短文
 近代化された西洋風のマンションの中に一室だけ残された畳の間。ふつうその畳の間だけを和の空間と呼ぶのだが、本来の和は別のものである。むしろ西洋化された住宅の中に畳の間が何の違和感もなく存在していること、これこそ本来の和の姿である。
(中略)
 畳の間や和服や和食そのものが和なのではなく、こうした異質のもののなごやかな共存こそが、この国で古くから和と呼ばれてきたものなのである。少し見方を変えるだけで、この国の生活や文化の中で今も活発に働く本来の和が次々にみえてくる。

(長谷川相『和の思想』中公新書による)

(46)筆者の言う本来の和と合っていないものはどれか。

短文
 集団にも個人とおなじように、それぞれ性格があるのはたしかだ。しかし、例外というものがある。それが千に一つの例外であるとか、百に一つ、十に一つといつたふうに、程度に差があって、取り扱いのウエイト(注)をかえねばならない。いずれにしても、一つの例外を拡大して、それを集団の性格であると規定すれば、おとし穴に落ちたことになる。

(陳 舜臣「日本的中国的」徳間文庫による)

(注)ウエイト:比重

(47)筆者が最も言いたいことは何か。

短文
 脳とコンピューターが似ているのは、いずれも計算や記憶ができるからだ、と思っている人がいます。しかし、計算や記憶をするのはあくまでも脳であって、コンピューターはソロバンやメモ用紙のような道具に過ぎないのです。両者が似ているのは、その基本的な仕組みです。
 脳の主役は神経細胞ですが、その細胞からは細くて長い神経繊維という糸が出ています。そして、その神経細胞の先端は別の神経細胞に接触するという形で、次々とつながってゆきます。その接触するところをシナップスとよんでいます。つまり、脳は神経細胞またはシナップスを結び日とした巨大な神経網ということができます。その点が、多数の素子が配線で結ばれているコンピューターと似ているのです。

(千葉康則「ヒトはなぜ夢を見るのう」PHP研究所による)

(48)脳とコンピューターの似ているところはどこか。

短文
 かつては〈制度〉といえば、ほとんど、国家(法的国家)、地方自治体、政党、結社、学校、会社、組合などといった、明確に実定化(注)され、法制化されたもののことしか、考えられなかった。もともとそのような制度は、私たち人間が集団生活を営み、その集団が大きくなりそこでの人間関係が複雑化し間接化するに応じて形づくられたものである。つまり、そうしたなかで社会生活が合理的に運営されていくためには、社会関係そのものが合理化され、客観的に示されねばならなかったのだ。

(中村雄二郎「術語集」岩波新書による)

(注)実定化:人間が作り出した法として定めること

(49)筆者は、制度とはどのようなものだと言っているか。

中文
 威張るのはよくないと思っている人が多い。しかし、威張るとは自分の役割に忠実になることである。そして役割に忠実になるとは、自分の権限と責任を自覚し、それを打ち出す勇気をもつということである。
 たとえばスチュワーデスが「お客さま、お煙草はサインが消えるまでお待ちいただけないでしょうか」というのは自分の責任に忠実な瞬間である。出すぎたことでもないし、生意気をいっているわけでもない。教授が学生に「レポートは事務室に提出のこと。拙宅に郵送しても採点しない」というのは教師の①権限を発揮しているわけで、権威主義とか押しつけというわけではない。
 自分の役割を明確に打ち出さないから後で後悔したり、人に無視されたり、なめられたりするのである。組織とは役割の東である。各自が自分の役割に忠実になるから組織はスムーズに動くのである。②遠慮は無用とはこのことである。
 ところが給料は役割に払われていることの自党が足りない人がいる。いつもニコニコして人の和を保っている好人物であるという理由で給料をもらっているわけではない。権限と責任を発揮するという契約を果たすからこそ給料をもらっている。つまり給料をもらうには気合がかかっている必要がある。これを私は威張ることをためらうことなかれと少し極端に表現してみたのである。

