ことばがこうして、いいとか、悪いとか価値づけされて受けとめられている、ということは、ことばが、人間の道具として使いこなされているのではなく、逆に、何らかの意味で、ことばが人間を支配している、ということを示している、と考える。「近代」が「混乱」であり「地獄」であると思い込む者lJI、「近代」と名のつくものを、‐考えるよりも前に、まず憎むであろう。他方「非常に偉い」ように感じている者は、冷静に見てみるよりも、まずあこがれるであろう。
  ①人がことばを、憎んだり、あこがれたりしているとき、人はそのことばを機能として使いこなしてはいない。逆に、そのことばによって、人は支配され、人がことばに使われている。価値づけして見ている分だけ、人はことばに引きまわされている。 このような事情は、「近代」に限らない。これは私たちの国における翻訳語の基本的特徴なのである。
 ②翻訳語の成立の歴史について考えるとき、これを単にことばの問題として、辞書的な意味だけを追うというやり方を、私はとらない。ことばを、人間との係わりにおいて、文化的な詈件の要素という側面から見ていきたいと思う。とりわけ、ことばが人間を動かしている、というような視点を重視したい。
 たとえば、「近代」はmodernなどの西欧語の翻訳語として、1世紀前頃から使われるようになったことばであるが、modernを中心に見れば、③このことばは、「近世」とか、その他いろいろなことばに翻訳されている。しかし、とくに私が、「近世」その他ではなく、「近代」という翻訳語に注目し、ここでとりあげる理由は何か。それは、とくに「近代」が、人々を惑わせることばになりがちだからである。
 ことばが憎まれたり、あこがれられたりするような事情は、ことばの通常の意味、辞書的な意味からは、どうしても出てこない。それだけに、従来ことばについて専門‐的に考察する人々に、ほとんど無視されてきた。だが、見過ごされてきたにもかかわらず、ことばの問題としても、また学問・思想、広く文化の問題としても、とても重要なこと、と私は考えるのである。
 私は、翻訳語の成立の事情を考察するとき、以上のような視点を重視している。つまり、ことばの、価値づけられた意味である。そしてそのことは、ことばの乱用、流行現象、ことばの表面上の意味の矛盾、あるいは異常な多義性、というような面からとらえていくことができる。逆に見れば、「近代」などの翻訳語は、こうして乱用され、流行することによって、翻訳語として定着し、成立してきた、と言うことができると思う。

(柳父章『翻訳語成立事情J岩波新書を一部改)

(66)①人がことばを、憎んだり、あこがれたりしているとは、どういうことか。


(67)筆者が考えている②翻訳語の成立の歴史とは具体的にどのようなことか。


(68)③このことばとは、何を指しているのか。


(69)この文章で、筆者が最も言いたいことは何か。


 私の専門が哲学ということもあって、幸福について論じてくれといつた原稿依頼もたまにあります。しかし、私は「幸福論」というものが嫌いです。そもそも「幸福になりたい」という気持がどうも好きになれない。
 したがつて、「幸福論」といつたたぐい(※1)の本はほとんど読んだことがありません。でも、改めて考えてみますと、日本人と欧米人とでは「幸福」について考えている内容や意味が少しち力うように思うのです。
 欧米人にとつては、もともとキリスト教が背景にありますから、「幸福」とは、「至福」「浄福」しいう意味で、神様が「嘉する(善しと認める)状態」のことを言うわけです。そういう状態になりたいと願うのが、彼ら欧米人の「幸福」であり、「幸福論」だと思います。これは分からないでもありません。
 ところが近代以降の日本人は、もともと宗教的背景が希薄(きはく)(※2)ですから、神の善しとしません。ですから、日本人が幸福になるというのは、「他人よりもよい状態になりたい」ということになってしまうのですね。勝ち負けでいうと「勝ち組みになろう¥という意義です。「勝ち組」になれれば、世間的に幸福だろうと考えるのです。
 「幸福」という言葉は「happiness」の翻訳語でしよう。日本では、「仕合わせ(幸せ)」という言葉はありましたが、それは「巡り合わせ(※3)」とか「天運(※4)」といった意味です。ですから、「あまり悪い日に遭わずにすむような、よい巡り合わせ」を願うという気持はあったのでしよう。
また、「どうぞご無事で」という挨拶があるように、「あまり悪い事がないように」と願う気持はあったと思うのです。これなら分かります。
しかし、「他人よりもよい状態になろう」といったことを、あからさまに(※5)口に出したり思つたりはしないのが、①昔からの日本人の嗜み(※6)だったはずです。
 ところが、今の日本人はみんな「仕合わせ」ではなく「幸福」になりたいと思っている。それは「他人よりもいい生活をしたい、いい思いをしたい」ということですよね。今の日本人にとっての「幸福」とは、そういうことだと思います。(中略)
 ②「貧しいけれども幸福だ」などと言うのも、他の家庭と比べて、わが家は貧乏だけど家族が仲良く暮らしているだけましという自負(※7)であって、やはり他人と比べて、ちょっといい状態だということです。
 ですから、私には、日本人が「幸福」と言うとき、「他人と比べて」という意味が含まれているような気がしてならないのです。

