チンパンジーは、さまざまなあいさつの仕方を持っている。おじぎ、握手、抱擁、ひれ伏す、肩を叩く、軽く相手にさわる、それにキスさえする。ゴリラは深いおじぎをするが、その他のあいさつ行動は貧弱である。なぜ①チンパンジーにだけあいさつ行動が豊富なのか。
その理由は彼らの特殊な社会構造に求められる。チンパンジーの集団は、ニホンザル(注1)の群れと同じく、複数の雄と複数の雌による20~100頭の集団である。②ニホンザルの群れは閉鎖的で、青年以上の固体が群れから遠く離れて4,5日も行動したりすると、群れに戻りにくくなる。特に雄は、まず復帰できず、よそ者とみなされて追い出されてしまう。ところが、チンパンジー社会は、メンバーの離合集散が日常的に行われる社会で、若い雄と雌が仲良く旅行に出かけて行き、1か月もたってから帰ってくるといったこともある。そうしたとき、帰ってきた連中は、集団の仲間にあいさつをする。そうすると、ごくスムーズに集団に入れてもらえる。
このように、時間的空間的に離れていたための距離感、疎遠感をあいさつによって消し去り、もとの社会関係を回復することができるのである。チンパンジー社会では、個体の行動の自由度が大きく保証されているが、あいさつはそれを可能にするための行動なのである。このことは、われわれ人間のあいさつ行動に照らしてみると、よく理解できる。なぜ、いつ、われわれはあいさつをするのか。
③それは、日常的には、相互に時間的空間的に離れている場合に限られている。2、3日出張して職場に戻ったとき、仲間にあいさつする。あるいは、家族の間でも夜寝る前に「おやすみ」と言い、朝起きると「おはよう」とあいさつする。眠るという行為は、相互の認知空間の遮断である。「おはよう」とあいさつする。眠るという行為は、相互の認知空間の遮断である。つまり、眠っている間は、人と人の関係は断たれている。どうやら、人間関係というものは、いかに深い間柄でも、わずか一夜の隔たりがあると薄められてしまうものらしい。あいさつという行動は、薄められた関係をもとの濃度に還元する作用を持つものなのだ。
つまり、あいさつは、薄められた個体関係の間に、相互の心の通い合うチャンネルを作る行為なのである。(河合雅雄『子どもと自然』岩波書店による)