短文
(1)  地球のまわりには、たくさんの人工衛星が回っています。人工衛星は、宇宙から地球のようすを観測するなどの仕事をしていますが、何年かたつと機械に寿命が来て使えなくります。
 このようにして役割を終えた人工衛星や、打ち上げに使われたロケット、それらがこわれてできた部品や塗料のかけらなどが、地球のまわりにはたくさんあり、これらを「スペースデブリ」とよんでいます。

(横浜国立大学環境のお話編集委員会「なぜ?どうして?環境のお話」学研教育出版)

「スペースデブリ」とは何か。

短文
(2)
 本を見なければ、料理を何一つ作ることができないという友人がいる。結婚をして10年、毎日、朝昼晩の三食を料理の本を見て作っているのだと言う。彼女は、外食する時も必ず「有名レストラン案内」というような本を読んでから出かける。服を買う時は雑誌に載っている店にいって、雑誌に載っている服を買う。
 つまり、彼女はどこへ行くにも何をするにも、必ず何かの雑誌や本で得た知識をもとに動いている。いや、動かされていると言ってもいいかもしれない。マニュアルなしでは行動できない、彼女のような人を「マニュアル依存症」とでも言うのだろうか。

(ピーターフランクル「ピーター流生き方のすすめ」岩波書店)



筆者が言う「マニュアル依存症」とはどんな人のことか。

短文
(3)
丸杉エ業
営業部 鈴木一郎様

いつもお世話になっております。
HMコーポレーション営業部の山本幸太郎です。

 さて、先日はご多忙中にもかかわらず、御社工場をご案内いたただき、誠にありがとうございました。
 御社製品の組立て工程の見学は、これからの業務のうえで非常に有意義であったと、一同ひとしく感想を述べておりました。
 今後とも、何かとご教示をお願いするかと存じますが、その節にはよろしくご指導くださいますようお願い申し上げます。
 まずは、略儀りゃくぎながらメールをもってお礼申し上げます。

 HMコーポレーション
 営業部   山本幸太郎

このメールで一番伝えたいことは何か。

短文
(4)
 不動産業者の間で、在日外国人の評判がいま一つということは前々から聞いていた。自炊する中国人の場合、中華料理は油っこいので部屋が汚れてダメなどと断られることがあるという。
 数年前、ある教授に頼まれて、雲南(注)から来ている留学生の下宿探しの世話をした。私は心配しながら、不動産屋回りをした。案の定、断られたなかに「いろいろ事情がありまして」や、「ちょっとお世話いたしかねます」などの表現があった。言語的には私は特に後者の表現に興味を覚えた。と同時に、なぜかホッとした気持ちにさせられたと。「世話できない」と言われるより、ずっと柔らかさが感じられるからである。
(彭飛『日本人と中国人のコミュニケーション』和泉書店)
(注)雲南:中国の地方の名前

ホッとした気持ちにさせられたとあるが、なぜか。

短文
(5)
「将棋を覚えるには年齢が低い方がいいのですか。」
とよく聞かれる。(略)
 私は「小さいころから始めたほうが伸びる」というのは疑問に思っている。何事も年齢が上がってから覚えた人は、感覚よりも知識に頼る傾向がある。だからといってダメというわけではない。将棋の世界では、将棋の質がどんどん変わっていっており、フォームを矯正きょうせいしなくてはならない場面が必ず訪れる。小さいころに身につけたフォームを新しく変えるのは大変だ。感覚より知識で覚えていたほうが忘れやすいので、次を受け入れやすいということもある。自分のスタイルを新しくすることができるし、進歩や変化に適応しやすいといえるだろう。
(羽生善治「決断力」角川書店)

将棋を始める時期について筆者はどのように述べているか。

中文
(1)
 自分にとって、聞いたことが新しい情報でそれまで知らなかったことだという場合、ふつう「はい」は使わず、「ふうん」「へええ」「あ、そう」「なるほど」「本当」「うそ!」などの応答をします。
 以前、ある留学生から、この「うそ!?」「うそ!」という表現はまるで自分が嘘を言っていると受け取られているようで、あまり気持ちがよくない、と聞いたことがあります。例えば英語で、相手が普通に言ったことに対して、いきなり、 "It's a lie!"などと言うと確かに失礼でしょう。
 しかし、日本語の「うそ!?」「うそ!」は、その点では、驚きの表現で、「本当か?そではないか!」といういわば疑問めいた意味がもととなっています。いわば、それが自分にとって新情報である(もっと言えば、ちょっと驚くような情報である)というサインなのです。英語の "Really?"と同じような感じで使われると言えるのかもしれません。驚く度合が大きいほうが情報としての価値があるのですから、表現も少し大げさになるのでしょう。だから、この「うそ!?」「うそ!」の場合は、同じ状況で、
ほんと!?
 のように言うこともできるわけです。考えてみれば「本当」と「うそ」は正反対ですから、不思議と言えば不思議なことですが、このように、新情報に接した場合、「本当?」「うそじゃない?」というような疑問表現で、確かめるような表現をしていると言えます。
 そして、「うそ?」「信じられない」というほうが驚いているという度合いが強く表されるのです。
(森山卓郎「コミュニケーションの日本語」岩波書店)