 (本田元『哲学は人生の役に立つのか』PHP究所による)

 (※1)たぐい:同じ種類のもの
 (※2) 希薄:乏しい、弱い
 (※3)巡り合わせ:自然に巡ってくる運命、
(※4)天運:天から与えられた運命
(※5)あからさまに:そのまま包み隠さずに、明らかに
 (※6)嗜み:普段の心がけ、控えめな態度
 (※7)自負:ある事柄に自信と誇りを持つこと

(1)欧来人の「幸福論」と日本人の「幸福論」の説明として、本文の内容に合っているものはどれか。


(2)①昔からの日本人の嗜み異なるものはどれか。


(3)筆者の言う、②「貧しいけれども幸福だ」と感じられる状態は、次のうちどれか。


(4)筆者が「幸福論」を好きになれない理由の一つに考えられるものはどれか。


 「買う」という行為ひとつ取って考えてみても、現実の「買う」という行為は、旧来(注1)の経済学の入門書などにみられる説明からはみ出している。”「需要」と「供給」の心要性に基づいた関係の充足(注2)”云々といつた平板な説明などでは到底、納りきらない。
 たとえば、旅先で雨が降り出して傘が必要になったとする。ちょうど新しく傘が欲しいと思っていた矢先(注3)だとしても、気に入った色、柄、デザインの傘が見つからなかったりすれば、
 「まあ、いいや。東京に戻ってから買おう」
 と、ビニールの使い棄て(注4)のようなもので間に合わせてしまったり、場合によっては、①買わないですませてしまったりする。今日では、モノ、商品の実用的機能よりも、色、柄、デザインなどの情緒的、情報的機能の方が、場合によってはずっと意味をもつ時代になってきている。
 モノ、商品との出会いによって、買い手がもっている趣味やイメージが触発(注5)され、何としても手に入れたいものだと欲求を刺激される。いったん、そうなると、多少無理してでも、それを手に入れようと情熱的になる。(中略)
 「需要」と「供給」という必要性に基づいた関係のパランスなんていう平板なものではない。そもそも、モノと私たちとの関係は、②ニワトリの頭数とエサの量といったような単純なものではない。もしも、ニワトリの頭数とエサの量の関係のようなものなら、「需要」と「供給」のパランスといった説明の仕方ですませることができようが、ニワトリがエサを必要とするのと、私たちがレストランで食事をしたり、デパートでセーターを買ったりするのとでは根本的に異る。「需要」とか「供給」とか「必要性」とかは、言ってみるならば経済活動、消費行動に( A )な性格を与えるためにつくり出された概念なのであって、それ以上のものではない。
 生きて行くために栄養分を取らねばならないというのなら、錠剤(注6)に水でもよいし、それこそニワトリとエサのような単純な関係に還元可能で、「需要」も「必要性」も、あるいは「供給」の状態もすべてハッキリと見えてくるだろう。だが、人間は、そんな単純な存在ではない。人間の社会においても、かつてのように低次欲求も満足させていない時代には、「あそこの町の人口は何人で、したがって米を何俵仕入れたらよいか」といったように、「需要」がみえたろうもしかし、今日はそんな時代ではない。(中略)
 「買う」という行為は、経済的な行為ではあるが、実は、それ以上のものであり、もっと人間実存(注7)のトータルな観点から捉え直し、再構成されねばならない。

