短文
(1)
人間だとすれば、スピードが最優先されるネット(注1)では、熟考する、内省する、深く考えるという、言葉による人間的な営為(注2)がないがしろにされはじめているのではないか。もしもこれからの社会が、ネット上を流れる言葉を主軸に営まれるようになると、人にとっての言葉とは、鮮度が重視の生鮮食品のようなものになってしまうかもしれません。そこに思考の積み重ねや成熟、歴史といったものは不必要です。
(注1) ネット:ここでは、インターネット
(注2) 営為:行い

(46)筆者が心配していることは何か。

短文
(2)
以下は、取引先から送られてきたメールである。
沖竹株式会杜 営業部
戸田安文 様
いつもお世話になっております。
10月分の請求書のご送付、ありがとうございました。10月9日にファクス文書にてご連絡いたしましたように、弊社では10月分より、請求書を各部署の担当者経由ではなく、経理部で直接受け付けることになりました。今後は資材管理部・横井ではなく経理部・長野あてにご送付願います。今回ご送付いただいた請求書はこちらで処理いたしますので、11月分よりご対応をよろしくお願いいた します。
2018年11月6日
株式会社イスキホーム
資材管理部 横井絵未
電話:07-8756-1324
メールアドレス: e_yokoi@1isukihome. co. Jp

(47)このメールで最も伝えたいことは何か。

短文
(3)
「とにかく教師は生徒に向き合うべきだ」という考えには、子どもを「指導」してやろうという、プロを自任する教師の、ある種思いあがった気持ちがあります。そんなことをしなくても、毎日後ろ容を見ているだけで、子どもはいい先生を見抜きます。自分の好きな先生を見つけて、勝手に影響を受けていくのです。それを、向き合って何かを伝えようとか、道徳的な影響を与えようなどとするから、備の厳さが生まれ、子どもに嫌な圧追感を与えるのです。

(48)筆者の考えに合うのはどれか。

短文
(4) 効率は、幾多ある価値尺度のひとつに過ぎない。けれどもゃも現代では、効率が良いことには突出した評価が与えられている。また、効率は、動勉さと結びついているから、倫理的な価値をも帯びている。そのため、ほとんどの時間を効率で価値判断する傾向が強くなる。1日の価値は、その日にどれだけのことができたのかによって計られるようになる。考えてみれば不思議なことだが、生活の一側面でしかない生産の場で有効な指標が、ほかの側面にまで拡張して適用されるようになるのだ。

(49)筆者の言いたいことは何か。

中文
(1)
 すべての音楽体験の原点となってくれるのは、まだどんな言葉も湧き上がってこないような、純粋に感覚的な「第一印象」以外にありえないだろう。一体自分はその音楽にどう反応しているのか。まったく何の興味も感じていないか、何とはなしに居心地が悪いか、それとも気になってはいるのだが、まだうまくそれを言葉に出来ないでいるのか。音楽体験において一番大切なのは、他人の意見や世評などに友わされず、まずは自分の内なる声に耳を澄ませてみることではないかと、私は考えている。
 自分が音楽にどう反応しているかをきちんと聴き取ってあげる一一実はこれはそんなに①科単なたことではない。マスメディア時代に生きる私たちは、音楽を聴くより以前に既に大基の情報にさらされているし、知らないうちに「音楽の聴き方」についていろいろなことを刷り込れている(注1)。それに他人の意見や反応だって気になる。そして私自身が音楽を聴くときの目安にしているのは何かといえば、それは最終的にただ一つ、「音楽を細切れにすることへのためらいの気持ちが働くか否か」ということである。細切れとはつまり、演奏会の途中で席を外したり、CDなら勝手に中断したりすることだ。何かしら立ち去りがたいような感覚と言えばいいだろうか。音楽という不可逆にして不可分(注2)の一つの時間を、音楽とともに最後まで共体験しようという気持ちになれるかどうか。自分にとってそれが意味/意義のある音楽体験でちあったかどうかを測るサインは、最終的に②これ以外ないと思うのである。
(注1)出り込まれる:ここでは、身に付けさせられる
(注2)不可逆にして不可分の:逆戻りできない上に、分けられない

