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 自分一人がサバンナにぽつんと立っていて、そこにライオンが来れば自分が食われてしまう可能性は非常に高いわけですが、もう一人いれば、確率はニ分の一になります。三人いれば三分の一、というように、多くいればいるほど自分が犠牲になる確率は少なくなるのです。
 (中略)
 では、団は大きければ大きいほどいいのでしょうか。そんなことはありません。あまり大きくなると、こんどは①損失が生じてきます。一人あたりの分け前が減るのです。有限の食物が集中して存在しているときには、それを食べる人数が増えれば増えるほど一人あたりの取り分は減ります。取り分を増やそうとすると、新たな食物を探さなければなりませんが、それには移動のためにエネルギーや時間を使わなければなりません。つまり、捕食者対策の利益と採食競合の損失の釣り合いがとれたところで、集団の大きさは決まっているといえます。
 集団が大きくなると採食の面で損失が増えるといいましたが、実はこれは集団がひとつしかない場合のことです。隣接する集団がいて、同じ食物を巡って争っている場合はどうでしょうか。集団間の争いの場合、単純に考えて数が多い方が優位になります。ということは、数が多い方が採食にとって有利に働くこともあるのです。

(小田亮「ヒトは環境を壊す動物である」ちくま新書による)

(1)①損失の内容に最も近いものはどれか。

(2)筆者の説明と合っているものはどれか。

(3)この文章は主に何について述べたものか。

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 首相から人気グループ、霊能者(れいのうしゃ)、一般の人たちまでが、急に声をそろえて「ありがとう、ありがとう」と連呼(れんこ)するようになった感がある。いったいどうしてなのだろう。そして、この現象は本人が「ありがとう」ど感謝するだけでなく、他の人にも「ありがとうと感謝すべきだ」という空気をつくっているようにも思える。(中略)
 「感謝の心を持とう」とすすめる論の多くは次のように言う。日々の生活の中にちょっとした不安や心配があったとしても、とにかくこの世界に生まれたこと自体(じたい)奇跡(きせき)なのだから、まずはそこに感謝するべきなのだ。そして、たとえ最高の人生を歩んでいなくても、とりあえず身近に家族や友人がいるなら、その人たちに「ありがとう」という気持ちを持てばよい。これ自体は、ある意味で正論(せいろん)なのだが、内実(ないじつ)(注1)は、「たとえ幸せとは言えない状態であっても、感謝するべきなのです」というメッセージにもなってしまっている。(中略)
 いくら苦しい状況でもとりあえず感謝せよ、と言われることで、本来、家族や社会あるいは時の力に対して持つべきだった疑問、行うはずだった抗議も①口に出せず、「これも運命なんだ」と受け入れてしまう人も増えてしまうのではないだろうか。そうした「ありがとう」の押しつけは、結局のところ、苦しみを背負うのは自分ばかりという自己責任の考え方に向かうことになる。

 (香山リカ「「悩み」の正体」岩断書による)

(注1)内実:内部の実情、本当のところ

(1)最近どんな人が増えていると筆者は述べているか。

(2)①口に出せずという状態になるのはなぜか。

(3)この文章で筆者が最も言いたいことはどれか。

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 大昔の人びとは、花にかこまれていました。だから、花をわざわざ表現しようと思わなかつたのです。ところが、人間は文明を発達させるにつれて、自然をこわしていきます。そして、自然をこわせばこわすほど、人は①花を表現するようになったのではないでしょうか。
 森林や草地を開いて、垣根(かきね)をつくります。垣根のなかには、木を植えたり草花を植えたりして花を楽しみます。建物のなかはいくつもの部屋に分かれた完全に入工的な空間です。この人工的な空間のなかで、人間は長い時間をすごすようになってきます。そうすると、殺風景な気分を和らげるために、そこに自然をもちこみたくなります。部屋の壁に花の模様を使ったり、花の絵を飾ったりします。生け花を飾り、鉢植えの花をもってきたりします。窓の外には花壇をつくります。
 (中略)世界的にみても花の造形の歴史は新しく、とくに花専門の絵が出てくるのはわずか100年前のことなのです。このように花の造形の歴史がひじように新しいという事実の好釈として、知的な発達で人間は花を愛するようになったという解釈もあります。しかし私はむしろ、人間は自然をこわせばこわすほど花を愛すうになったのではないかと考えているのです。
 
 (佐原真r遺跡が語る日本人のくらしJ岩波ジュニア新書)

(1)ここでの①花を表現する例として、適当でないものはどれか。

(2)この文章によると、人間が花を愛する気持ちを強くするのはなぜだと考えられるか。

(3)この文章では何を説明しているか。

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 具体的に問題解決をはじめるときに重要なことは、ようするになにをやりたいかという「目的」をはっきりさせることだ。
 (中略)
 なお、目的を明確化すると言っても、一方で、とても具体的な目的が最初から与えられる場合もある。たとえば、会社の上司から「うまくアイロンをかけられるロボットをつくりなさい」と言われたとしよう。そのときには、その上司の言ったことのほんとうの意図をくむようにしよう。それをしない忠実な①部下は、それではアイロンを握つて、布を適当な力で押しつけることのできるロボツトアームや、布のしわを見つけるロボツトビジヨンの設計に、すぐとりかかるだろう。
 しかし、そうではなくて、この上司は「洗濯が終わつたら、できるだけ早く服を着られるようにしたい。そして、その目的の一つの具体的な方法として、アイロンがけロボットをつくれ」と言っているんだな、と考えると、なにもアイロンがけロボットにこだわる必要はなくなる。たとえば、衣料の繊維自体に手を加えて、洗濯してもしわができない繊離にしてしまえば、アイロンがけ自体が不要になる。すでに形状記憶繊維が普及しているから、②のような考え方の有効性はみんなわかっているよね。
(広瀬茂男『ロボツト創造学入門』岩波ジユニア新書による)