 (赤塚行雄『祝祭時代の経済JKK河出パンダブックスによる)

 (注1)旧来:従来、昔から(注2)充足:十分に満たすこと、満ち足りること
 (注3)矢先:ちょうどその時
 (注4)使い棄て:一~数回の使用で捨ててしまうこと、そのように作られたもの
 (注5)触発:何らかの刺激を与えて行動の意欲を起こさせること
 (注6)錠剤:医薬品をある一定の形にして飲みやすくしたもの
 (注7)人間実存:人間の主体的なあり方

(1)①買わないですませてしまうのはなぜか。


(2)②ニワトリの頭数とエサの量との関係について、本文の説明と合うのはどれか。


(3)( A )に当てはまる言葉は次のうちどれか。


(4)「買う」とぃう行為に関する筆者の主張と合わないはどれか。


 ある人は、コンクリートも自然素材であるという。主要な材料は砂、砂利(注1)、鉄、セメントであり、セメントも石灰石(注2)が主原料であるから、それらの自然素材を組み合わせて作つたコンクリートも自然素材だというロジツクである。(中略)
 自然素材か否かの境界は極めて曖味である。そこに線を引く行為に安住してはいけない。線引きからは何も生まれない。線引きは何も正当化しない。われわれは、①線引きの先に行かなくてはいけない。自然な建築とは、自然素材で作られた建築のことではない。当然のこと、コンクリートの上に、自然素材を貼り付けただけの建築のことではない。
 あるものが、それが存在する場所と幸福な関係を結んでいる時に、われわれは、そのものを自然であると感じる。自然とは関係性である。自然な建築とは、場所と幸福な関係を結んだ建築のことである。場所と建築との幸福な結婚が、自然な建築を生む。
 では幸福な関係とは何か。場所の景観となじむことが、幸福な関係であると定義する人もいる。しかし、この定義は、建築を表象として捉える建築観に、依然としてとらわれている。場所を表象として捉える時、場所は、景観という名で呼ばれる。表象としての建築と、景観という表象を調和させようという考えは、一言でいえば他人事として建築や景観を評論するだけの、②傍観者(注3)の議論である。表象として建築を捉えようとした時、われわれは場所から離れ、視覚と言語とにとらわれ、場所という具体的でリアルな存在から浮遊していく。コンクリートの上に、仕上げを貼り付けるという方法で表象を操作し、「景観に調和した建築」をいくらでも作ることができる。表象の操作の不毛に気がついた時、僕は景観論自体が不十分であることを知った。
 場所に根を生やし、場所と接続されるためには、建築を表象としてではなく、存在として、捉え直さなければならない。単純化していえば、あらゆる物は作られ(生産)、そして受容(消費)される。( A )とはある物がどう見えるかであり、その意味で受容のされ方であり、受容と消費とは人間にとって同質の活動である。一方、存在とは、生産という行為の結果であり、存在と生産とは不可分で一体である。どう見えるかではなく、どう作るかを考えた時、はじめて幸福とは何かがわかってくる。幸福な夫婦とは、見かけ( B )がお似合いな夫婦ではなく、何かを共に作り出せる(生産)夫婦のことである。

 (限研吾「自然な建築」岩波新書による)