(50)筆者によると、音楽体験において大切なことは何か。

(51)①科単なたことではないとあるが、なぜか。

(52)②これとは何か。

中文
(2)
 副業を認める企業が増えている。自社の社員に瑞業を鋭めるとともに、形業採用をしている企業もある。神戸市など自治体でも推進する動きが出てきた。成長戦略の一環で政府も後押しをしている。もともと企業は本業への支障、帰属意議の低下、機密情報の漏洩などを防ぐため、副業を良しとしてこなかった。転機を迎えているのは、既存業務だけでは社員の飛躍的成長は望めず、企業が発展することも難しい、という危機避があるからだろう。
 ウェプサイトト調査「日本の人事部人事白書2017」によれば、導入企業が挙げた副業の効果は「従業員のモチベーション(注1)向上」が最多だった。副業を自社だけでは得られない経験やスキル、人脈形成の場ととらえ、社員一人ひとりの創造性と生産性の向上に期待をかける。
 社員にとっても本業を持ちながら第2のキャリアを繁いたり、ローリスク(注2)で起業したり、メリットがある。副楽が社会全体に広がれば人手不足を補い、成長産業へ緩やかに労働カをシフトさせ、ベンチャー企業(注3)の活性化にも寄与する。
 しかし、労働時間管理や労働災害の扱いなど明確になっていないことも多い。主務先(注4)の責任範囲を明示した規定やガイドラインを主む声がある。(中略)
 社員側の意志と力量も問われる。
 営業職の友人が本業の大企業向けコンサルティング(注5)と、生活用品を販売する副業を両立させ、大成功している。一方、それを見てまねをした同僚たちはどちらもゃも亮れず、本業企業の組織風土が荒れてしまったという。副楽をする側にも、確かな目的意議が欠かせない。
(注1)モチベペーション:意欲
(注2)ローリスク:低いリスク
(注3)ベンチャー企業:新分野に挑む小規模企業
(注4)主務先:ここでは、本業の答務先
(注5)コンサルティング:ここでは、助言や指導

(53)副業を認める企業が増えているのはなぜか。

(54)筆者によると、社員にとっての副業の利点は何か。

(55)筆者によると、副業をする社員に求められることは何か。

中文
(3)
人生の経験を積んだ者は、同じ出来事に章遇しても、また同じ風景を眺めても、そこから得る情報量が、若者と較べると格段に多い。だから老人の場合は、同じ長さの時間の中に詰まっている内容が充実していて、一刻一刻が①濃害な質量をもっている
(中路)
 老人がボーっとなにかを眺めているのは、なにもすることがないから、ではなく思い出すことが多過ぎて忙しいからなのである。時間が早く経つのは、そのせいではないか。若い頃は、いつもヒマを持て人していたものだ。なにか、面白いことはないか。 どこかへ行けば、なにかが見つかるだろうか。やれといわれたことをやるのは嫌だが、かといって自分からやりたいことは見つからない。退避を紛らわす術も知らず、風景を眺めても空虚(注1)で、時間を満たす材料があまりにも少なかった。いま、②あの年齢に帰れといわれたら、私は殺座に断るだろう
 若い頃に悩むのは、先が見えないからである。 自分にどのくらいのカがあるのかもわからず、どんな未来が開けているのかもわからない。先がわからないことを夢と言い換えて有団めてみても、その夢が虚ろなものであることはうすうす感じている。あんな時代に、二度と戻ってたまるものか(注2))。夢は潰れて現実となり、その繰り返しの末に人生が現実ばかりで満たされるようになることが、歳をとるということにほかならない。ふたしかな夢を見ずに済むことが、いかに心に平宴(注3)うをもたらすものか、歳をとらなければわかるまい。
(注1) 空虚だ: むなしい
(注2) 二度と戻ってたまるものか : 絶対戻りたくない
(注3) 平安: 安らかさ