(1)この文章では、①部下をどのような人物の例として挙げているか。

(2)②のような考え方とあるが、その内容として全わないものはどれか。

(3)「アイロンがけロボット」について、筆者はどう述べているか。

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 「フランス料理」という通常のカタカナ表記では特別の語感(※1)は生じないが、漢字で「佛蘭西料理」と書くと、漢字の重々しい雰囲気で高級そうな感じになる。店の看板が「佛蘭西料理」となっていると、値段が心配になって店の前で財布の中身を調べたくなるような高級感が漂う。あえてその表記を使った店主の気(※2)も感じられるような気がする。「カレーライス」でも「カレー」でもなく、特に「カリー」という表記を打ち出した着板にも、どこにでもあるカレーとは違うの味を主張している雰囲気があり、客のほうも店主の占負(※3)を感じるかもしれない。
 東京にイタリア料理のピッシャの店が登場した昭和三十年代中ごろには、まだ「ピザ」という語はなく、「ピッシャ」という用語は単に珍しい食べ物をさす外来語であるという以外に、特別な語感は働かなかった。が、その後、その料理が広まり、特にアメリカ型の宅配ピザ(※4)がはやりだしてからは、日本中で「ピザ」という語が一般的になり、
 今では「ピッシャ」と呼ぶ人はめったに見かけない。そういう時代になった今、あえて「( A )」というイタリアのことばを看板に掲げる店を見ると、そんじよそこら(※5)の( B )とは違うとする職人の自負を感じる。その語を特に選んで使う客のほうにも、ある種のこだわりがあるのだろう。ことばは情報とともに、そういう自負やこだわりをも相手に送り届ける。
 
 (中村明「語感トレーニングー日本語のセンスをみがく囲岩書による)
 
 (※1)語感:その言葉から受ける感じ、印象、ニユアンス
 (※2)気概:強い意志
 (※3)自負:自分のオ能や知識、業績などに自信と誇りを持つこと
 (※4)宅配ピザ:家まで配達されるビザ、そのようなサービス
 (※5)そんじよそこら:(「どこにでもある」という気持ちをこめて)どこかその辺

(1)「フランス料理」ではなく、「佛蘭西料理」と表記することでどのような効果があるか。

(2)( A ) ( B )に当てはまる言葉は、次のうち、どの組み合わせか。

(3)本文の内容に合っているものはどれか。

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 私が大学生だった当時、入学式後のキャンパスで、授業科目選択における「楽勝科目」や「ドハマリ授業」の情報を紹介する、学生サークル発行の情報誌が飛ぶように売れていることに強い違和感(※l)を持つた。むしろ単位取得が難しいとされる「ドハマリ授業」を選択するほうが自分の成長につながるのではないか。そう考え、友人たちが「楽勝科目」を中心に授業を選択する中、あえて「少人数の自主ゼミのため出席が厳しい」とか「教授の話は極めて難解。近づかないのが無難」といった評判の授業を選択した。
 実際に授業を受けてみたところ、情報誌に書いてあることはかなり正解だつた。確かに教授の話は難解で、睡魔(※2)との戦いだつたoなるほど「ドハマリ授業だ」と思った。しかし、転機(※3)は間もなくやってきた。授業内容があまりにも難解だったため、講義終了後、先生をつかまえて質問をしてみた。するとその回答は意外とわかりやすかったのである。それで味をしめ(※4)、質問を繰り返すうちにそれが楽しみになっていつた。時には時間が足りなくなり、教授と一緒に飲みに行くこともあつたo居酒屋で人生の先輩に開く話は刺激的だつた。(中略)自分のほうから積極的に授業に関与することで、受けている授業が面白くなった。自分で考えて、自分から動くことの重要性を学ぶことができたのは大きな収穫だった。これで私は大学内という狭い世界から、一歩「社会化」することができた。「楽勝科目」だけを選んで、楽しいラクな学生生活を送ることだけを考えていたら、こうした成長をすることはできなかつただろう。
 
 (佐藤孝治『く就活〉廃止論会社に頼れない時代の仕事選びJPHP7究所による)
 
 (※1)違和感:周りのものと合わない感じ
 (※2)睡魔:こらえきれないほど眠たい感じ
 (※3)転機:ある状態から他の状態に変わるきっかけ、変わり目
 (※4)味をしめる:一度上手くいったことから、次もそれを期待すること

(1)「ドハマリ授業」とはどのような授業のことか。

(2)「上ハマリ授業」を選択したことで筆者に起きた変化として、本文の内容に合わないものはどれか。

(3)この文章で筆者が最も言いたいことはどれか。