 (注1)砂利:小石や、小石に砂が混ざつたもの
 (注2)石灰石:鉱物の一種
 (注3)傍観者:今起こっている問題をそばで見ているだけの人

(1)①線引きの先に行かなくてはいけないとあるが、どういう意味か。


(2)②傍観者の議論とあるが、傍観者の例として合わないものはどれか。


(3)( A ) ( B )の組み合わせとして適当なものはどれか。


(4)筆者の考えによると、「自然な建築」とはどのようなものか。


 かつて大人たちは、子どもたちがゲームやテレビアニメに熱中しているのを見ると、「現実とヴァーチャル世界の区別のつかない人間になってしまう」と心配した。そして、時に子どもたちが信じがたい、残忍な犯罪を起こすと、「ゲームやアニメの世界で簡単に人が死んでいくのを見てきたから、現実世界でもゲーム感覚で簡単に人を殺すようになった」とマスコミは書きたてたく(※l)。
 しかし、当時そういった、いかにも短縮的(※2)で、ステレオタイプな論調を耳にするたびに、「いくゲームやアニメ漬けの生活をしていたとしても、実際に現実ヴァーチャルの区別がつかなくなり、シューティングゲームで敵を殺すように、簡単に生身の人間を殺してしまうなんてことは、まずあり得ない」と、多くの人は思っていたはずだ。
 (中略)しかし、①どうやらそうではないらしいことが、しだいに明らかになりつつある。
 日本人は、戦後一貫して、アニメ、ゲーム、キャラクターに囲まれる生活をしてきた。そして、キャラクターとの間にもはや抜き差しならない(※3)ほど強い精神的な絆を結んでいる。その中で、「キャラ化」の感党は常に、ぼくらと寄り添い、身体化し続けているのだ。
 キャラクターだけでなく、高度情報化の包囲網もぼくらから「現実世界」との接触を奪いつつある。
 一九九〇年代以降のインターネット、携帯電話の急速な普及は、高度情報化社会を一気に生活レベルにまで浸透させた。今では、多くのビジネスマンは日々パソコンの前で生活し、他の多くの人たちも携帯電話から目が離せない生活を送っている。実際、電車に乗ると、半数以上の人が携帯電話の画面を覗き込み、メールかゲームに興じている。
 これは、もはや②当たり前になってしまった日常世界なのだが、少し引いて見てみると、ある種異様な光景でもある。彼らは、本当に「現実世界」を生きているのだろうか。かりそめの(※4)身体はそこにあったとしても、意識そのものはすでに③仮想現実会社で暮らしているのではないのか。そう感じてしまうのは、ぼくだけではないような気がする。
 (中略)
 日常的なコミュニケーションの多くも、今では対面ではなく、メールや電話で行うことが当たり前になっている。実際には一度も会うことなく、メールだけでことが済んでしまう相手だってめずらしくなくなってきている。
 ぃやむしろ、メール中心の、仮想現実的なコミュニケーションに慣れてしまうと、実際に対面して行うコミュニケーションが億劫は(※5)になったり、不快になったりするといった経験をした人も少なくないはずだ。メールが中心となるコミュニケーションの相手は、もちろん現実の存在ではなく、情報としての対象である。つまり、おもしろいことに、ぼくらは現実の存在(対面する相手)よりも情報としての対象(メールでの相手)のほうに親近感を持ったり、愛着を覚えたりしているということなのだ。

(相原博之「キャラ化するニッポン」講談社現代新書による)


 (※1)書きたてる:新聞や雑誌などが盛んに書く
 (※2)短絡的:本質を考えずに原因と結果を結びつけること
 (※3)抜き差しならない:どうすることもできない
 (※4)かりそめの:本当ではない一時的な
 (※5)億劫:面倒で気が進まない

