自然は多種多様の生物群が存在することで、それなりの安定を維持している。そのなかの一種ないし数種を撲滅することは、とりもなおさず全体のバランスをくずす結果になる。複雑な形の自然石かつみかさなってできた石垣から、一個ないし数個の石をひきぬいたらどうなるか。影響はたちまち全体におよび、石垣そのものの大規模な崩壊をおこすにちがいない。ちょうどそれとおなじである。しかも自然界の場合、構成それ自体が複雑であるゆえに、影響もいっぺんには表面化しない。ある部分はたちどころ(注1)に、べつの部分は長期間をおいたのちに、被害の進行をあらわにしてくる。人間自身の予想もしなかった個所へ、①意表をついた連鎖反応の結果がでてくるのである。Aなる(注2)害虫を除去する目的で、ある薬剤が使用されたとしよう。その目的はたっせられて、Bなる作物が虫害をまぬかれた。しかしその結果、おなじくAによって食い殺されていたCやDの種属が、抑制因子をとりのけられて爆発的に増加し、あらたな害虫となってBにおそいかかる。こういった例が多数あるのである。
 殺虫・殺菌の効能をもつ化学薬品が、いったん開発されてこのかたというもの、人間は文字どおりなりふり(注3)かまわず、ひたすらそれへの依存度を増し、つまり量質ともに強大化する方向へっっぱしった。なぜそのようにしなければならなかったのか。最近の日本では、②このことをもいわゆる公害の一種にふくめ、製薬資本の営利主義――すなわち企業の利益のため不必要な薬品を売りまくって乱用をすすめたことが、非難のまとになっている。しかしこれだけで片づけられるほど、事態の本質は単純でないのだ。上のような皮相(注4)的見解でわりきるには、現在の状況はあまりに絶望的である。すでに③最初の出発点からして、人間の文明それ自体のなかに、かく(注5)ならざるをえない必然性がやど(注6)されていた。一企業の責任に帰するには、悲劇の根はいささか深すぎる。
 人間が今日のごとく高度文明をきずきえたのは、採集経済から脱して、牧畜さらに農耕という生産手段を発明したからである。それは換言すると、ある特定の土地を、牧場あるいは田畑として使用することである。さらに換言すると、人間の利用目的にかなう家畜・作物によって、それらの土地を独占させることでもある。ほんらいならばそこの土地には、家畜・作物いがいの各種生物が、当然のこととして棲息(注7)していた。人間はそれらの生物群にたいし、害獣・害鳥・害虫あるいは雑草といった汚名を一方的にかぶせ、強引に排除する手段にでた。こうして自然界のバランスがくずれた。いわゆる公害の起原は、工業とともにおきたのではなく、遠く牧畜ないし農耕のはじまりにさかのぼるのである。

(レ チェル・カーソン著・青樹簗一訳『沈黙の春』一筑波常治の「解説」による)


(注1) たちどころに:たちまち
(注2) ~なる:ここでは、~という
(注3) なりふりかまわず:ここでは、先のことも考えず
(注4) 皮相的:表面的
(注5)かく:このように
(注6)やどす:含む
(注7)棲息する:生きる