(目分康孝『幸せをつかむ心理学』PHP文庫による)

(50)筆者が言う①権限を発揮している例としてふさわしいものはどれか。

(51)筆者は、何に対して②遠慮は無用だと言っているか。

(52)筆者の考えと合っているものはどれか。

中文
 私は、世界初、日本初、業界初、市場初などとついた商品が出るとワクワクするというミーハー(注)だ。電卓が小型化、薄型化を競いはじめたころ、名刺サイズで厚さが5ミリメートルくらいのが初めて発売されたときには、結構な値段にもかかわらず飛びついてしまった。
 数字に弱いにもかかわらず、仕事で電卓を使うことが多かった私にとって、電卓をいつも身につけることができる名刺サイズは、①大きな福音に思えた。しかも、出はじめの商品であるだけに、同僚たちに自慢ができるというミーハー心もくすぐられたからでもある。
 しかし、買ってしばらくは定期入れと一緒に持ち歩いていたが、1カ月もしないうちに元の電卓を使うようになり、カード電卓は机の引き出しでほこりをかぶってしまうようになった。
 ②それは、名刺サイズにするためにキーを小さくしており、しかもその操作感も頼りないために使いにくかったからである。また、胸ポケットなどに入れると、本体がねじれるため接触不良をおこし、故障したりもした。
 そういったことがあったため、その後、電卓が薄型化を競い合い、キーの突起がないフラットなものまで出てきたが、さすがにミーハーの私でも飛びつくことはなかった。もちろん、名刺入れに入るというカード電卓のよさはあるが、ある意味では非常用であり、指の大きさや器用さから言えば、ものには「適度な」大きさがあることを学んだのである。

(岸田能和「ものづくりのヒント」かんき出版による)

(注)ミーハー:程度の低いことに熟中しやすく、流行に左右されやすい人

(53)筆者には、なぜ①大きな福音だと思えたのか。

(54)②それは何を指しているか。

(55)名刺サイズのカード電卓を使ったことで、筆者がわかったことは何か。

中文
 行列にもいろいろある。そして、行列は、私たちの生活に必要なものでもあり、重宝なものでもある。電車の切符を買うとき、スーパーのレジで、銀行のカードで金の出し入れをする自動の機械、あれは何と言うのだろうか、あの機械を使うとき、タクシー乗場やバスの停留所で、私たちは行列するが、あれは私たちの社会生活のルールであり、当然である。
 けれども、回転ずしの空席待ちの行列などには、他ではいけないの、と言いたくなる。
 食べ物屋には、よく行列ができる。うまい店だからであろう。だが、そういう行列を見ると私は、他にもうまい店は、たくさんあるのに、と思い、①ズレを感じる
 そう言えば、以前、青山五丁目の小さなパン屋に、何日間ぐらいだっただろうか、パンを買う人の長い行列ができたことがあった。
 パンが焼き上がる時刻が近づくと、数十メートルの行列ができる。親に、学校の帰りに買って来い、と言われたのであろう、ランドセルを背負った子供も並んでいた。
 ところが、その行列は、間もなく消滅した。( ② )。行列がなくなってから、私はためしにその店のパンを買って食ってみたが、うまいパンであった。だが、他の店のパンもうまい。行列してまで手に入れなければならないほどのものとは思われなかった。あのような、瞬間的流行のような行列もある。

(古山高麗雄「行列」1999年5月11日『日本経済新聞』による)