(21)①どうやらそうではないらしいことあるが、そうとは何を指しているか


(22)②当たり前になってしまった日常世界の例として正しいものはどれか。


(23)ここでの③仮想現実会社の説明として正しくないものはどれか。


(24)本文の内容と合っているものはどれか。


 新しい芸術について語り、芸術は、つねに新しくなければならないと主張するまえに、「新しいということは、何か」という問題をはっきりさせたいと思います。
 まず、新しいという言葉そのものについて、考えてみましよう。①以外にも、大きな問題をふくんでいます。だいいち、この言葉の使い方に、混乱が見られるのです。たとえば、新しいということは、無条件に清純で、ちょうど酸素のように、それがあって、はじめて生きがいをおぼえるような、明るい希望にみちたものです。
 ところで、また、これが逆によくない意味で使われることがあるのは、ご存じのとおりです。つまり、また無条件に、なまっちょろくて未熟、確固としたものがない、軽佻浮薄(けいちょうふはく)(注1)の代名詞にもなるのです。
 おなじ言葉に、このような二つの相があり、反対の価値づけをされています。一方にとって強烈な魅力であり、絶対的であればあるほど、それだけまた一方には、対極的に反発し、悪意をもつ気配も強いのです。これが抽象語におわっているあいだは問題はないのですが、いったん社会語として、新旧の世代によって対立的に使い分けをされはじめると、思いのほか深刻な意味あいをふくんできます。いったい、どういうわけで、どんなぐあいにこの対立が出てくるか、見きわめる必要があります。
 新しさをほこり、大きな魅力として押しだしてくるのは、それを決意するわかい世代であり、このもりあがりにたいして、古い権威は、既成のモラルによって批判し、進断しようとするのです。
 (中略)
 世の中が新鮮で動的な時代には、新しさが輝かしい魅力として受けいれられ、若さが希望的にクローズアップされます。しかし反対に、動かない、よどんだ時代には、古い権威側はかさにかかつて新しいものをおさえつけ、自分たちの陣営を固めようとします。
 たとえば、われわれの身辺をふりかえつてみても、この②命的な攻防ははっきりと見てとれるのです。
 (中略)
 言葉の使い方のうらには、あいいれない対立的な立場、時代的な断層があるのです。にもかかわらず、同じ共通語でちがった考えを主張するから、混乱がおこってくるのです。
 このように言えば、新旧の対立を、やや図式的に二分しすぎ、新しい芸術家の立場から身びいき(注2)な言い方をしているように感じられるかもしれません。しかし、歴史をひもとけば、あらゆる時代に残酷な新旧の対立があり、新しいものが前の時代を否定し、打ち倒して、発展してきていることがわかります。
 自分の時代だけを考えていると、どうしても、ものの見方が近視眼的に、安易におちいりやすいので、どこまでも広く、冷静に観察すべきなのです。

(岡本太郎「今日の芸術一時代を創造するものは誰か」光文社知恵の森文庫)


 (注1)軽佻浮薄:気分が浮わついていて、軽々しいこと。
 (注2)身びいき:自分に関係のある人だけに特別な対応すること。

(21)筆者は「新しい」という言葉をどのように説明しているか。


(22)①以外にも、大きな問題をふくんでいますとあるが、筆者は何が問題だといっているか。


(23)②命的な攻防の説明として本文の内容と合っているものはどれか。


(24)筆者の主張と合っているものはどれか。


 現代社会は進んでいて、世のなかも豊かになっているのだから、子供たちにとっても、昔よりもずっといい環境になっているはずだと、大人は思いがちですが、現実はそうではないのです。それはいま述べてきたように、消費社会の実現が、まさに過剰な欲望を生み出してきたからです。その過刺な欲望をわれわれはコントロールできなくなっているのです。①それが衝動しょうどう(注1)突出(とっしゅつ)させることになります
 さらに、個人主義が行き過ぎた面があります。何でも自分のやりたいことをやるのがいいのだという風潮ふうちょう(注2)です、今や子供の議牲になりたくないという女性がふえています。子育てに時間や労力をとられることを、子供の犠牲になっていると受け取るのです。
 「ほんうは、私にはもっとやりたいことがあるのに」というわけです。子供を保育園などに預けて働く女性もふえています。それがそのまま幼児期のしつけの低下に結び付くというのではありませんが、子供にかかわる時間はやはり少なくなるのは確かです。そこで、共働きのような場合には、短い時間でも密接に子供とかかわる、父親が育児のある部分を負担するという工夫も必要になってくるわけです。
 また、専業主婦であっても、子育てのストレスを解消するために、趣味や習い事、あるいは時にはパチンコなどでさを晴らす(注3)という人も多くなっています。子供が生まれても,女性の関心は、子供以外のいろいろなところに向けられています。その背景には、やはり子供の犠牲れになりたくない、自分は自分の世界があるのだという、個人主義が浸透しんとう(注4)したがゆえの、女性の自立の問題がかかわっています。
 さらに、離婚もふえています。相手を嫌いになったら、簡単に別れればいいという風潮です。かつては、間題があっても、子供のために離婚しないという女性も多かったものです。②それがいいというわけではありませんが、今は、子供がいても、簡単に離婚します。そのときには、子供が邪魔な存在となってしまいます。離婚すれば、家底は混乱して、なかなか一貫いっかんした(注5)育児ができません。子供になえる影響も大きいのです。
 もちろん、日本にはまだ子供を大切にするという風潮は残っていますが、豊かなゆえにかえって、自分の生きがいを求めて自己本位になってしまっている面があるのです。それが離婚の増加や育児能力の低下を招いているということは否定できないことです。そういうことを考えると、まさに、豊かであるがゆえに育児能力が低下して、③衛動的な若者が多なっているといえます。そして、それがまた青少年の犯罪の増加、凶悪きょうあく(注6)化につながっているというのが現状なのです。