(59)筆者は、①意表をついた連鎖反応をAB C Dを用いてどのように説明しているか。


(60)②このこととあるが、このこととは何か。


(61)筆者が考える③最初の出発点とはいつのことか。


(62)筆者によると、自然界のバランスがくずれた原因は何か。


 まず、教育とは何か、ということから考えてみよう。さしあたってぼくは、教育とは、子どもを「社会の成員(大人)としてふさわしい存在」へと育て上げていくこと、と定義してみたい。
 どんな時代、どんな社会の人びとでも、子どもを大人に育て上げなくてはならなかった。そのさいには、①社会の成員として「ふさわしい」あり方が何かしら想定されていて、それが教育の営みを導いていたはずだ。
 その「ふさわしさ」は、大きく二つに分けられるだろう。一つは、働いて食べていけるために必要な能力、つまり農民なら農民としての、漁民ならば漁民としての、技能や知識。もう一つは、他の人びとのあいだでふさわしいふるまいができること――基本的なルールを守り、他の人びとと協力する態勢をとれること、自分に与えられた役割を果たし、その責任をとれること等々、つまり、他者との関係能力である。
 では、現代社会においては、どういうことが「大人としてふさわしい」のだろうか?教育理念を構築するとは、このことをあらためて考え、かつ共有しようとすることに他ならない。 だが、この「共有」ということはなかなかむずかしい。そこには、社会のあり方と人間の生き方をどのようなものとして思い描くか、つまりは、異なった社会観•人間観がさまざまに入り込み、衝突してくるからだ。
 たとえば、ぼくが最初にあげた「教育とは、子どもを社会の成員としてふさわしい存在にすることだ」という定義に対しても、②反発を覚える人がいるだろう。「それは、社会的期待に子供を添わせようとするよくない発想だ。教育とはむしろ、子供の主体的な判断力を育てるものだ」というわけである。
 この意見はしかし、「社会の秩序にただ従うだけでなく、主体的な判断のもとにみずからの人生をつくりあげ、社会のあり方をも批判的に検討する人間こそが社会の成員としてふさわしい」という近代的な人間観にもとづいている。これもまた、社会の側が子どもたちに寄せる「期待」の一種だと言わざるをえない。そして子供を放置すれば主体的•批判的な人間になるはずもないから、そのように「育て上げ」ようとしなくてはならない。
 いずれにせよ、教育というものは、社会(大人)の側が子供に寄せる期待、もっと強い言い方をすれば、ある種の強制から自由ではない、とぼくは考える。重要なことは、「この社会の一員、つまり大人として生きていくうえで何が必要な条件なのか」ということをきちんと見定め共有したうえでの強制であるかどうか、という点なのだ。

(苅谷剛彦•西研『考えあう技術――教育と社会を哲学する」による)

(59)①社会の成員として「ふさわしい」あり方とはどのようなものか。


(60)教育理念を「共有」することがむずかしいのはなぜか。


(61)②反発を覚える人の意見について、筆者はどのように考えているか


(62)教育について、筆者の考えを表しているのはどれか


 理系の文章は明確な目的を持っている場合が多いので、その目的に応じて読者は文章を読む。このため、日的に合致した文章は満足感を読者に与える。たとえば、「東京都の交通渋滞に関する調査報告書」はそれを知りたい人が読み、その内容が過不足なく記述されていれば100点の評価となる。調査内容が不十分であれば評価は下がり、満足感は少なくなる。
 しかし、もし著者と読者のあいだで、その文章を媒体として記述されていること以上の事柄が発見できれば、読者にとって最高の満足感となる。言い換えると、読者が新しい知能を発見する喜びを支援する、あるいはそのきっかけとなる文章こそが、100点以上の評価となる。それは著者と読者の①シナジー効果(二つのものから、それらの合計以上のものが生み出される効果)であり、それをもたらすには、著者は常に読者を意識し、読者とともに問題の解決にあたるという姿勢を持つことで文章に磨きがかかる。
 いくら仕事や理系の文章だからといって「AはBだ、覚えておけ』という姿勢の文章では読者の満足感は少ない。むしろ、読者は自分の無知を知り、自己嫌悪に陥り、一方、著者への親近感はなくなり、読む気がしなくなる。 文章の目的を達成するために大事なことは、読者が最後まで読んでくれることである。いくら素晴らしい内容が書かれていても、読者が読む気のしない文章は目的を果たすことができない。
 学生のレポートで、②それが一番よくわかる。なにしろ提出数が多いので、すべてを完全に理解しようとして読むことは不可能である。結局、最初の数行を説んで、あるいは全体を見渡して、読む気が起こるかどうかが評価に大いに影響する。これは、上司に提出する企画書や、コンペ(注1)に応募する提案書などでもまったく同じである。
その意味で、人の読む気を誘う文章であるかどうかは重要である。では、読む気とは何か。それこそがシナジー効果である。
(中略)
 読者が自力で新しいことを発見することの支援はなかなか難しい。むしろ、自分の思考過程を深く分析し、読者と一緒に考えようという姿勢を持つことが最も重要である。読者に与える完全な解答はなくても、解答に向かうひたむきな姿勢を示すことができれば良いのだということである。言い換えれば、ごまかしがなく、技巧を弄ばず(注2)、大げさにいえば著者の人生観を示すことで、真実に迫ろうという書き手の気持ちが読者に通じるのである。仕事の文学や理系の文章は、一般にはこういう行間の意味は不要と考えられているが、それでは無味乾燥の(注3)教科書文章となり、人の心に届かない。いくら人の③脳に届いても、心に届かないものは読む気がしなくなり、結局、読者の脳にも届かなくなる。
(注1) コンぺ:ここでは、仕事の依頼先を選ぶために企画を競争させるもの
(注2) 弄ぶ:ここでは、必要でないのにむやみに使う
(注3) 無味乾燥の:味わいがなくてつまらない。