(60)留学生は「うそ!?」「うそ!」という言葉をどのようにとらえたか。

(61)筆者は「本当」と「うそ」についてどのように述べているか。

(62)図筆者によると、この「うそ!?」「うそ!」はどのような言葉か。

中文
(2)
 どんな会社や団体の組織でも、そこに所属するメンバーが仲間どうしで自分の組織について語り合うときがあると思う。上司や同僚について辛口の寸評を述べる人もいれば、組織をこう変えていかなければならないといったビジョンや想いを熱く語る人もいるだろう。その話の傾向には二つのエネルギーの方向性がある。
 一つは、あの人のあそこが駄目だ、この会社はここが駄目だ、あれが足りない、これが足りない、という話し方になっている場合である。この傾向のときは、自分を守りながら攻撃をしているので、①語っている本人が受け身の場合が多いようだ。ものごとを他責にしてしまい、自分自身を積極的で主体的な存在として捉とらえていないことに本人が気づいていない。
 もう一つは、組織をこうしなければならない、こうしていきたいという話し方になっている場合である。このとき、語っている本人は主体的である場合が多い。
 話の内容は似ていても、それぞれエネルギーの方向性は異なる。②主体的な話し方をする人は当事者感覚を持っているので、自分自身の内に組織や周りの人に働きかける力を秘めているかもしれない。こういう人こそが組織改革を進めていく推進者、言い換えると③チェンジエージェント(変革を推し進める伝道師的役割の人)になる可能性がある。
(高間邦夫「学習する組織現場に変化のタネをまく」光文社)

(63)①語っている本人が受け身とあるがどういう意味か。

(64)②主体的な話し方とあるが、その具体的な例はどれか。

(65)筆者はどのような人が③チェンジエージェントになる可能性があると述べているか。

中文
(3)
 昼すぎ、私は夫に「今日の朝早く、千円札を拾ったよ、どうだ」と威張いばってみせると夫は急に顔を曇らせ、「僕は、駅の便所で一円玉を落とし、汚いと思いつつ反射的に拾ってしまった…」と①肩を落としていたの。夫がなぜ肩を落とす程まで落胆したのかと言えば、「落ちている一円玉を拾うエネルギーの方が一円以上かかる」という説があるのだ。つまり一円を見つけたとして、「あっ、一円玉見つけた」と視神経から脳に信号を送ったり、足を曲げて腰を丸めて手を伸ばしてそれを拾ったりするエネルギーは、 ー 円ではまかないきれず、総合的に赤字になるらしい。夫はその説を以前私に教えてくれたにもかかわらず、(略)「あ、一円落としてしまった。汚い、拾いたくない」と思ってから拾ったので普通に一円見つけて拾った人よりも、余計な思考を考えた分のエネルギー消費量は多くなっているはずである。金額に換算すれば、三円位になったであろう。②二円の赤字である。
 そうは言っても一円が落ちていれば大抵の場合拾ってしまう。夫日(いわ)く「一円玉が落ちているのを見ただけで、交通事故に遭ったようなものだ。(略)どうしても赤字になるしくみになっているのが、「落ちている一円玉なのだ」
 そういって遠い目をする夫だが、「落ちている一円玉」理論の説明、という行為は一体いくら位のエネルギーがかかっているのであろうか。一円玉など落ちていない今この自宅で部屋の中でわざわざそんな話を様々な語ごいを駆使くしして身ぶり手ぶり弁舌巧巧たくみにとうとうと解説する方がよっぽど赤字のような気がする。
(さくらももこ 『たいのおかしら』集英社)