(町沢静夫日『「自己チュー」人間の時代』双社)

(注1)衝動(しょうどう):突然あることをしたくなって、抑えることができない気持ち
(注2)風潮ふうちょう:その時代の傾向
(注3)さを晴らす:憂鬱(ゆううつ)な気持ち、いやな気持ちを消す
(注4)浸透しんとうする:多くの人にだんだん広がる
(注5)一貫いっかんする:始めからわりまで一つの考え方で行う
(注6)凶悪きょうあく(な) :非常に悪いことを平気で行うこと

(1)①それが衝動しょうどう突出(とっしゅつ)させることになりますとあるが、これはなぜか。


(2)②それは何を指すか。


(3)③衛動的な若者とあるが、この例として考えられるものはどれか。


(4)この文章で筆者が最も言いたいことはどんなことか。


 よく新聞の記事などで、①特定の登場人物の特定の物語が出てくることがあります。たとえば難病対策の遅れを語るのに、話のまくら(注1)してその患のひとりを採り上げるとか。あるいは被災地の苦難を伝えるのに、特定の家族のキャンプ生活を探り上げるとか。また単に特定の人物が登場するだけではなく、ある程度、しょうてん(ー(けつ)(注2)まではなくても)があるのが特徴です。
 理屈を超えて、情動(注3)に直接訴えかける、読を説得するという意味で、特定人物の工ビソードを伝えるのは、どうやら定化した効果的なやり方のようです。またその効果は何も新聞記事に限らず、映像ドキュメンタリーでも、映画でも一緒のようです。
 否応(いやおう)なく説得されてしまうという意味で、工ビソードや物語というのは、情動に特化してアピールするような、よく出来た仕掛けと言えます。言うなれば、人類が発明した一種の②「装置」なのです。
 この装置が、文学やフィクションの世界で使われているうちは、③まだよかった。また報道でも、実在に基づいて誇張なく全体の真実を代表させているうちは、③まだよかったのです。ところが昨今(さっこん)では、これが政治的な世論操作にも活用されるようになっています。
 一九九七年のハリウッド映画『ワグ・ザ・ドッグ』はロバート・デ・ーロとダスティン・ホフマンの二大スターが競演した傑作でした(この変わった題名は、犬が尻尾(しっぽ)を振るのではなく、逆に大が尻尾に振られてしまうということから、本未転倒といった意味です)。ハリウッドの辣腕(らつわん)(注4)プロデューサーと大統領がグルになって戦争を演出し、捏造(ねつぞう)(注5)までしてしまうというとんでもない話。大衆操作を(めぐ)る政治状況を、フィクショナル(注6)に誇張し揶揄(やゆ)した(注7)という点で秀逸(しゅういつ)(注8)政治コメディだったのです。が、その後の現実の経過を見ていると、もはや誇張などと言っていられなくなってさました。
 戦場の孤児、片足を失った少女。イラクで人質になって生還し、一躍「戦場のヒロイン」となった女性兵士。そして戦火の中、あえてポスニアを訪問したヒラリー・クリントンなど(この最後の例はすくに壟がバレてしまいましたが)。
 米国の政権担当者は明らかに意図的に、こうしたエピソードの力を使っています。半面で、たとえばイラク国民の死者総数など、自分に擂合の悪い情報は「戦時」を言い訳に徹底的に報道管制し、その結果おおよその裄数(けたすう)の推定すらおぼっかない(注9)状況が税いています。

(下降信仙『サプリミナル・インパクトー情動と潜在認知の現代』筑摩書房)

(注1)まくら:本題を導入するために、はじめにする話
(注2)起承転結(きしょうてんけつ):文なの組み立て
(注3)情動:怒り、喜び、悲しみなど感情の急激な動き
(注4)腕:物を処理する徒力が優れていること
(注5 )造:事実でないことを事実として出すこと
(注6 )フィクシ"ョナル:本当のことではない、作り事の,メ在わ再する:冗談や皮肉を言って相をからかう(注訂秀逸な:他よりも特に優れている注9 )おぼっかない:はっきりしない。わからない