(59)①シナジー効果とあるが、読者にとってのシナジー効果とはどのようなものか


(60)②それが一番よくわかるとあるが、何が一番よくわかるのか。


(61)③脳に届いても、心に届かないとはどういうことか。


(62)理系の文章の書き手はどのような姿勢を持つべきだと筆者は述べているか。


 タレントがその私生活を自分からマスメディアに公表することは、いまではまったく珍しくなくなった。これまでマスメディアに私生活を暴露され憤慨してきた彼らが、自らの結婚や離婚、病気などについて、自分からファクスでマスメディアに連絡する。もちろん一般の人びとにとっては、知らされてもほとんど関係ない話ばかりである。彼らの行動を自己宣伝や売名行為ととらえて眉をひそめる(注1)人も少なからずいる。一方でプライバシー保護を訴えておきながら、都合のレ|いときだけ私生活をさらけ出そうとする、というわけだ。
 だが別のとらえ方はこうである。彼らは先手を打とう(注2)としているのだ。マスメディアに勝手に詮索(注3)され、おもしろおかしく記事にされる前に、自分の方から情報公開してその出ばな(注4)をくじこうという、いわば他人による勝手な物語化に対する予防措置である。
(中略)
 マスメディアによって自分のイメージをつくられてしまいそうな人びとにとって、自分自身の情報を自らコントロールすることの重要度は高い。そうしなければ、他人によって勝手なく私〉、自らの物語的分身、すなわちファンタジー・ダブルがつくられて、社会を独り歩きし始めることになりかねないからだ。そのためにマスメディアを利用しようとするのである。昨今、人びとはマスメディアに対抗する強力な情報発信ツールを手に入れた。それはインターネットであり、またそれを活用したウェブサイトやブログ(注5)である。人びとはそれらによってさまざまな自分の活動、知識や趣味、日常生活、そしてときには心境や悩みなどまで公表するようになった。く私づくり〉の主導権を確保するうえでは、画期的な手段である。実際の効果がどの程度かはわからない。だがイメージづくりのイニシアティヴをマスメディアに握られていた人びとにとって、自力で公に情報発信する有力な手段を手に入れたことに変わりはないだろう。人びとは、今度は自らの手でつくった自分自身の物語(ファンタジー・ダブル)を世に出そうとする。
 これはごく一部の人びとの話だと思われるかもしれない。だがこのことからは、一般的にプライバシーがどのように私たちの自己とかかわっているかをはっきり見て取ることができる。彼らに限らず、一般的にプライバシーとはく私づくり〉のイニシアティヴの問題である。
 近代社会では、このイニシアティヴは基本的に各個人にあるとされてきた。自分自身がどのような人間になるか、そしてどのように生きるかは、その人自身の主体的な意思や選択にゆだねられる。これは個人の人権の一つとされてきたのである。だがこの権利が奪われ、他人が勝手に個人の自己ニく私〉をつくろうとし始めるとき、私たちはプライバシー侵害を訴える。そして何とかく私づくり〉のイニシアティヴを自らのもとに引き戻そうとする。
(注1)眉をひそめる:不快な気持ちを表情に出す
(注2)先手を打つ:ここでは、先に動く
(注3)詮索する:細かいところまで調べる
(注4)出ばなをくじく:相手が始めようとしていることを妨げる‘
(注5)ブログ:日記形式のウェブサイト

