日本人には①テクニックという言葉に抵抗を感じる人が多いらしい。
「小手先のテクニツクではなく、心が大事だ」
「表面的なテクニックではなく、ほんものの内容を身につけるべきだ」
などと言われる。テクニックという言葉は常に否定的に扱われる。テクニックは本質と関わりのない小手先の表面的な技術だとみなされる。
 しかし、言うまでもないことだが、テクニックがあるから、物事を実践できる。理念だけ、理論だけでは何もできない。理念を実践するためには、それなりのテクニックが必要だ。いくら理想が高くてもテクニックがなければ、物事を実行できない。テクニックがあってはじめて、理念を現実のものにできる。
 私は、人生のほとんどがテクニックだと考えている。恋愛もテクニック、勉強もテクニック、人付き合いもテクニックだ。
 モーツァルトは②天才だったと言われる。その通りだど息う。だが摩訶まか)不思議な能力がモーツァルトに備わって、音楽が次々と自動的に流れたわけではないだろう。モーツァルトは幼いころから父親に音楽の英才教育を受けた。そうしてさまざまなテクニックを身につけた。天才というのは、たくさんのテクニックを知り、それを適切に用いる能力を持った人間、ということにほかならない。
 人付き合いも、テクニックが必要だ。人に好かれるのも、実はテクニックにはかならない。人付き合いの上手な人とは、テクニックをいつの間にか自然のうちに身につけた人のことなのだ。だったら、人付き合いが苦手な人は、意識的にテクニックを習得する必要がある。
 テクニックと割り切ることによって、練習ができる。テクニック自体を練り上げ、上達することができる。そのための修練を積むことができる。
 コミュニケーシヨン術も、テクニックと考えて習得に努めてほしい。③この心構えがあってこそ、自分のものとして使いこなすことができるようになるはずだ。
 ただし、もちろん、人付き合いのテクニックというのは、人と人が理解し合えるようになるための道具でしかない。テクニックだけを身につけて、本当に理解し合うことを求めなければ、そのテクニックは意味がない。相手を本当に尊敬してもいないのに、テクニックだけで尊敬したふりをしても見破られる。すべてテクニックだということは、テクニックさえあれば心の交流は不要という意味ではない。自分の気持ちをきちんとわかってもらい、心の交流をなしとげる目的のために、テクニックがすべてを決する、という意味にほかならい。それについては誤解しないでいただきたい。

(籠口裕一「「人間通」の付き合い術」中央公綸新社による)

(66)日本人は①テクニックとはどんなものだと感じていると、筆者は言っているか。


(67)筆者は、②天才とは、どんな人だと述べているか。


(68)③この心構えとは何か。


(69)この文章で筆者が言いたいことは何か。


 日本の小惑星探査機「はやぶさ」が持ち帰った微粒子が、小惑星イトカワのものであることが確認された。月より遠い天体に着陸し、採取した物質を人類が手にするのは初めてのことだ。宇宙探査の歴史に残る快挙といっていい。
 イトカワまでの距離は、地球から太陽までの距離の2倍に当たる約3億キロもあった。はるか①遠来の使者は何を語ってくれるだろうか。小惑星は46億年前に太陽系が誕生したときの名残をとどめているとされ、太陽系の化石ともいわれる天体だ。微粒子はこれから、日本国内だけでなく世界中の研究者に分配されてくわしく分析される。イトカワの生い立ちはもちろん、それを通して太陽系の起源に迫る成果を期待したい。
 今回、はやぶさのカプセルから見つかったのは細かな砂のようなもので、0.01ミリ以下の極微粒子約1500個に加え、やや大きいものもあった。弾丸を発射してイトカワの表面の物質を飛ばす装置は働かなかったが、着陸の衝撃で舞い上がった砂粒がカプセルにうまく入ってくれたようだ。
 目には見えない物質を分析チームの研究者がていねいに集めて分析した。鉱物の組成は地球の物質と異なって隕石(いんせき)に似ており、イトカワの観測から予想された成分とも一致することを確かめた。量はごくわずかだが、最新の装置を使えば、ほぼ予定通りの分析ができそうという。
 道のり60億キロに及ぶ旅の途中で交信が途切れ、エンジンも故障した。南天を赤く燃やした、この6月のはやぶさの奇跡的な帰還は記憶に新しい。
 プロジェクトを率いた宇宙航空研究開発機常の川回淳一郎教授が「帰ってきただけでも夢のようだったのに、さらにその上」というように、ちっぽけな「はやぶさ君」は②今度もまた、うれしい方へ予想を裏切ってくれた。「あっぱれ」というしかない。
 はやぶさの構想は四半世紀前、若い研究者の挑戦から始まった。計画の着手からも15年かかった。川口さんはさらに「宇宙科学研究所として40年以上に及ぷ積み重ねがあってこそです」という。加えて、野心的な目標と、高い技術力、研究者たちの献身的な努力が「オンリーワン」の成果を生んだ。
 野心的な計画は、若者たちにとって多くを学ぶ場にもなったことだろう。だが、アジア諸国が研究に力を入れる今、日本の科学は陰りも言われる。
 私たちはなぜ、自然科学の探求を続けるのか。すぐに実利に結びつくわけではないが、知を求める不断の情熱が人類を進歩させてきたことは疑いない。時代に応した予算のバランスをとりつつ、若者が研究に打ち込み、存分に独創性を発揮できるような研究環境を整えていく必要がある。