(1)①特定の登場人物の特定の物語が出てくるのはなぜか。


(2)②「装置」という言葉を筆者が使っているのはなぜか。


(3)③まだよかったという表現の説明として最も適当なものはどれか。


(4)「特定人物のエピソードを添える」という手法について第者が言いたいことは何か。


 最近、青山通り(注1)でやたら女性ドライバーをが目立つ。結構若い女の子が、外車(注2)を乗りまわしているのだ。
 最近の傾としてッ愛しツ「も一、当と一緒にるのなをカきちゃらて」飽きちゃって最近の傾向として、可愛い女の子ほど二人連れだ。
 「も一、男と一緒にいるのなんかを飽きちゃって・・・・・・・」
 という風情(ふぜい)(注3)が憎たらしい。長い髪の毛なんかサラッとしちゃって。やや(あご)を上向き加減にレてハンドルを握っているのだ。私はそういう光景を目にするたびに、いつもタクシーの中でひとりつぶやく。
 「どうやったら、あんなふうに、お気楽でいられるのかしらん」
 綺麗(きれい)な格好で外車に乗っているのが羨ましいのではない。想像力が全く欠如(けつじょ)している(注4)ことに私は感嘆している(注5)のだ。
 青山通りを曲がって、路地に入ったところで子どもがとび出してくるとは、どうして考えないのだろう。そして、その子どもをひいちゃうということが、チラッとでも頭をかすめないのかしらん。
 自分たちは永遠に、こうして楽しくドライビングできると思っている。その精神がすごい。私なんか教養と自己分析ゆえの、①規像力が異常に発達してるから、とてもこんなことはできませんわ。
 事故が起きたら、たちまち地獄(じごく)よね。病院に行って泣いておわびをする。万が一、子どもが亡くなったりしたら、どうなる!? お葬式に焼香に行くとする。すると、四方から鋭く冷たい視線がとびかう。女がとび出してきて、むしゃぶりつく(注6)。「あの子を返してちょうだい! 返してよお!!」
 おお、嫌だ。ぶるぶる。そういうことを考えると、女子大生雑誌の「初めての車」特集に②空恐(そらお)ろしいものを感じてしまう、今日この頃の私なのである。
 しかし、こういうことを言うと、たいていの人は言うのだ。
 「そんなこと、いちいち考えたら、なんにもできないじゃないですか。子どもをひくなんて、よっぽど運が悪くて、めったに無いことなんだから、ふつうの人は考えませんよ」
 ③果してそうであろうか。私はそういらのボディコン娘(注7)に一度開いてみたい。「あんたたち、今の状態が永遠に続くと思ってるの? 何か大きなアクシデントが起こるとは考えたりしないの?」
 しかし、こんなこと言っても無駄ふしら。年増(としま)のとりこし苦労(注9)と思われるかしらん。若いというのはそれだけで傲慢(ごうまん)(注10)なものだ。自分にだけは不幸が訪れないと過信している、だからいろいろ本胆なこともできるわけですがね自分にだけは不幸が訪れないと過信している。だからいろいろ本胆なこともできるわけですがね。

(林真理子「女のことわざ辞典ー講談社)

(注1)青山通り:東京の中心部にあり、しゃれた店などが多い通り
(注2)外車:外国製の自動車
(注3)風情(ふぜい):様子
(注4)欠如(けつじょ)する:欠ける
(注5)感喫する:すばらしいと驚く
(注6)むしゃぶりつく:激しく強く取り付く
(注7)ボディコン娘:体の線を強調した服を着た若い女性
(注8)年増(としま):少し年を取った女性
(注9)とりこし苦労:不要な心配
(注10)傲慢(ごうまん)(な):自分は偉い、自分はすごいと思い上がっているようす

