俳句のように字数の限らちれた作品では、たった一字の違いが作品の出来を大きく左右する。その良い例として次の句が挙げられる。
 「米洗う .前に蛍が 二っ三つ」
 普、まだ水道のなかったころの時代だろう、蛍が飛び交う季館だから、初夏のころ、タ刻、水辺の近くが思い浮かぶ。おそらく川で米を洗っていたのだろう。井戸の水を汲んで洗っていたのかもしれない。ここでは川の流れを想い描きたい。米を洗うのは、やはり少女だろう。必ずしも、貧しくて不幸な身の上に限定することもないだろうが、もの思いにふける乙女がふさわしい。ふと見ると、目の前に蛍が…という情景がすぐに浮かんでくるのだが、さて、この俳句を示された江戸時代のある歌人は、「これでは蛍が死んでいることになる」と言い、「蛍が飛び交うようすを表す」ことができないと言って、次のように直すべきと批評したという。
 「米洗う 前を 蛍が二つ三つ」
 この旬に続く動思を補ってみるとわかりやすい。
 「米洗う 前に 賞が二つ三つ (いる・落ちている)」
 「米洗う 前を 蛍がニニつ三つ (飛んでいる・飛ぴび交っている・飛び回っている)」
  また、「蛍が二つ三つ」と表していて、蛍の数を特定できていないのだから、蛍はそれだけの速度で飛んでいたと考えるほうが理にかなっている。
 さらに、はほかの助調を比べてみると、また、違いがよくわかる。
 「米洗う 前へ 蛍が二つ三つ (飛んで来た)]
 「米洗う 前で 蛍がニつ三つ (動いている・何かしている)」
 確かに、「に」という助詞は、ある一定の場所を指し示し、対象が静止しているようすを表すことになる。後ろや横ではなく「前に」 という意味を表す。「へ」という助詞は、向かう方向を示すので、動きはともなうが、見ている自分 (少女) の「前へ」 到着したという意味になり、そこで動きは止まってしまう。「で」 になると、これもまた動作・行為を表しはするが、その動作・行為が行われる場所・空間が限定されてしまうため、その空間を出られなくなってしまう。いずれも蛍の自由な飛翔を表現することはかなわない。
 こうして四つを比較してみると、俳句として最も優れたものが (  )であることは自ずと明らかだろう。思春期の多感な少女が薄暗い中、川の流れを前にして、米を洗っている。何かー心に思いつめて。ふと、何かの気配を感じて目を上げると、きれいに光る蛍が二、三匹、飛び交って、空へ消えて行った。少女は、その美しきに見とれて、光の跡を目で追った。
 であれば、ここはどうしても(  )でなければならぬ。
 今では、 実際に学校で、この旬を使った授業が行われているという。日本人の青葉に対する美意識はこうして磨かれ、受け継がれているのであった。
  (往) もともとは「米洗ふ前に汎のニッニッ」という表記だったものをここではわかりやすく変えてある。

1。 「問1」 筆者が、この俳句の登場人物には少女がふさわしいと言っているのは、なぜか。

2。 「問2」 最初の俳人名は、なぜよくないと言っているか。

3。 「問3」 (  )に入る言葉として最も適当なものは、どれか。

4。 「問4」この文章で、筆者が言いたいことは何か。