(56)①ズレを感じるとは筆者のどのような気持ちを表しているのか。

(57)( ② )に入る文はどれか。

(58)筆者は文中で行列を2種類に分けている。その分け方として正しいものはどれか。

長文
 生老病死をなぜかみな嫌がります。できれば考えたくない。そこでどうするかというと、たとえば人間が生まれるのも特別なことだから、病院へ行ってくれというのです。そうして、お産は現在ほとんど病院で行われている。(中略)
 生老病死の最後の死ぬところですが、これも都会ではもう90%、いや99%の人が病院で亡くなります。私の母は、95年の3月、自宅で死にましたが、いつの間にか死んでいました。しかし大半の人々は病院で死にます。このように死ぬ場所が病院に移ったのはここ25年の傾向で、急速にそうなりました。以前は半分以上が自宅で亡くなっていました。では、自宅で亡くなることと、病院で亡くなることの違いは何か――。これは、我々が普通に暮らしている[ A ]の中に、[ B ]がなくなってしまったということなのです。だから、死が特別なことになった。そして特別なことは特別な場所で起こることになったのです。
 そんな現代は、よくよく考えてみると、大変な異常事態なのです。生老病死というのは、人の本来の姿です。こっちが先で、何千年何万年も続いてきた間違いのないことなのです。都市よりも文明よりも何よりも先に生老病死があつた。だから私はこれを「①自然」と呼ぶのです。人の一生は好きも嫌いもなく時期経過とともに変化していく。それが自然の姿なのだと私は思う。なのにいまは自然つまり本来の姿であるほうが異常になってしまった。
 かけがえのない未来を大切にしていない典型的な例をあげてみます。私は95年の3月に東大(注)をやめました。正式には94年の9月の教授会でやめることが決まりました。教授会のあと同僚の病院の先生が来られて、「先生、4月からどうなさいますか」と話されるのです。「3月でおやめになるそうですね」「やめます」「4月からどうされるのですか」。これは、勤めはどうするのですかという質問です。私は「私は学生のときから東大の医学部しか行ったことがないので、やめたら自分がどんな気分になるかわかりません」と申し上げました。「やめてから先のことはやめてから考えます」と。するといきなり「そんなことで、よく不安になりませんな」と言うのです。思わず「先生も何かの病気でいつかお亡くなりになるはずですが、いつ何の病気でお亡くなりになるか教えてください」と言い返してしまいました。「そんなこと、わかるわけないでしょう」と言うから、「それでよく不安になりませんな」と申し上げました。
 ここで②はっきりわかることがあります。特に東大のお医者さんです。大学病院ではしょっちゅう患者さんが亡くなるので、人が死ぬということが、自分の仕事の中にきちっと入っています。ところがそういうお医者さんが、自分が死ぬということに現実感を持っていない。自分が病気になって死ぬことよりは、勤めをやめたりやめなかったりする、そのことのほうがよほど重要なことだと思っているのです。

(養老孟司「かけがえのないもの」白日社による)

(注)東大:東京大学

(59)[ A ]と[ B ]に入る言葉の組み合わせはどれか。

(60)筆者が①自然と考えるものはどれか。

(61)筆者は、どんなことが②はっきりわかると言っているのか。

(62)筆者の考えに最も近いものはどれか。

統合理解
A
 難しい漠字を多く含む196字が追加された改定常用漢字表。学校現場でいつからどう教えるか、という大きな課題に対し、文部科学省は、中学から読みを、高校で書くことを中心に指導する方針を打ち出した。(中略)
 「高校で主なも のが書ける」と いうこれまでの目標は踏襲し、「主な」漢字が何かは、各校 の判断に任せるとした。入試では、書かせる問題に偏らな いよう求めたものの、明確な歯止めは示していない。
 もし、入試でことさら難しい漢字を取り上げる傾向になば、学校でも、必要以上に書くことの指導に力を割くことになりかねない。現場の教員からは 「授業時数が限られる中、200字近 い漢字の増加自体、生徒にも教師にも大きな負担だ」との声も上がっている。学習を助ける教材などの開発が急がれる一方、入試については何らかの歯止めを示すことも検討課題だろう。

(二〇一0年九月二五日 読売新聞による)

