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大きなものから小さなものまで、東京には数え切れないほどたくさんの公園がある。私はもともと草や樹が好きだったので、公園で時間を過ごすのも楽しかった。
ところが、いつからか、公園の中をのんびりと歩けなくなっていた。まるでラッシュアワーの駅のプラットホームのように、せかせかと歩く自分に気付き、もっとゆっくり過ごしてもいいんじゃないかと自分自身に言い聞かせてみるのだが、それができない。なぜか?と考えても理由はわからなかった。周囲を眺めると、花壇を囲んだブロック、丸く刈り込まれた樹木、歩道を固めたコンクリート、街灯、箒で掃除した跡……、人の手が入ったところばかり、やたらに目についてしかたがなかった。無理に緑の木々を眺めていようとすると何だか白けてしまって、5分も続かない。これが公園嫌いの始まりだった。
公園は、目的など持たずに時を過ごす場所として、木々や草原を柵で囲っている。私にはそれが庶民に配給されたもののように思えてならなかった。必要な意味のある建物を作った残りの部分をほんの少しだけ分け与えられた土地、そこでゆったりとした時間を過ごして元気になったら、さあ、次は街の中へ戻って 働くなり勉強するなりしなさいと、だれかに命じられている気がした。
そう思うと、今度は、自分の①
暮らしが、ばらばらに分断され人工化されていることに気付いた。自分の部屋、毎日利用する食堂やレストラン、喫茶店、図書館、映画館など、私はそれあらを行ったり来たりして生活している。「いいじゃないか、電車を使うほど広い家に住んでいると思えば。」という考えは、私には、気休めにしかならなかった。
私の公園嫌いは、( )。
(中沢けい『往きがけの空』河出書房新社による)