(朝日新聞2010年11月18日付 社税による)

(66)①遠来の使者とは何のことか。


(67)「はやぶさ」が持ち帰った微粒子は、なぜ価値があると言えるのか。


(68)筆者は、なぜ②今度もまた、うれしい方へ予想を裏切ってくれたと言っているか。


(69)この文章で筆者が言いたいことは何か。


 国内旅行中、新幹線で隣り合った男性と世間話をしていたら、実は彼の恋人がよく昼ご飯を食べに行くレストランが、自分の妻の友人が経営する店だったーー。こういう出来事に出くわすと、人は「世間って狭いもんだねえ」と感激し、なにか運命的なつながりを感じるものである。もし、この2人が男女であったりすれば、この運命的な偶然の一致をきっかけに距離が急速に近くなり、場合によっては結婚に発展することだって十分にありうる。
 だが、①こうした出会いというのは本当に運命的なのだろうか
 仮に日本の人口を1億人として、一人一人が1,500人ずつの知人を持ち、彼らが全国に散らばっているとする。そして、どこかで出会った見知らぬ人と、②間に2人の人間をはさんでなんらかのつながりがある確率はほほ100%に近いのである。
 それでも冒頭のような出来事にめったにお目にかからないのは、平均的な日本人に知人が1,500人もいないとか、その知人が全国に散らばっていないということもあるが、なによりもお互いに自分のすべての知人について語り合うということがないからだ。
 根気よく世間話を続ければ、「実はお互いの知人同士が知人」という確率は、私たちが思っている以上に高い。世間は本当に狭いのである。
 ③ある心理学者がこんな実験をした。彼は無作為に選んだ人たちに書類を渡し、それを「Aさんに届けてほしい」と依頼した。書類を渡された人たちは、AさんとはまったAさんとはまったく面識はないし、共通の友人・知人もいない。その学者は「目標の人物をもっとも知っていそうな知人に書類を渡し、書類を受け取った人はさらにその知人へと、その人物にたどりつくまで同じことをくり返すように」と指示したのだ。こうしたサンプルを数多く集めることで、見知らぬ同士が何人の人をはさんでつながりを持っているかを調べようとしたわけだ。
 結果は「知らない人同士の間に介在する人の数は2~10人。5人がもっとも平均的」というものであった。つまり、どんなにエラい(注1)人や有名なスターでも、彼らとあなたの間はわずか数人の人たちによって隔てられているに過ぎず、何かのきっかけで彼らと知り合いになる可能性はあるし、逆に彼らに関するさまざまな情報や秘密がウヮサ(注2)として伝わってくることもあるはずだ。確率の世界では、世間というのは我々が考えている以上に狭くて、人びとがひそ)かに関連しあう空間なのである。

(田中義厚確率」の人生判青春出版社)

