ヒトの言語の特徴を考えるうえで、動物の行動研究から得られるデータは重要である。
よく知られているように、動物は多種多彩なコミュニケーション手段を発達させている。有名な例では
蜜蜂(注1)のダンスがある。蜜蜂は密の多い花の集落
(注2)を見つけると、巣へ戻って、仲間の前でダンスを始める。ダンスの数と角度が花の方向と距離を表現する。このダンスは、そこにないもの(=花の位置)を、まったく違う手段(=個体の運動)で表わすという点で、明らかに記号性を行している。もしこのダンスが、蜂が生まれてから社会の中で得するものだとしたら、この①
記号はヒトの言葉ときわめて類似した機能を持ていると考えてよいであろう。
二本バル
(注3)が数多くの音声を状況に応じて使い分けていることも、よく知られている。多い場合、この数は五◯を超えると言われる。ただしこれらの音声は、満足を示す、
威嚇する
(注4)、危機の接近を示、など、ある大きな状況を知らせるものであって、特定の物体(たとえばジャガイモ)、あるいは特定の敵(たとえば人間)を表わすことができるタイプの音声ではない、つまりこれらの音声は、ある状況を知らせる「信号」ではあるが、記号ではない。
進化の系統樹
(注5)でヒトにもっとも近いチンパンジーは、言語力でもヒトとつながるところがあるようである。たとえばチンパンジーには、ある種の記号をあやることを教え込むことができる。チンパンジーには音声を分節する
(注6)だけの構音器官がないため,実験は手話やレキシコグラフ(話を一つの図形で表わす)を用いて行われる。彼らは、これら手や目を使って覚えこんだジェスチュア
(注7)や絵が、そこにないあるモノを表わすことができる「②
しるし」であることを理解し、それらを用いて、そこにないモノを求し、あるいは、目前のものに対応するジェスチュアを表したり、図形を選び出したりすることができる。彼らはこのような記号を何十も覚えることができるばかりか、ときにはこれらをつなぎ合わせて、今までにない、表現を作り出すことすらできる。このような驚くべき事実は、チンパンジーの大脳の働きがヒトにつながる高度さを有していることを証明している。彼らの大脳には,ヒトの言語出現を可能にした組織構造の
萌芽が存在しているのである。
ただ、これらのデータは衝撃的ではあるが、実験室のデータであることを忘れてはならない。ヒトと暮らし、ヒトに教えられて、ヒトとの交信方法を覚えたこれらのチンパンジーは、もはや野生に返しても仲間に受け入れられず、孤立してしまう、という報告もある。チンバンジーのこうした能力はヒトが教え込んだものであり、ヒトの
媒介(注9)なしに、チンパンジー同士のあいだで自発的に出現したものではない。あくまで強制的に開発されたもので、特殊な能力である。
また、ヒトの子供は、ことばをある程度マスターすると、その後は語彙も表現能力も短期間に幾何級数的
(注10)に増加し、他者とことばを交換することができるようになるが、チンバンジーの語彙は、教え込まれた以上に増加することはない。
(山島重「ヒトはなぜことばを使えるか」講談社)
(注1)
蜜蜂:ハチの一種。
蜜蜂をとるために飼われる
(注2)集落:人の家の集まり。小さい村
(注3)ニホンザル:日本に住む猿の一種
(注4)
威嚇する:相手が怖がるようにおどす
(注5)系統樹:生物の進化を1本の木にたとえて表したもの
(注6)分節する:ひとつづきのものを区切る
(注7)ジェスチュア:ジェスチャ、身振り
(注8)
萌芽:新しいもののはじまり
(注9)
媒介:2つの間に入って情報を伝えるもの
(注10)幾何級数:2、4、8、16のように同じ比率で増えていく数