B

 常用漢字表が改定され、これまでの千九百四十五字から二千百三十六字になった。パソコンの普及で自分では書けな いような漢字に触れる機会が増えたためで、その分、難しい漢字も多く盛りこまれた。
 ゆとり教育を見直し、学習すべき内容が全体的に増えている中、漢字が一割も増えたら、教師や生徒は戸惑うだろう。とはいえ、府県名など今ま で使えなかった漢字が使えれば生活が便利になるし、善く側には難しい字でも読む側には一日で意味がわかり、負担ばかりだとは言いきれない。
 漢字は言語生活に欠かせない重要なものであり、その時代に合わせた漢字が必要になる。この常用漢字表改定を機に、生活に必要な漠字について改めて考えてみたらどうだろうか。

(63)AとBのどちらの記事にも触れられている内容はどれか。

(64)「新常用漢字表」について心配されていることは何か。

(65)AとBは「新常用漢字表」についてどのような立場をとっているか。

主張理解
 日本人には①テクニックという言葉に抵抗を感じる人が多いらしい。
「小手先のテクニツクではなく、心が大事だ」
「表面的なテクニックではなく、ほんものの内容を身につけるべきだ」
などと言われる。テクニックという言葉は常に否定的に扱われる。テクニックは本質と関わりのない小手先の表面的な技術だとみなされる。
 しかし、言うまでもないことだが、テクニックがあるから、物事を実践できる。理念だけ、理論だけでは何もできない。理念を実践するためには、それなりのテクニックが必要だ。いくら理想が高くてもテクニックがなければ、物事を実行できない。テクニックがあってはじめて、理念を現実のものにできる。
 私は、人生のほとんどがテクニックだと考えている。恋愛もテクニック、勉強もテクニック、人付き合いもテクニックだ。
 モーツァルトは②天才だったと言われる。その通りだど息う。だが摩訶まか)不思議な能力がモーツァルトに備わって、音楽が次々と自動的に流れたわけではないだろう。モーツァルトは幼いころから父親に音楽の英才教育を受けた。そうしてさまざまなテクニックを身につけた。天才というのは、たくさんのテクニックを知り、それを適切に用いる能力を持った人間、ということにほかならない。
 人付き合いも、テクニックが必要だ。人に好かれるのも、実はテクニックにはかならない。人付き合いの上手な人とは、テクニックをいつの間にか自然のうちに身につけた人のことなのだ。だったら、人付き合いが苦手な人は、意識的にテクニックを習得する必要がある。
 テクニックと割り切ることによって、練習ができる。テクニック自体を練り上げ、上達することができる。そのための修練を積むことができる。
 コミュニケーシヨン術も、テクニックと考えて習得に努めてほしい。③この心構えがあってこそ、自分のものとして使いこなすことができるようになるはずだ。
 ただし、もちろん、人付き合いのテクニックというのは、人と人が理解し合えるようになるための道具でしかない。テクニックだけを身につけて、本当に理解し合うことを求めなければ、そのテクニックは意味がない。相手を本当に尊敬してもいないのに、テクニックだけで尊敬したふりをしても見破られる。すべてテクニックだということは、テクニックさえあれば心の交流は不要という意味ではない。自分の気持ちをきちんとわかってもらい、心の交流をなしとげる目的のために、テクニックがすべてを決する、という意味にほかならい。それについては誤解しないでいただきたい。

(籠口裕一「「人間通」の付き合い術」中央公綸新社による)

(66)日本人は①テクニックとはどんなものだと感じていると、筆者は言っているか。

(67)筆者は、②天才とは、どんな人だと述べているか。

(68)③この心構えとは何か。

(69)この文章で筆者が言いたいことは何か。

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(70)ごみの捨て方として、正しいものはどれか。

(71)Aさんは、フランスに旅行をした友達から現地で買ったフランス製のチョコレートをお土産としてもらった。そのチョコレートが入っていたプラステック製の箱を捨てる方法として正しいものは次のどれか。

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