企業の社会的資任 (Corporate Social Responsibiity) という言葉がある。日本では、「企業による社会貢献」と解釈されることが多いが、それるも含めて、企業組織が巨大化しグローバル化すればするほど、その社会的な影響力も大きくなるのだから、企業も社会の一員として資任を果たさなければならないと考えるのは当然のことでもある 企業が規模を拡大できるほどの利益を上げらちれたとしたら、それは商品を購入してくれた消費者のおかげであり、もしその利益がさらに増大したときは、消費者への恩返しとして余剰利益を社会に還元するのである。このような社会貢献を実現する基になる考え方が企業の社会的次任である。
このことは、現代の企業が、もはやただ単に自社の利益を追求するだけの組織ではないということを意味している。むしろ徹底した「利益の追求] は、社会と矛盾を来すまでに至っていて、利益を追求するあまり、法律に違反し、環境を汚染したり、消費期限を偽って販売したりする会社が後を絶たない。そんなことをすれば、いずれ発覚し、マスコミが取り上げる事件となって、倒産に追いやられることはわかっている。なのに、やめられない。 会社が「利益を追求する」 ための組織だと信じて疑わないからである。そんな会社の不正を社員が告発しようとすれば、英雄視されるどころか、逆に、裏切り者として排除されてしまう。それもこれも、「会社の目的は利益追求である] といった古い観念に染まっていて、「企業の社会的責任」という発想が存在しないからである。
かといって、利益があり余っているからといって、やれ美術館だの音楽ホールだのと文化施設をやたらに造る企業もちあるが、それが宣伝広告の効果を狙っただけのものであることも多く、決して褒められたことではない。文化というものは一朝一タに形成されるものではなく、長い時間をかけて策かれるものだからだ。
企業が誤解してはいけないのは、ここのところだ。大企業の中の人聞はともすると自分たちが社会を作っていると勘違いしがちなものだ。だが冗談ではない。企業の歴史な どたかが知れている。企業はあくまでもる社会の一員であるにすぎず、社会の長い歴史の中のほんの一部分でしかない。その社会の中で現に生きている人々とどのように関わるのか、どのようにして文化の一端を担うのか、そこに杜会的資任が問われんているのである。