(59)タレントが私生活を自分からマスメディアに公表することに対して、一般の人びとの間にはどのような意見があると筆者は述べているか。


(60)筆者は、なぜタレントは自分から私生活を公表するようになったと考えているか。


(61)強力な情報発信ツールとあるが、筆者はなぜ強力だと考えるのか。


(62)現代社会におけるく私づくり〉について、筆者はどのように考えているか。


シアノバクテリアと藻類が誕生し、地球上を酸素で満たすまでには 20 億年以 上の時間を要したのに対し、現代人が地球環境を大きく変えるようになったの は、たかだかここ 100~200 年のことである。光合成生物が大気環境を変える のに費やした時間と比べると、人間が環境を変えた時間はあっという間といえ る。そのため、大昔の非常にゆっくりとした大気環境の変化は、当時の生物た ちには適応するのに十分な時間があったが、今の急速な環境変化には、多くの 生物種が適応できずに絶滅する可能性が高いかもしれない。そのため、人間は ①大きな問題を起こしているのだ、という人もいるだろう。
ところが、地球の長い歴史の中では、人類の活動よりも短時間で地球環境を 大きく変え、生態系を非常に大きく攪乱した事件があった。今から 6500 万年 前の中生代白亜紀末の大隕石の衝突である。これにより飛び散った破砕物が大 気中で浮遊し(注 1)、太陽光の地上への到達を妨げたといわれている。それ が植物による光合成を強く抑え、また地上の寒冷化を引き起こしたと考えられ ている。そしてこのとき、当時優占していた(注 2)恐竜をはじめ、多くの生 物が絶滅することになった。ところが、これほど急激で大きな生態系の攪乱に 直面しても、生き残ったものがいた。そして、その生物たちは、新たにつくら れた環境に適応しながら、多様な生態系をつくってきたのである。
②このことを考えると、生物というものはとてもタフで、打たれ強いもので あることがわかる。すると、今、人類が強い力で地球環境を変えて生態系を大 きく攪乱しても、人類は滅びるかもしれないが、その急激に変化する環境をう まく生き抜き、新たにつくられた環境の中で繁栄する生物種が必ず出てくるに 違いない。そして、生物がそこに存在することができれば、そこには生物たち の相互関係が生まれ、食物連鎖がつくられ、きちんと機能する生態系がつくら れるのである。そして、その新しい生態系をつくっている生物たちの中には、 「大昔、ヒトという生物がいて、彼らは我々が住みやすい地球環境をつくって くれたとてもありがたい生物だったんだよ」と、子孫に語り継いでいるものも いるかもしれない。
このように考えると、生態系の善し悪しを考えるときには、誰を中心にする か、いつを基準とするのかによって評価が大きく変わることがわかる。したが って、議論をするときには、その基準を決めなければならないだろう。
(注 1)浮遊する:浮かび漂う
(注 2)優占している:ここでは、数が多い