(66)夫が①肩を落としていたのはなぜか。

(67)②二円の赤字とあるが、実際の損失はいくらだったか。

(68)今回、妻である筆者は夫のことをどう思っているか。

統合理解
A
 明治維新の後、日本はそれまで文化の中心であった中国をかなぐり捨て、脱亜入欧だつあにゅうおうというスローガンを掲かかげ。とにかくヨーロッパの科学技術を取り入れようとしました。(略)
この時代に新しい日本語がずいぶんできました。ヨーロッパ、アメリカの科学のお手本を日本語に訳さないといけなかったからです。つまり新しい言葉を作らざるをえなかったのです。日本になくて漢語にもない言葉ですから、これは大変な作業だったことでしょう(略)
日本発の漢字による造語は、科学を含め、物理、化学、分子、原子、質量、固体、時間、空間、理論、進化など数えきれないほどたくさんあります。一方、タイやインドネシア、シンガポールでは、科学の授業は英語でしかできません。しかし日本は最初から日本語で科学の授業をしていたのです。科学の教科書も日本語で書かれたのです。これはやはり、すごいことです。
(毛利衛「日本人のための科学論」PHPサイエンスワールド新書)

B
 インドの大学では、今でもやはり英語を使って授業をしている。インドには、国語としては、ヒンディー語があるのである、このヒンディー語の通じる範囲というのが、やはりインドの一部であって南の方では系統の全然違うドラヴィダ語系統の言語を使っている。インドにはさらにほかの言語もあるので、結局、ヒンディ-語で授業ができないのだそうである。そういう言語と比べると、日本語は大変すばらしい言語であると思う。
 日本で日本語で大学の講義ができるというのは、日本語が国の隅々すみずみにまで使われており、そのために、大学では東京の言葉でしゃべれば、どの学生にも通じるということがまずある。が、実はそれだけではなく、フィリピンにしろ、インドネシアにしろ、最も進んだ科学で使う術語が、その国語にない。そういうものは英語を借りなければならない。それならば何も、というわけで、すべて英語で授業を行っているのだという。
(金田一春彦 『日本語(新版)」岩波書店)

(69)AとBで共通して述べられていることは何か。

(70)科学の授業についてAとBはどのように述べているか。

長文
 科学技術は、人間にとっての環境世界を大きく変えてきました。人間単独では見えない世界、できない世界を、見える世界、可能な世界に変えてきたわけです。(略)科学技術は、ある意味、夢をかなえてくれる道具だったのです。科学技術の歴史は、人間がその夢を叶え、欲望を満たすための道具を開発してきた歴史だと言ってもいいでしょう。
 さて、問題は、科学技術の発展が累積的るいせきてきだということです。自転車ができて速く遠くへ移動できるようになったら、次は、より速く、より大量に移動できるように改良したり、新しい道具を開発したりします。今、到達とうたつしているところが、次への出発になるのですね。だから、全自動洗濯機がはじめて届いて感動していても、しばらく経つとそれが標準の状態になってしまって、さらなる便利さを求めていくわけです。
 この累積性というのは科学技術に限らず人間の文化現象すべてに共通の特徴とくちょうです。文学作品だって美術作品だって、今までには表現されていないテーマや技法を求めて、作家たちは苦労しています。過去が蓄積ちくせきされていて、そこから出発しているわけです。科学技術も累積的に発展してきたからこそ、これだけ膨大ぼうだいな知識を集めることができ、強大な道具を作ることができるようになったわけです。(略)
 しかし、どんどん累積的に発展してくると、あまりにも規模が大きく、強力になりすぎて、人間の想像力の限界を超えてしまいます。そうすると、予期せぬ副作用が生じたりして、事故につながったり、あるいはアスベスト(注1)のように気づかないうちに人間の健康を蝕む(注2)しばんだりする場合が出てきます。現在の科学技術にはこのような側面があります。
 そうなると、今までは夢をかなえ、希望を実現してくれる存在だった科学技術、生活や健康を脅かす(注3)ものとしてクローズアップされてきます。公害問題などがあったとはいえ、1960年代、70年代までは、まだ科学技術はバラ色でした。それがじわじわと副作用が気になりだし、地球環境問題が国際的にとりあげられるようになると、一気にネガティブなイメージが噴出ふきだします。これには、科学技術が実際にネガティブに作用することが増えてきたという面もたしかにありますが、メリットの方に対する感動がインフレを起こして、ありがたみが薄れてしまったという部分もあるように思います。
(佐倉統 /古田ゆかり 「おはようからおやすみまでの科学」筑摩書房)
(注1)アスベスト:断熱材として普及したが、発がん性があり使用禁止になった
(注2)蝕む:体や心に悪影響を与える
(注3)脅かす:相手を怖がらせる

(71) それが標準の状態、とあるが、どのような状態か。

(72) 科学の累積的発展について筆者はどのように考えているか。

(73) 筆者は、現代の科学技術についてどのように述べているか。