(2)  
人的資源としての国民の健康管理をめざす国家にとっては悪であろうが、個人にとっては現世(注1)的快楽に身とをゆだねることもひとつの生きかたである。「生きるために食べる」とい
う立場ではなく、かつての手段とされていたものが目的化して、「食べるために生きる」人間も出現しているのである。
 快楽を肯定して早死にするか、節制して長生きをするかは個人の哲学の問題であり、医学や栄養学のおよばぬ領域であるかもしれない。そのさい、自分の生きかたをきめる個人が無知であってはならないであろう。 (中略)
 わが国の栄養士は国家のさだめた栄養指導者である。そのおもな役割は、学校や病院など集団給食の場における栄養管理にある。集団を対象としているので平均値としての栄養管理であり、食物にたいする個人的な差異は無視されがちである。しかし、それを食べる個人は、身体的差異をもち、文化的に形成された食物にたいする独自の価値観一たとえば嗜好(注2)など一を別にする人びとである。
 ながいあいだ、近隣の家族のかかりつけの医師として活動してきたホームドクターは、患者の職業、家族構成、体質、病歴、経済状態などを熱知したうえで、疾患の処置をしたり、健康維持のためのアドバイスをおこなう。それとおなじように、これからの栄養学にもとめられるのは、集団ではなく、個人を対象としたコンサルタントである。

(石毛直道『石毛直道 食の文化を語る』 ドメス出版による)


(注1) 現世:今、生きている世界
(注2) 嗜好 : 飲食物についての好み

1。 (53) 筆者は、「食べるために生きる」人間の生きかたはどのようなものだと述べているか。

2。 (54) 無知であってはならないであろうとは、どういう意味か。

3。 (55) ホームドクターの例をあげることによって、筆者はどんな意見を述べているか。