(注1)工ラい:偉い
(注2)ウワサ:噂

(9)①こうした出会いというのは本当に運命的なのだろうかとあるが、筆者は確率から考えて、こうした出会いをどうとら)えているか。


(10)②間に2人の人間をはさんでなんらかのつながりがあるとは、具体的にどういうことか。


(11)③ある心理学者がこんな実験をしたとあるが、筆者はその結果についてどのように考えているか。


(12)筆者が考えている、運命的な出会いが少ない最も大きい原因は何か。


 例えば、3 年間ずっとノーミスでやってきた論田くんが、はじめてミスを出した。
 3 年前からずっとその仕事ぶりを観てきた上司と、異動していきなり論田くんのミスに出くわした上司と、論田くんへの印象は同じだろうか?
 両者のミスの「情報占有率」がちがう。つまり、3 年間のつきあいの中で、ミスが占める割合と、たった1回初めて論田くんと接した中で、ミスが占める割合と。相手は、あなたが過去からずっと積み上げてきたすべての情報で、あなたを判断するのではない。結局は、そのとき相手が持っている情報だけで判断される。その中で、いい情報の占める割合が多ければ「いい人だ」となる。
 あなたが「優しい人」で 1 0 年間怒ったことがなかったとしても、1 0 年ぶりに怒ったとき、たまたまでくわした初対面の相手にとっては、それが100%だ。あなたを「恐い人」だと思う。
 自分にふさわしい「メディア力」を相手の中に刻むために、ちょっと「情報占有率」を意識してみるといい。
 コミュニケーションでは、出会いからはじまって、相手から見たあなたの「メディア力」が決まるまでの間が肝心だ。つまり、初めの方が慎重さがいる。ここで、かっこつけるのでもなく、でも、あなた以下にもならず、等身大の(注1)あなたの良さが伝わるのが理想だ。
 いつも質の高い仕事をしているなら、はじめての仕事先に対して、決していつもの質を落としてはいけない。ふだん静かな人なら、初対面の相手にも、奇をてらったり(注2)せず、普段どおり静かにしていればいい。自分にうそのないふるまいをする、ということは、初対面の相手にこそ大切だ。
 さて、ここで問題なのは、ふだんとても穏やかなあなたが、その日はたまたま嫌なことが重なり、攻撃的になっていると言う場合だ。自分にうそのないということで、相手にきついことを言ってしまったらどうだろう。あなたにとっては、年に1回の、「たまたま不機嫌な日」でも、相手にとっては、あなたに関する情報の 100%になる。初対面の相手、まだ付き合いの浅い相手には、すこし慎重になって考えてほしい。
 何だ、自分にうそのないふるまいか?自分の正直な姿を伝えるとはどういうことか?
 日ごろ 9 9 %穏やかなあなたなら、1%の異常よりも、いつもの穏やかさを伝えるほうが、結局は、正直な姿を伝えている。相手の中に、あなたの実像に近い「メディア力」が形成されるからだ。初対面の相手にこそ、平常心であること、普段どおりにやることが大切だ。

(山田ズーニー『あなたの話はなぜ「通じない」のか』による)