58.①大きな問題とはどのような問題か。


59.②このこととは何か。


60.人類が滅びた場合の生態系について、筆者はどのように考えているか。


61.生態系について、筆者の考えに合うのはどれか。


(1)
 日本の森の生態系は、生物多様性が高いといわれています。生物多様性が高いのは、多くの生物の生息(注1)域になかりうる多様な環境があるからです。では、なぜ、多様な環境があるかというと、人間が自然に長期的、継続的に介入してきたということが大きく関係しています。
 人間がいない状態で、自然が、自然の作用(注2)のなすがままに置かれていた時代の植生(注3)を「原植生」と呼んでいます。この時代、日本列島は現在の状態よりも生物の生息環
境として単純なものであったはずで、そこに生息する生物の多様性は現在よりも低かったので
はないかと私は考えています。
これまで、人間は、人間の都合で、自然を改変してきました。しかし最近になって、多くの人が都市に集中して住むようになり、食料も木材もれエネルギーも海外から輸送してくるようになって、これまでのように自然に長期的、継続的に介入する必要がなくなりました。人間の介入が止まった森は、自然の作用によって変化していきます。そのまま放っておけば、人間がいなかった時代の自然に戻るかというと、そう簡単ではありません
人間の介入は土壌の奥深くまで及んでいます。植生の回復に比べて、土壌の回復には長い時間がかかるので、まずは土壌が回復しない状態で、その上に植生が成立することになります。この状態を「潜在自然植生」といい、原植生とは区別されます。
(中路)
 現在の日本の生物多様性は、人間による自然への長期的、継続的な介入の結果としてもたらされたものです。その介入は、決して生物多様性のためではなく、人間が生きていくために燃料、木材その他を収奪する(注4)ためだったのです。もし現在の状態が生物多様性が高い状態だとすれば、それはあくまで副産物として得られたものなのです。今後、生物多様性の維持のために、自然に人間が介入し続けるべきだ、という主張があります。しかし問題は、そのための資金を誰が出すかです。とくに、公的な資金を投入するかどうかは、よく考えてからのほうがいいと思います。
 自然が、自然の作用によって変化していくのに逆らって、人間が作業をしようとすると膨大な手間と時間がかかります。その手間に見合う利益が、人間にもたらされるのか、また、放置して自然の作用に任せておくことが、人人間や生物にどのような損失をもたらすのか、正確に理解することが求められています。
(注|)生息生存
(注2)作用のなすがままに:ここでは、作用のままに
(注3)植生:ここでは、植物群の状態
(注4)収奪する:奪い取る

(59) 人間がいない時代の日本の森の生態系について、筆者はどのように述べているか。


(60) そう簡単ではありませんとあるが、なぜか。


(61)現在の日本の生物多様性について、筆者はどのように述べているか。


(62)人間の自然への関わりについて、筆者はどのように述べているか。


 最寄り駅へと向かう途中、骨董屋さんの前を通る。
 その店が越して来たのは十年ほど前だろうか。はっきりした記憶はないのだが、夫のひとことで興味を持った。「毎日どんどん売れる商売じゃないだろうけど、それにしても客が入っているのを見たことないよね」という。確かにいつもひっそりと、主とおぼしき人は店の奥にじっと座っているばかり。宅配便の梱包された包みがたくさん置かれていることから、ネット販売専門の店なのだろうか。夫はその後も①不思議がっていた
 それから一年ほどして、ふいに謎が解けた。
 面識はないが、時おり読んでいた同世代の女性のブログ(注1)にこの店を訪ねた話が載っていた。壊れてしまった陶器の修 理を頼みに行ったというのである。漆(注2)を使った金継ぎ、銀継ぎと呼ばれる手法で損なわれた部分を修復するのだが、その仕上がりは瑕跡ではなく、景色に見立てることができるほど美しい。
 思いがけない近所にそんな専門の工房(注3)があったとは。新鮮な驚きとともに、②ひと筋の光が射し込んで来る思いがした。我が家にも欠けたからといって捨てられず、破片をそっと薄紙に包んだままにしているものがある。祖母が求め、そして壊してしまった十客揃いの小鉢(注4)のひとつ。義父が好んで使っていたという杯。これらをもとの形にもどすことができたら、どんなに心和むことだろう。
 さっそく店を訪ねてみると、「やあ、いらっしゃい」と主はまるでなじみの客のように迎えてくれた。作業の合間に手をゆるめて(注5)いることがあって、店の前の人の行き来を眺めている。「だから近所に住んでいる人のことはなんとなくわかるんです。」見ているのはこちらばかりと思ったら大間違いだ。
 ③すっかり気が楽になって、こちらの事情を打ち明けた。
(中略)
 買替えた方が安あがりとわかっているものでも、使いつづけた愛着があって手放せないという人が増えている。一方で、高価な器を使うお料理屋さんが、段ボールいっぱい送りつけてくることもある。「前に修理したものがまた新たに壊れてもどってきたり。時々、どういう扱いをしてるのかなと思うことがありますよ。」
 形あるものはいずれは壊れる。この道理があるから、歳月を経て伝えられたものに感謝の念も湧くし、儚さと美しさは同義でもある。うっかり手を滑らせる(注6)瞬間は誰にもあり、取り返しのつかない(注7)事実に直面すると、ため息が出るほど心に重い。
 金継ぎはそんな心の痛手までやさしくいたわってくれる伝統の技術だ。もしもの時に助けてくれる人がいると思うと心底有り難い。けれど、だからこそ指先には神経を使ってぞんざいな扱いはすまいと、見事に修復された器を手に思っている。

