65年前のきのう、東京の下町したまちは米軍の爆撃で焦土になった。
 10万人が亡くなった東京大空襲とうきょうだいくうしゅうだ。
 夜を選び、日標の周囲に火の手を上げさせ、逃げ場をふさぎ、その中に30万発の焼夷しょうい弾をたたき込んだ。火災による上昇気流で、重さ60トンのB29爆撃機が飛行中、600メートルも吹き上げられたという。犠牲になったのは女性や子どもたち( 41 )普通の都民だった。
 これを機に米軍は日本本土の軍事目標への爆撃から都市を丸ごと破壊する戦略爆撃に転換する。2日後に名古屋なごや、その翌日は大阪おおさか、4日後に罪芦。犠牲者は30万人に上ったという。
 20世紀になって戦争による民間人の死者が格段に増えた。ひとつの理由は、戦略爆撃が繰り返されたことだ。( 42‐a )爆撃は米軍が編み出した( 42‐b )ではない。1937年、ドイツ軍の空襲で1600人が殺されたスペイン内戦下のゲルニカが有名だが、さらに大規模な都市空爆は、日中戦争中の日本軍による重慶じゅうけい爆撃だった。38年から5年間で1万人以上が犠牲になった。
 空からの都市攻撃で敵国の戦意をくじこうとする作戦はその後、第2次大戦で多用され、ロンドンやドイツのドレスデンでも大変な犠牲者を出した。そして終戦直前、広島ひろしま長崎ながさきに原爆が投下され、言葉で( 43 )ほどの惨状を被爆地にもたらした。
 重慶は国民党政権の臨時首都だった。爆撃のすさまじさはエドガー・スノーら米国の記者によって世界に伝えられたが、戦後の中国では被害者が声を上げにくく、彼らの体験が直接伝わるようになったのは近年のことだ。
 東京と重慶の被害者はそれぞれ日本政府を相手に集団訴訟を起こしている。重慶は爆撃した日本の責任を問い、東京は米国に対する補償の請求権放棄を問題にしている。東京の被害者も重慶にとっては加害国の一員だが、立場の違いを超えて連帯し、それぞれの被害の実態についてまともな調査すら行われていない現状を訴える。
 東京地裁とうきょうちさいは昨年末、東京大空襲訴訟での損害賠償請求を棄却したが、立法による解決を求めた。実態調査について「戦争被害を記憶にとどめ、語り継いでいくためにも、( 44 )配慮することは国家の道義的義務」とした判決は重く響く。
 近年、精密誘導兵器の進歩で街中の標的をピンポイント攻撃することも軍事技術的には可能になった。とはいえ、おびただしい数の核兵器が今なお世界中に存在し、( 45 )それが拡散する危険が強まっている。戦略爆撃を生んだグロテスクな思想は依然として過去のものになってはいない。
 65年前、東京で何が起きたか。誰がどう犠牲になったのか。今日の戦争と平和の問題を考えることにつながる。

(「朝日新聞」2010年3月11日付)

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