(注 1)等身大の:誇張のない
(注 2)奇をてらう:変わったことをして、他人の気をひこうとする

(66)筆者によれば、上司にとって論田くんのミスの「情報占有率」が上がるのはどのような場合か。


(67)自分にうそのないふるまいとはどのようなものか。


(68)筆者は、なぜ初対面の相手に慎重になったほうがいいと述べているのか。


(69)自分の「メディア力」について、筆者はどのようにするのがよいと述べているか。


 本というのは人間と同じようなものだ。一律の価値によって優劣を決めることはできない。人気者がいるのと同じようにベストセラーがある。嫌われ者がいるように誰からも手に取られない本もある。だがどれもがそれぞれの価値を持っている。それを求めている人の手に求めているときに渡ればそれは良書になる。
 それゆえ私はインターネットの書評サイトなどでまるで自分を神であるかのように本の優劣を断定しているものには激しい抵抗を感じる。もちろん書評をするのは悪いことではない。本を批判したりほめたりするのももちろん大事なことだ。だがあくまでもそれはその人の知識と関心と人柄によっての判断でしかない。つい神の立場でものを言いたくなる気持ちはわからないでもないがそれはあまりに傲慢というものだろう。
 私の本もインターネットの書評サイトでかなり叩かれているものがある。それはそれでやむをえないと思っている。ある程度売れるとそれをけなしたがる人間がいるものだ。本をけなすと自分が著者よりも偉くなったような気がするのだろう。私自身も本を書くようになる前いや正直に言うとある程度売れる本を出すようになる前他人の本をずいぶんけなしたものだ。 ただきわめて心外なのはないものねだりをしている評があまりに多いことだ。たとえば私はある参考書を出している。その趣旨としていることは「大学の小論文試験に何とか合格できるだけのレベルの小論文が書けるようにするため最低限これだけの知識は持っていてほしい」という知識を整理した参考書だ。だから私はその本の中では敢えて難しいことは書いていない。ところがその参考書を酷評する(注)書評がある。そしてその評の中には「この本を読んでもかろうじて合格するくらいの力しかつかない」と書かれている。
 私はまさしくかろうじて合格するくらいの力をつけるためにその本を書いているのだ。かろうじて合格すればその本は最高の良書だろう。私がそのような意味で敢えてカットしたことを取り上げてそれが書かれていないからと批判されてもこちらとしては困ってしまう。
 そのような身勝手な書評がなんと多いことか。知識のある人間が入門書を幼稚すぎるとけなし知識のない人間が専門書をわかりにくいとけなす。しかしそれは単に自分の背丈にあっていない本を求めただけのことに過ぎない。きちんと自分の背丈にあった本を探して買うのが読者の務めだと私は思う。
 本について語るからにはあらゆる本に愛情を持つべきだと私は考えている。そうしてこそ本を批判する資格を持つと思うのだ。

(樋口裕一『差がつく読書』による)


(注)酷評する:ひどく厳しい評価を下す

(65)筆者はどのような書評が傲慢だと感じているか。


(66)ある参考書について筆者が心外だと感じたのはどのような書評か。


(67)筆者によると本が良書と言えるのはどのような場合か。


(68)本を批評する人に対して筆者が言いたいことは何か。


 現代は、「発明は必要の母」となった時代である。あるものが発明されると、企業はさまざまな余分の機能をあたかも必要不可欠とばかり付加して製品を売り込もうとし、 人々はその機能がいかにも前から必要であったかのごとく錯覚して購入するからだ。発明が欲望 を刺激し、欲望が人々を消費に走らせ、 消費が新たな必要性という幻想を生み出すのであ る。その結果、本来必要でなかったものにまで飢餓感を募らせ、無限に便利さを追い求め るという悪循環に陥る。 このように企業の戦略と人々の欲望が結びついて、ひたすら「幸福」を求めようとする構造が①現代という時代を象徴している。ケータイがその典型である。
 そんな時代に「幸福」を考えるとすれば、この欲望の連鎖をどこかで断ち切るより仕方がない。いや、発明というような新技術には目を向けず、 むしろそれらと縁を切って積極的に時代遅れになるということに「幸福」は求められるのではないだろうか。テレビは 置かずに CD でモーツァルトや落語を聞き、 パソコンはインターネットに手を出さずワープ ロ機能だけにする。クルマは持たずに公共交通機関のみを使う。ケータイは家族にしか番 号を知らせない。 欲望を他者との関係に求めず、自分の内部からの声を汲み上げ、何かを 創り出すことのみに時間を使う、そんな生活にこそ「幸福」がありそうな気がする。
 むろん、そんな修道僧(注1)のような生き方は現代では②不可能である。電子メールでは誰 とでも簡単につながって対話できる。インターネットで買い物をし、 プログ(注2)法で自分の意 「見が自由に出せるのは新しいテクノロジーがあってこそである。テレビからの情報は日常 会話に欠かせないし、電話での長話も楽しい。 クルマがあればいつでも好きな場所に行け る。パソコンもテレビもケータイもクルマもない生活は考えられず、これら文明の利器(注3)法は私たちを誘引(注4)達して止まないのだ。 ③そこに「幸福」はないと実は誰もが知っていても、便利さと効率性を棄てきれないのも私たちなのである。
 とすると、どこかで妥協することを考えねばならない。 断ち切るところと利用するところを使い分けるのである。私の やり方は比較的単純で、余分な機器を持たず、持っても時間を区切るか場所を限るかして欲望を抑制することだ。 (中略)そのようにして生み出された時間を自分のために使うのだ。それが私の「幸福」への接近法なのである。

