①
コミュニケーションは、響き合いである。
「打てば響く」という言切がある。ひとこと言えばピンときてわかってくれるということだ。鑑を描いたときに、ゴーンと鳴り響く。あの振動の感触が、コミュニケーションの場合にもある。二人で話しているときに、二つの身体がーつの響きで充たされる。そんな感覚が、話がうまくできているときに訪れることがある。これはそれほど奇跡的なことではない。 (中略)
私たちは言葉でのやりとりをコミュニケーションの中心だと考えがちだ。しかし、言葉を使いはじめる以前までの膨大な時間、人類は存在してきた。その間にもコミュニケーションは当然成り立っていたはずだ。集団で暮らしている状態でセコミュニケーションがないということは、考えられない。動物園の猿山を見ていると、②
それがよくわかる。
猿山にはコミュニケーションがあふれている。あちらこちらで、もみ合いが起こっている。誰かがトラブルを引さ起こし、また別の猿が加わって事態をややこしくさせる。感情をむき出しにして、相手に伝え合う。自分の思いをそれぞれが通そうとする。思いがぶつかり合い、身体がもみ合うことで、現実が推移していく。ここには人間の使うような言語はないが、コミュニケーションはふんだんにある。猿山の別の所では、母猿が小猿のノミ
(注)をとってやっている。小猿は気持ちよさそうにうっとりしている。言葉を使わなくても、気持ちは交流している。母猿の指先の動きを一つひとつが、小猿の心を動かしている。猿山の中で、それぞれが居場所を見つけ、時折移動しては関わり合う。この距離感覚自体が、コミュニケーションカなのだ。
響く身体、レスポンスする身体。この観点から猿山をみていると、猿の中には冷えた響かない身体は見つけられない。一人で部屋に閉じこもってテレビを見たり、パソコンをいじったりする空間がないこともその一因だろう。推測だが、一人でこもることのできるきわめて快適な環境を与えたとすれば、そこに引きこもり続けた猿は仲間と響き合う身体を徐々に失っていくだろう。使う必要のない筋肉や能力は衰えていく。使わなければ、力は落ちていく。
言語的コミュニケーションは、身体的コミュニケーションを基盤にしている。動物行動学の研究は、動物たちが身体的コミュニケーション能力にあふれていることを教えてくれる。人間は言語という精緻な記号体系を構築した。それによって高度な情報交換が可能になった。しかし、その一方で、身体的コミュニケーションの力が衰退する③
条件ができてしまった。
(斉藤基『コミュニケーションカカ』 岩波書店による)
(注) ノミ : ほ乳類や鳥類に寄生する小さい曲