(56) ①濃害な質量をもっているとあるが、なぜか。

(57) ②あの年齢に帰れといわれたら、私は殺座に断るだろうとあるが、なぜか。

(58) 歳をとるろことについて、筆者はどのように考えているか。

長文
(1)
 日本の森の生態系は、生物多様性が高いといわれています。生物多様性が高いのは、多くの生物の生息(注1)域になかりうる多様な環境があるからです。では、なぜ、多様な環境があるかというと、人間が自然に長期的、継続的に介入してきたということが大きく関係しています。
 人間がいない状態で、自然が、自然の作用(注2)のなすがままに置かれていた時代の植生(注3)を「原植生」と呼んでいます。この時代、日本列島は現在の状態よりも生物の生息環
境として単純なものであったはずで、そこに生息する生物の多様性は現在よりも低かったので
はないかと私は考えています。
これまで、人間は、人間の都合で、自然を改変してきました。しかし最近になって、多くの人が都市に集中して住むようになり、食料も木材もれエネルギーも海外から輸送してくるようになって、これまでのように自然に長期的、継続的に介入する必要がなくなりました。人間の介入が止まった森は、自然の作用によって変化していきます。そのまま放っておけば、人間がいなかった時代の自然に戻るかというと、そう簡単ではありません
人間の介入は土壌の奥深くまで及んでいます。植生の回復に比べて、土壌の回復には長い時間がかかるので、まずは土壌が回復しない状態で、その上に植生が成立することになります。この状態を「潜在自然植生」といい、原植生とは区別されます。
(中路)
 現在の日本の生物多様性は、人間による自然への長期的、継続的な介入の結果としてもたらされたものです。その介入は、決して生物多様性のためではなく、人間が生きていくために燃料、木材その他を収奪する(注4)ためだったのです。もし現在の状態が生物多様性が高い状態だとすれば、それはあくまで副産物として得られたものなのです。今後、生物多様性の維持のために、自然に人間が介入し続けるべきだ、という主張があります。しかし問題は、そのための資金を誰が出すかです。とくに、公的な資金を投入するかどうかは、よく考えてからのほうがいいと思います。
 自然が、自然の作用によって変化していくのに逆らって、人間が作業をしようとすると膨大な手間と時間がかかります。その手間に見合う利益が、人間にもたらされるのか、また、放置して自然の作用に任せておくことが、人人間や生物にどのような損失をもたらすのか、正確に理解することが求められています。
(注|)生息生存
(注2)作用のなすがままに:ここでは、作用のままに
(注3)植生:ここでは、植物群の状態
(注4)収奪する:奪い取る

(59) 人間がいない時代の日本の森の生態系について、筆者はどのように述べているか。

(60) そう簡単ではありませんとあるが、なぜか。

(61)現在の日本の生物多様性について、筆者はどのように述べているか。

(62)人間の自然への関わりについて、筆者はどのように述べているか。

統合理解
A
 苦手を克服しようとする努力は貴重です。しかし、人には向き不向きがあるのも事実。苦手を克服するまで好きなことをやってはならないとすれば、誰だって自分らしさを見失ってしまいます。
 そう考えれば、できないことを昌理に克服する必要はないと考えてもいいのではないでしようか。不得手な部分は得意な人に助けてもらえばいいのです。
 落ちこぼれだったエジソンは、自分の知識の足りない部分を補うために、優秀な科学者や技術者を商いました。自分の弱みを知っていたからこそ、エジソンはそれを埋め合わせる方法を考え、千にも肥ぶ発明を実現できたのです。弱みがわかれば絞みを「避ける」という選択ができます。それは弱みから「送げる」という意味ではありません。失敗の要因を避けて、事前に適切な対和をする工夫ができるようになるという意味です。
 困難から逃げてばかりいては何事も成し遂げられませんが、困難を避けるために行う試行錯誤は成功を導く大きな戦略です。