(池内了『生きのびるための科学』による)


(注1) 修道僧:終行中の僧
(注 2)プログ:日記形式のホームページ
(注3)利器:便利な器具
(注4)誘引して止まない:ここでは、絶えず引き付けている

(65)①現代という時代とは、どのような時代だと筆者は述べているか。


(66)②不可能であるとあるが、なぜか。


(67)③そことは何を指しているか。


(68)筆者は、どのようにして「幸福」を得ようとしているか。


 私もかつて一個の子供であったが、親との「対話」など別にのぞまなかったように思う。もし親の方が「対話」をしかけてきたら、照れくさいような、歯(注1)の浮くような気持がしただろう。尐なくとも、中学生のあたりからは、そうであった。私は特別反抗的な子供ではなかったが、親と「対話」などしたって、本当の話はできない、とごく自然に承知していたように思う。
 といって、親とのつながりを、まったくのぞんでいなかったわけではない。しかし、それは[対話]などという正面(注2)きったものではなく、言葉としてはほとんど意味をなさないような交流があれば、充分だった。つまり、家の中で顔を合わせて、黙って顔をそむけられては、どこかで寂しいような見捨てられたような気持がしたが、「お」「やってるか」ぐらいのやりとりがあれば、①気持は安定していたのである。
 それ以上親が気をつかって「このごろ音楽はどんなもんがはやっているんだ?」などと聞いてきたら、無理してるなあ、と思うし、そんな必要ないのになあ、と思うし、答えるのがすごく億劫だったろう、と思う。
 親とは通じない部分を、どんどん持つことによって、子供は自分の世界をつくっていくのである。不分明(注3)なところが多いから、といって親が不安におちいることはない、と思う。
 「なにを考えているか、なにをしているか分らない」部分が増えていくことで、子供は成長しているのだ。そこへ、いちいち親が首をつっこみ「一緒に悩み、一緒に考えよう」などとすることは、子供にとっては、ひどくわずらわしいことだし、親が加わることで当面の局面はいい方向へ転換するとしても、②長い目で見れば、あまりいい影響を残さない、というように思う。
(中略)
 では、どうしたらいいか、というと、原則的には親は子供の内面については、ほうっておくしかないのだ。理解しようとしたり、いわん(注4)や共感しようとしたり一緒に悩もうとしたりしてもむだなのだと思う。
 子供との距離が、刻々ひらいていくことに堪えるしかないのだ。そして、その距離をリゕルにとらえている親は、子供にとって魅力的だと思う。
 そうした親は、子供を理解しようとしたり、一緒に悩もうとしたりしない。そういうことができないことの悲しさ、寂しさ、情けなさを胸におさめて、子供と対する。いわば「他人」として対する。「親切な他人」として対する。そして、その節度を保てるということが、子供への愛情になっている。というような親でありたい。と尐なくとも私は思っている。

(山田太一『誰かへの手紙のように』による)


(注1) 歯の浮くような:ここでは、なんとなく落ち着かない
(注2) 正面きったもの:ここでは、きちんとしたもの
(注3) 不分明な:はっきりしない
(注4) いわんや:まして

