山の風景画は、世の中にいくらでもある。日本画にしろ洋画にしろ、古今東西あまたの(注1)画家たちが、その題材に「山」を選んでいる。モチーフとしての山の意味するものはさまざまだろうが、個人的にはそれらに興味を惹かれることはなかった
なぜか。
一般的な登山者が山を眺めたときの感慨は、おおむね似かよっている。それは、雄大さ、峻厳さ(注2)、あるいは優しさといったステレオタイプな観点から山を賛美し、その風景を自分の心の展示箱に納めて「いい思い出」にしてしまう。そして、山岳画や山岳写真の作家たちの多くもまた、似たようなイメージを印画紙やカンバスなどに再現して、狭い市場の中で再生産している例が尐なくない。
だが、山に登る者の心に刻印(注3)される山の風景は本来限定的なものではなく、確定しえない動的な現象として記憶されてもよいのではないだろうか。見る者の心の中定着される山のイメージは、そしてその表現は、もっと多様であるべきだろう。
つねに転変を繰り返す「海」に対して、動かざるものの象徴として、「山」が引き合いに出されることもある。はたしてほんとうに山は動かないのか。(中略)
一登山者としてこう思う。山は動いている、と。それは、地殻(注4)変動や火山の噴火など大規模なものだけではない。遠目には同じように見えても、風に吹かれて砂塵は舞い、山腹を覆う植物たちは陽光を浴びて茂し、渓流はその谷の深さを日々深く削り、刻一刻と変化し続けている。そういった微細な物理的変貌、小さい生命たちの死滅と再生が瞬時も止まることのない現場が、「山」なのである。
都市風景は近代以降多様な都市論の対象となってきたが、本来、多様性に富んでいるはずの山という場所を表現するイメージが、なぜこれほどまでに単一的なのか。
それは、山というつねに転変する自然から、都市部の生活者の生活が乖離してしまったことに、原因を求めることができるかもしれない。山の変化に気づくほど山を観測していないから、その変化にも気づかない。
何十年も山で暮らしてきたような画家でさえも、その表現は先述した域を出ることは稀だ。思うに、そういった者は都市生活者とは反対に、表現への憧れが先に立ち、山の実相(注5)を表現しえていないのかもしれない。

(志水哲也編『山と私の対話』による)


(注1)あまたの:数多く刻の
(注2)峻厳さ:厳しさ
(注3)刻印する:ここでは、刻む
(注4)地殻:地球の表層部
(注5)実相:本当の姿

1。 (65)個人的にはそれらに興味を惹かれることはなかったとあるが、なぜか。

2。 (66)筆者は山をどのようにとらえているか。

3。 (67)都市生活者と、何十年も山で暮らしてきたような画家について、筆者はどのように述べているか。

4。 (68)山の風景画について、筆者はどのように考えているか。