(青木奈緒『暮しの手帖』2014年10-11月号による)


(注1) ブログ:日記形式のウェブサイト
(注2) 漆を使った金継ぎ、銀継ぎと呼ばれる手法:陶器の修理方法の名称
(注3) 工房:ここでは、仕事場
(注4) 十客揃いの小鉢:十個揃った小さな器
(注5) 手をゆるめる:ここでは、休憩する
(注6) 手を滑らせる:ここでは、落とす
(注7)取り返しのつかない:元の状態に戻すことのできない

(59)①不思議がっていたとあるが、何を不思議がっていたか。


(60)②ひと筋の光が射し込んで来る思いがしたとあるが、なぜか。


(61)すっかり気が楽になってとあるが、なぜか。


(62)この文章で述べられている経験を通して、筆者が強く思ったのはどのようなことか。


 暮らしの中で身近な木といえば、街路樹と公園の樹木、そして住宅の庭の木あたりでしょうか。いずれも毎日目にはしているものの。あらためて意識することは少ないと思います。でも、例えばこれがすべて枯れてしまったとしたらどうでしょう。なんとも寂しく、無味乾燥な、あるいは何か病気を連想させるようなイメージのまちになってしまうのではないでしょうか。また、昨今は、維持管理の面などから街路樹を植えないまちなどもあるようですが、一見近代的、未来都市的なイメージもしますが、うるおいややすらぎのないまちのようにも見えます。このようにまちの樹木は、実はとても大きな役割を持っています。
 では、この木々たちは、ただ植えるだけ、存在するだけでいいのでしょうか。そうではありません。そこに意味や意義がなければならないのです。わかりやすく言うと、街路樹の樹種を何にするかというようなことです。その土地の植生(注1)を踏まえ、その上に歴史性や未来性を重ね合わせる。季節の移ろいの中で、人々がその木をどのように眺めながら暮らしていくのか。そんな積み重ねの上にはじめて「ここにはこの木を植えよう」ということになる。①それがその木がその場所に存在する意義です。
住宅の庭木も同じです。単に自分の好みばかりでなく、その木が住宅街の小路をどのように演出するのか、まわりとの調和はどうなのか。そんなことを考えていくのがまちづくりの中の「木」です。昨今のガーデニングブームで、確かに個々の家の庭は立派になりました。花や木の種類もずいぶん増えて、ひと昔前には無かったような色や形も見られます。
そして、ガーデニングをする人達の情報交流も盛んとなり、新たなコミュニティも生まれているようです。しかし、いま一つ自分の土地から外に広がっていない感じがします。道路や公園は地域にとっての共有の庭であり、個々の部分と共有の部分が美しくなってこそはじめて全体が美しくなるのです。美しく楽しい庭を作っている人々には、②もっと欲張って美しく楽しいまちを作ってほしいと思います。
「愛でる」という言葉があります。これは主に植物に対して使われます。満開の桜や初夏の新緑、真夏の木陰や秋の紅葉・・・。私たちは折々に(注2)木々を眺め、そこに日々の暮らしを重ね合わせたり、育ちゆく木々に子供達の明るい未来を願ったりしているのではないでしょうか。そしてそんな思いをこめて水やりや手入れをする。これが「愛でる」ということだと思うのです。その愛でる心と愛でられる木々があってはじめてよいまちとなるのです。