(65)中学生のころの筆者の親に対する態度はどのようなものだったか。


(66)①気持は安定していたとあるが、なぜか。


(67)②長い目で見れば、あまりいい影響を残さないとあるが、なぜか。


(68)親は子供に対してどうあるべきだと、筆者は考えているか。


 皆さんは、今朝起きてからいままでに、どんな広告を見たか覚えていますか。
 「広告はほとんどなかったと思うけど……」。いやいや、そんなことはありません。現在の時間が、朝会社に着いたばかりだったとしても、短い時間のうちにものすごい量の広告に触れているはずです。テレビCM で、新聞で、電車の中で、街中で……。何十、何百という数が、目の前を通り過ぎたことでしょう。
 そのなかで、ぱっと思い出せるものはありますか。そう言われてみると、ほとんどといっていいくらい、記憶に残っていないのではないでしょうか。(中略)
 「広告なんて誰も見ていない」
 これは、僕が会社に入って間もない頃に実感したことです。会議で難しい用語が飛び交い、商品のアピールポイントや表現の話は白熱しているのですが、①もっと根本的なことにはなかなか触れられずにいる。目の前の仕事に深く入り込んでしまうと、「果たして、広告とは関心をもってもらえるものなのか」という、ぐっと引いた視線で見ることを忘れがちになってしまうのです。こうした大前提が見えないままに作られている広告が、非常に多いのではないでしょうか。
 広告を発信する側としては、伝えたいことはたくさんあって、一般の人たちも当然注目してくれるものと思い込みがちです。ところが、受け手側というのは、発信者側のそんな思いなど、ほとんど意に介し(注1)ていません。なぜなら、日常生活のなかでは、自分の身の回りの出来事や問題で精一杯になっているからです。人は自分の心にバリア(注2)を張っていて、無意識のうちに外部情報を遮断しています。ですから、伝えたい情報を相当きちんと整理したうえで、筋道を立てて戦略的に伝えることを考えないと、受け手の心のバリアを破って入り込むことなどできないのです。
 「振り向かせるためには、刺激的なものにすればいいんじゃないの?」
 ②こういう意見もあるでしょう。でも、単に刺激的なだけでは、一瞬目を引くだけで終わってしまう。心の奥までは浸透していかないのです。たとえるなら、子どもが隠れていた物陰から出てきて、「わっ!」と驚かせるようなもの。驚かされた方は、怒ったり相手にしなかったりするかもしれません。相手の理解を得たり興味を引いたりしないと、本当に心を捉えたことにはならないのです。だから、まず何が言いたいのかという主旨をはっきりさせ、そのうえでどんなトーンで伝えるのかという工夫をすることが大切です。

(佐藤可士和『加藤可士和の超整理術』による)


(注1)意に介する:気にする
(注2)バリア:ここでは、壁

(65)①もっと根本的なこととあるが、どのようなことか。


(66)筆者は、広告の受け手をどのようにとらえているか。


(67)筆者は②こういう意見に対してどのように考えているか


(68)広告の発信者に対して、筆者が言いたいことは何か。


 うちの犬は頭がよくないけれどむやみに吠えない。これは犬種の性格である。もうひとつ、絶対に噛みつかない。これは訓練士に仕込まれた成果である。大きな犬なので幼児に噛みついたら事件に なってしまう。
 訓練士は二十代の女性でスクーターに乗ってやってきた。訓練時間は週に4回、各30 分である。半年近く経っても訓練が終わらないので、いつになったら卒業できるんですか、と訊ねた。家庭内での序列がはっきりしたら、と説明する。序列ねえ、どういうことかな、とさらに質問すると、①お宅の坊ちゃんがまだ…
 十年前なので息子は小学生である。体格的にも犬と息子に差がない。うちの犬はまず僕、つぎに妻と気の強い娘に隣参した(注1)のだ。だが息子は軟体動物のようにふにゃらふにゃらとしている。寝てばかりいる。起きてもあくびばかりしている。両者は最下位争いを演じたまま四つに組んで(注2)決着がつかないらしい。
動物は序列に敏感なのだ。
(中略)
 女性の訓練士が説明した。犬をかわいがっているつもりで甘やかし、②腕をがぶりと噛みつかれた飼い主がいた。甘やかせばつけ上がるだけ、自分が主人と信じ込んで飼い主をなめた結果である。動物はつねに威嚇しながら序列を確認しているから、仲間同士は本気でを喧嘩しない。相手が強い、とわかれば争わない。喧嘩したら互いに傷つき、厳しい自然界では生き残れないから。
 さすがに血のめぐりの悪いわが家の犬も、ある日、息子にゴジンと通を叩かれ、長下位が確定、平和的に棲み分けが決まり、予算オーバーの訓練は終了した。
 動物から教訓を得たわけではないが、家族内でもタテマエとしての序列がないと混乱がはじまる。親父の権威の喪失が取り返しのつかないところまできたのは家父長制を否定し(注3)すぎた結果でもある。戦前は長子相続で、次男以下は相続権がなく女性にいたってはその他大勢の扱い、ひどいものだった。そういう状態を復活せよ、と述べているのではない。
 職場で女性がもっと管理職に進出できる環境は整えたほうがよいし、僕の経験からして共働きには賛成である。家事も分担したほうがよい。だが③男女平等をはきちがえてはいけない。家庭は動物の巣に似た面がある。権威としての父性、包容力(注4)の母性まで削り取ってはいけない。父親は筋肉質で髯をはやし、母親には柔らかな肌とやさしい笑顔があるように、それらしく演じ分けたほうがよい。頻発する家庭内暴力が役割構造の喪失と無縁ではないからである。

