長文

 (前略)猿の生態を詳しく観察すると、我々がどうしてあいさつをしなければいけないのかが、よくわかる。つまりあいさっというのは、出合ったものが相互に殺しあい、その世界を自分ひとりのものにしようとする手続きの、回避策なのである。ただし、の点で誤解をしてはならないのであるが、あいさつをすることによって猿は、その世界を共有するべく了解するのではない。逆である。あいさつをすることによって猿は、それぞれが別世界に存在することを確かめるのであり、それがたまたまその一点で交叉したに過ぎないことを了解するのであり、従って殺しあう必要のないことを知るのである。つまりあいさっというのは、それぞれが存在する世界の位相(注1)が、すれ違っていることの確認である。
 その証拠に猿は、世界を共有しようとして近づいてくる相手に対しては、猛烈に排除する。逆に群棲しているもの同士は、それぞれにかぶさりあっていても位相を異にする別の世界に存在することカ認されているのであり、時にあいさつを交わしてそのことさえ確かめていれば、それぞれに侵略しあうことはないのである。
 このことは恐らく重要であろう。あいさっというものは、出合ったもの同士がそれぞれに無害であることを確かめるための手続きである、と一般にはみなされていて、それ自体は間違いではないのだが、その時我々は同じ世界を共有しているのではなく、全く別の世界にそれぞれ分離されているのであり、だからこそ無害なのである。つまりあいさつの中には、相手がそれ以上自分自身の世界に近接しないよう警告を発し同時に、相手を相手の世界の中に封鎖して閉じこめようとする呪術(注2)的要素が含まれているのだ。
 我々は、親しいものに対してはよくあいさつをし、①知らないものに対しては全くあいさつをしない。ということは、我々にとって、親しいものの方がともすれに肴害となるのであり、従って度々あいさつを繰り返して無害なものにするべく努力する必要があるであり、逆に知らないものの方がむしろなのであって、当然あらためてそれを無害なものにするべく試みる必要はないのだ、ということを示している。言ってみればあいさつは、従来言われているように「親しみをこめて」するものというより、むしろ「親しみをこめるのをやめてもらう」べくするものなのだ。親しいもの同士が、「はい、そこまで」というのがあいさつにおける②正しい姿勢である。
 
  (別役実「日々の暮し方」白水Uブッラス)
  (注1)位相:それが現在置かれている状況や位置。
  (注2)呪術:超自然的・神秘的な力を借りて、願いをかなえようとする行為。

(1)①知らないものに対しては全くあいさつをしない。のはなぜか。

(2)あぃさつについての②正しい姿勢とは、どのようなものか。

(3)この文章では、あいさつのどういうことを説明しようとしているか。

(4) 筆者の述べているあいさつの働きを以下のようにまとめる場合、(   )に入る適当なものはどれか。
「私たち人間は、あいさつすることで(  )」

長文
 新国立劇場俳優研修所の研修生の選考基準を一言で、といわれてもそう簡単に答えられるものではありません。実際、選考方法も数名の委員で何度も討議を重ねています。特定の作品のオーディションならば、はじめから選考する作品のそのキャラクターが決まっていますから、たとえ何十人と会おうが、ある程度見た瞬間に①選ぶことは可能でしょう。
 ところが研修所では十年後を見据えなければなりません。今、せりふを上手にしゃベることができても、それがいったい何になるのでしょう。高校を事業したばかりの初々しい十八歳から小劇場を二つくらい経験してきたような三十歳までが集まっています。
 せりふを小器用にこなし、敏捷びんしょう)に体を動かせたりすることではなく、基本的にその人間としての輝きを見ること、その輝きが消えることのない情熱によるものとしか答えようがありません。三年間の基礎訓練のなかで、その人が自分をどう見つめ、鍛えていくのか、その後、より大きくなったその人がプロの俳優としてどのような方向へ進んでいくべきなのか、それも同時に考えておくべきことなのです。
 また、俳優としての基本的な技術だけを身につけても、それだけではまだ俳優ではありません。自分自身の表現のための確かな演技力と同時に、人間への観察と洞察を続け、世界への理解を深めていかなければ「俳優」にはなれないのです。
 音楽家が楽器を使いこなす技術を身につけたうえで、そこから自分の音楽をつくり上げていくように、俳優にも技術力と同時に、表現力と想像力が必要になってくうのです。そこで毎回違った自分と出会うためのレッスンが持続的に必要となり、粘土細工のように一つのカタチをつくってはその歪みに気づいて崩すという作業が繰り返され、いろいろな表現の可能性の幅を広げていくことが、新しい作品と出会うたびに求められるのです。
 では「努力は才能を超えるのか」という問いに対して、「素質の発見」が必要だと答えます。誰もが、必ず何かの素質を持っているはずであって、あるときはそれを自分で発見できるように導いてやることも必要でしよう。しかし、自分で自分を見つけることを教える教則本などは、ありません。自分が足を前に出さない限り、教師がいくら動いて見せても無駄であるように。
 演劇がどんなに好きであっても、俳優に向いていないこともあります。(中略)また、演劇の仕事を断念し、故郷に戻る人もいるでしょう。しかし、その場合でも、その人たちが故郷に帰って、いい観客になる。もちろん演劇を教える教師を志す人が出るかもしれない。そうやって②間口が広がっていくことで、大切な演劇人が広がっていくことにもなるのです。