B
 あなたは「苦手なことは何とかして乗り越えなければ。」と自分自身を必要以上に追い込んではいないだろうか。もちろん、自身の欠点や弱点はすなおに認めて謙虚にならなければならない。しかしそれらは努力で簡単に克服できることばかりではない。克服できないからといってコンプレックスを抱え続けるよりも、得意なことを生かすことを考えてみてはどうだろうか。
 特に仕事の場合は、さまざまな職種や職場があるので、自身に合ったものを選ぶことが可能だ。得意なことを生かせる環境を見付けることで、自信を持って生き生きと働くことができるだろう。

(63)苦手を克服することについて、AとBはどのように述べているか。

(64)AとBの認識で共通していることは何か。

主張理解
 人間はおかしなもので、自分が苦労して作ったり、特定の誰かが自分のために作ってくれたと思うと、より深い満足感を覚えるものらしい。それは恋人が編んでくれたセーターをプレゼントされた時のことを思えば、容易に想像できよう。モノにではなく、そこに込められた「思い」こそが人を満足させ、幸福にするのである。
 だとすると「労働や生産」を家庭から切り離すことで成立する大量生産・大量消費システムの進展は、身の周りからそうした「思い」や「かけがえ(注1)のなさ」を消し去っていく過程だったと言えなくもない。
 かつて何でも手作りしていた時代には、身の周りに手作りのモノやサービスがあふれてたため、金銭を払って得る商品やサービスにそんな「思い」や「かけがえのなさ(注1)」を要求する必要もなかった。人々が商品に求めたのは単に機能と安さだった。だからこそ、均質な機能を持つ商品を安く供給できる大量生産が有効だったのである。
 しかし、ある程度商品が行き渡ると①事情は違ってくる。人間は持たざる時には人並みを求めるが、ひとたび人並みになるや、今度は人との違いを求めだし、人と同じ商品では満足できなくなるからだ。この隘路(注2)を現代の資本主義はデザインによってモード(流行)を作りだしたり、特定の商品を持つことが社会的地位の象徴であるかのように思わせることで切り抜けてきた。
 頻繁に繰り返される自動車のモデルチェンジや、去年買った服を今年着るのが恥ずかしいくらいに目まぐるしく変わる流行のファッション。機能的には軽自動車で十分であるにもかかわらず、乗っている自動車の大きさや豪華さによって自分の価値が判断されるような気がして、 より高級な車を買いたくなるのもそのためだろう。(中略)
 ただ、モンによって自分を他と差別化するというこのやり方は、②深刻な矛盾に陥らざるをえない。つまり、社会に流布された豊かさや幸福のモデルに自分を合わせることで個を主張するわけだから、自分を個性化しようとすればするほど本当の自分の色を消し去り、逆に没個性化していくという矛盾である。
 消費財がほぼ万人に行き渡り、しかも所得の大きな格差も無くなって、モノによって自分を他者と差別化することが困難になりつつある現在、この矛盾はこれまでになく鮮明になってきている。もう買いたいモノがないという現状は、その端的な現れだろう。こうした消費社会の矛盾を自覚した時に人が立ち戻る場所は、やはり「思い」とか「かけがえのなさ」しかないような気がする。
記号と化したモノに人が操られている現状を脱し、人がモノを使う本来の姿に戻るためにも、満足感や幸福感は何によってもたらされるのか、今一度考える要があるのではないか。
(注1) かけがえのなさ: 他に代わりがないほど貴重だあること
(注2) 隘路:ここでは、難しい状況

(65)筆者によると、大量生産のシステムが普及したのはなぜか。

(66)①事情は違ってくるとあるが、どのように建ってきたか。

(67)②深刻な矛盾とあるが、どういうことか。

(68)筆者の言いたいことは何か。