激しく傷つけられる。こういう二度と味わえない体験を引き起こすコトバがある。そこに込められた複雑な感情を私たちは、そのコトバのイントネーションや声の調子などから感じ取ります。これは非常に重要なことです。文学や哲学の作品に、私たちが体験の一回性を読み取るのは、そういうコトバで書かれているからにほかならないのです。
(丸山圭三郎『フィティシズムと快楽』紀伊國屋書店による)