(栗山民也『演出家の仕事』岩波新書による)

(1)①選ぶことは可能でしょう。とあるが、何を選ぶのか

(2)筆者は、俳優研修所の研修生の選考基準は何であると述べているか。

(3)②間口が広がっていくとあるが、どういう意味か。

(4)筆者が述べてぃることと合ってぃるものはどれか。

長文
 テキストを一段落ずつ生徒に声を出して読ませるということは、日本の学校の国語の授業でも度々行う。
 「はぃ、◯◯君、良く読めましたね。では、△△さん、次の段落を読んでください」
 となる。ところが、ソビエト学校の場合、一段落読み終えると、その内容を自分の言葉で掻い摘んで話すことを求められるのだ。かなリスラスラ文字を読み進められるようになり、おおよその内容も理解できるようになった私も、この掻い摘んで話す、ということだけは大の苦手だった。当然、絶句してしまい先生が諦めてくれるまで立ち尽くすということになる。非ロシア人ということで大日に見てくれていたのだ。
 ところが、ドラゴンは執念深かった。なかなか諦めてくれない。しかし、十二分に楽しんだはずの本の内容を話して聞かせようとするのだが、簡単な単語すら出てこないのである。俯いて沈黙するわたしに、ドラゴンは助け舟を出してくれた。
 「主人公の名前は?」
「ナターシヤ……ナターシヤ・アルバートヴァ」
「歳は幾つぐらいで、職業は?」
「ハチ。ガッコウイク。ニネン。」
「ふ―ん、八歳で、普通学校の二年生なのね。それで」
(中略)
 わたしの話を聞き取ることに全身全霊を傾けている、ドラゴンの獰猛(どうもう)に輝く青緑色の瞳に吸い込まれるようにして、わたしは何とか本のあらすじを最後まで話し、さらには作者のメツセージを曲がりなりにも(注1)言い当てることができた。それでもドラゴンは飽き足らず、二冊目の本について話すよう催促し、同じような執念深さで聞き取っていく。ようやくドラゴンから放免されて図書館から出てきたときは、疲労困憊(こんぱい)して朦朧(もうろう)とした意識の中で、金輪際(注2)①ドラゴンの尋間は御免被りたいと思ったはずなのに、まるで肉食獣に睨ままれて金縛りにあった小動物のように、わたしは図書館の本を借り続けた。そして、返却するときにドラゴンに語り聞かせることを想定しながら読むようになった。活字を目で追うのと並行して、内容をできるだけ簡潔にかつ面白く伝えようと腐心(注3)しているのである。
 (中略)
 ある日、国語の授業で、声を出して読み終えた後、国語教師はいつものように期待せずに、②形だけの要求をした
 「では、今読んだ内容を掻い摘んで話して下さい」
 わたしは自分でもビックリするほどスラスラとそれをやってのけた。いつのまにか、わたしの表現力の幅と奥行きは広がっていたのだった。国語教師もクラスメイトたちも、しばし呆気にとられて静まりかえった。

 (米原万里『心臓に毛が生えている理由J角川文庫による)

 (注1)曲がりなりにも:不完全だが。完壁ではないが一応。
 (注2)金輸際:決して。絶対。
 (注3)腐心する:ある目的のために一生懸命になること。苦心する

(1)ソビエトの学校では、読んだ文について自分の意見を言わなければならない。

(2)「ドラゴン」は、どんな人だと考えられるか。

(3)①ドラゴンの尋間とあるが、「尋問」 の目的として最も考えられるものはどれか。

(4)②形だけの要求をした