(猪瀬直樹「家」1999年9月2)6日付朝日新聞朝刊による)


(注1): 経参する:負ける
(注2) 四つに組む: しっかり向き合って闘うこと
(注3): 家父長制:男性の年長者が家族を支記するという制度
(注4)包容力:相手を寛大な気持ちで受け止めるカ

(65)①お宅の坊ちゃんがまだ…とあるが、「まだ」の後に続く言葉はどれか


(66)②腕をがぶりと噛みつかれた飼い主がいたとあるが、この犬はどうして噛みついたか。


(67)③男女平等をはきちがえてはいけないと言っているが、筆者は「はきちがえる」とどうなると考えているか。


(68)この文学で筆者が最も言いたいこは何か。


眺めていると、東京の空には意外にたくさんの鳥が飛んでいる。カラスやスズメばかりではない。カモメもいるし、僕には種類のよくわからない鳥もいる。それらは町人や人家に「適応」した都市鳥ではなく、野生の鳥である。そのような鳥が、コンクリートのビルの上を何事もないように飛び、何の屈託もなく、ビルの一角にとまる。まるで森や林の木の枝にとまるように。(中略)
ツバメが人家の軒先に巣をつくるのは、スズメを避けるためだということを明らかにした研究がある。スズメはふだんはあまり人間を恐れないが、ひなを育てるときは人間を避ける。だから、人がひんぱんに出入りする店先などには巣をかけない。ツバメはそれを利用する。そういう店先の軒に巣をつくれば、嫌なスズメはやってこない。昔、ツバメがたくさん巣をかけると、店は繁盛するといわれた。話は逆であって、繁盛している店にツバメが集まってくるのである。
今、大都市にはツバメがめっきりすくなくなった。かつてのように、どの通りを歩いていても、子育てのために餌を持ち帰るツバメが飛び交う姿は見られなくなった。おそらくツバメたちは、町そのもののつくりや、人間の存在が嫌いになったのではないだろう。町が人工的にきれいになりすぎて、餌にする虫があまりにも減ってしまったので、町ではひなも育てられなくなったから、都会には棲ま(注1)なくなったのである。
こういう事例を見ていると、自然保護とか自然との共生ということについて、尐し考え直す必要があるのではないか、という気がしてくる。
多くの動物たちはわれわれが思っていたよりもずっとしたたかである。自分たちの生活の基盤になる条件さえそろっていれば、たとえその条件が人工のものであとうとも、そしてそこをたくさんの人間がうろうろしていようとも、平気で棲みついてしまう。カラスやツバメのように、人間がいることをむしろ利用しているものだって、けっして尐ないとはいえない。都市周辺で急速に増えつつあるタヌキやキツネもその例である。人間がいるおかげで豊富な食物がたやすく手にはいるようになった。命がけで食物を探す必要はなくなったのだ。
けれど、都市化によってツバメは餌を失った。モンシロチョウ(注2)は日なたを失った。
水面に浮いて生活するアメンボ(注3)は、水が汚かろうと富栄養化(注4)していようと一向にかまわない。彼らにとって重要なのは、水に表面張力だけである。たとえ科学的に無害物質によってでも、水の表面張力が低下すれば、彼らは弱れてしまう。
 やたらと動物たひに遠慮することはないのかもしれないが、それぞれの動物にとってのこのキー・ポイントは侵してはならない。
(注1)棲む:住む
(注2)モンシロチョウ:チョウの一種類
(注3)アメンボ:昆虫の名前
(注4)富栄養化:栄養のある物質がたまり、小さい生物が異常発生する状態になること

(65)ツバメが人家の軒先に巣をつくる理由として適当なのはどれか。


(66)筆者によると大都市でツバメが尐なくなったのはなぜか。


(67)多くの動物たちはわれわれが思っていたよりもずっとしたたかであるとあるが、どのような点でしたたかだと筆者は考えているか。


(68)この文章で筆者が言いたいことは何か。