(1)①規像力が異常に発達してるとあるが、この結果、どんなことが起ごるか。


(2)②空恐(そらお)ろしいものを感じてしまうのはなぜか。


(3)③果してそうであろうかとあるが、「そう」はどんなことを指すか。


(4)この文章で筆者 が言いたいことを最もよく表している(ことわざ)は次のどれか。


 ヒトの言語の特徴を考えるうえで、動物の行動研究から得られるデータは重要である。
 よく知られているように、動物は多種多彩なコミュニケーション手段を発達させている。有名な例では蜜蜂(みつばち)(注1)のダンスがある。蜜蜂は密の多い花の集落(注2)を見つけると、巣へ戻って、仲間の前でダンスを始める。ダンスの数と角度が花の方向と距離を表現する。このダンスは、そこにないもの(=花の位置)を、まったく違う手段(=個体の運動)で表わすという点で、明らかに記号性を行している。もしこのダンスが、蜂が生まれてから社会の中で得するものだとしたら、この①記号はヒトの言葉ときわめて類似した機能を持ていると考えてよいであろう。
 二本バル(注3)が数多くの音声を状況に応じて使い分けていることも、よく知られている。多い場合、この数は五◯を超えると言われる。ただしこれらの音声は、満足を示す、威嚇(いかく)する(注4)、危機の接近を示、など、ある大きな状況を知らせるものであって、特定の物体(たとえばジャガイモ)、あるいは特定の敵(たとえば人間)を表わすことができるタイプの音声ではない、つまりこれらの音声は、ある状況を知らせる「信号」ではあるが、記号ではない。
 進化の系統樹(注5)でヒトにもっとも近いチンパンジーは、言語力でもヒトとつながるところがあるようである。たとえばチンパンジーには、ある種の記号をあやることを教え込むことができる。チンパンジーには音声を分節する(注6)だけの構音器官がないため,実験は手話やレキシコグラフ(話を一つの図形で表わす)を用いて行われる。彼らは、これら手や目を使って覚えこんだジェスチュア(注7)や絵が、そこにないあるモノを表わすことができる「②しるし」であることを理解し、それらを用いて、そこにないモノを求し、あるいは、目前のものに対応するジェスチュアを表したり、図形を選び出したりすることができる。彼らはこのような記号を何十も覚えることができるばかりか、ときにはこれらをつなぎ合わせて、今までにない、表現を作り出すことすらできる。このような驚くべき事実は、チンパンジーの大脳の働きがヒトにつながる高度さを有していることを証明している。彼らの大脳には,ヒトの言語出現を可能にした組織構造の萌芽(ほうが)が存在しているのである。
 ただ、これらのデータは衝撃的ではあるが、実験室のデータであることを忘れてはならない。ヒトと暮らし、ヒトに教えられて、ヒトとの交信方法を覚えたこれらのチンパンジーは、もはや野生に返しても仲間に受け入れられず、孤立してしまう、という報告もある。チンバンジーのこうした能力はヒトが教え込んだものであり、ヒトの媒介(ばいかい)(注9)なしに、チンパンジー同士のあいだで自発的に出現したものではない。あくまで強制的に開発されたもので、特殊な能力である。
 また、ヒトの子供は、ことばをある程度マスターすると、その後は語彙も表現能力も短期間に幾何級数的(注10)に増加し、他者とことばを交換することができるようになるが、チンバンジーの語彙は、教え込まれた以上に増加することはない。

(山島重「ヒトはなぜことばを使えるか」講談社)

(注1)蜜蜂(みつばち):ハチの一種。蜜蜂(みつばち)をとるために飼われる
(注2)集落:人の家の集まり。小さい村
(注3)ニホンザル:日本に住む猿の一種
(注4)威嚇(いかく)する:相手が怖がるようにおどす
(注5)系統樹:生物の進化を1本の木にたとえて表したもの
(注6)分節する:ひとつづきのものを区切る
(注7)ジェスチュア:ジェスチャ、身振り
(注8)萌芽(ほうが):新しいもののはじまり
(注9)媒介(ばいかい):2つの間に入って情報を伝えるもの
(注10)幾何級数:2、4、8、16のように同じ比率で増えていく数

(1)ここで言う①記号の説明として最も適当なものを選べ。


(2)本文中で②しるしと同じ意味で使われている言葉はどれか。


(3)ニホンザルとチンパンジーのコミュニケーション手段について,文章の内容と合っているものはどれか。


(4)この文で筆者が伝えたいことは何か。