(加藤美浩『まちづくりのススメ』による)


(注1) その土地の植生:その土地にどのような植物が生えているか
(注2) 折々に:ここでは、機会があるごとに

(59)筆者によると、まちの樹木の大きな役割とは何か。


(60)①それとはどういうことか。


(61)②もっと欲張ってとあるが、筆者の気持ちと合うものはどれか。


(62)筆者の考えに合うのはどれか。


 視覚や聴覚などの情報処理においては、脳の働きの個人差は比較的少ない。丸いものを提示すれば、脳はそれを丸いものとして認識する。丸いものを提示した時に、それを「丸」と認識する人と「三角」と認識する人が相半ばする(注1)ということはあり得ない。同様に、あるピッチの音を聴いた時に、その情報処理に個人差はあまり見られない。
 その一方で、ある事象に対する感情の反応においては、個人によるばらつきが大きくなるのが通例(注2)である。同じものを前にしても、全ての人がそれを好きだと感じたり、逆に全ての人がそれを嫌いだと思うとは限らない。ある人が好きだと感じるものを、別の人が嫌いだと思うのはごく普通のことである。感情においては、脳の反応に大きな個人差が見られるのである。
そもそも、感情の働きとは何であろうか?ひと昔前には、感情とはある特定の刺激に対する類型的な(注3)反応であると考えられてきた。大脳新皮質(注4)が担っている理性の働きが環境の変化に応じて柔軟な情報処理を行うのに対して、「爬虫類の脳」とも呼ばれる古い脳の部位が重要な役割を担う感情は、一定の決まり切った反応をするものと思われていたのである。
 しかし、近年の脳科学の発達により、感情は、むしろ生きる上で避けることのできない不確実性に対する適応戦略であることが明らかになってきた。理性では割り切れない、結果がどうなるかわからないような生の状況において、それでも判断し、決断することを支えるための情報処理のメカニズムとして、感情は存在していると考えられるに至ったのである。
 (中略)
 感情が不確実性に対する適応であると考えると、その反応において個人差が生じるのは自然なことである。
 不確実な状況の下では、とるべき選択肢の「正解」は一つとは限らないからである。
 さまざまな人々が異なる戦略をとり、全体としてバラエティが増したほうが、人間という生物種全体としては、むしろ適応的である。生死にかかわるような状況においては、たとえ、ある選択をした人が不幸にして死んでしまったとしても、別の選択をした人が生きのびれば生物種としては存続できるからである。全体が同じ選択肢を選んでしまっては、環境の変化や予想のできない事態に対して脆弱になって(注5)しまう。
 他人が異なる感情の反応を見せることを許容することの倫理的基礎は、まさにこの点にある。他人が自分と異なる感情の中にあることに反発するのは自然な心の動きであるが、とらわれて(注6)はいけない。自他の差異に対して許容的であることが、すぐれて生命哲学上の原理にかなっているのである。

(茂木健一郎「疾走する精神」による)


(注1) 相半ばする:同じくらいである
(注2) 通例:一般的
(注3) 類型的な:型どおりの
(注4) 大脳新皮質:脳の一部分
(注5) 脆弱になる:もろくて弱くなる
(注6) とらわれる:ここでは、ある考えに縛られる

(59)知覚の情報処理と感情の反応について、筆者はどのように述べているか。


(60)近年、感情の働きはどのようなものだと考えられるようになったか。


(61)個人差が生じることがどのようなことにつながるか。 


(62)筆者の考えに合うのはどれか。


以下は、歴史学者について、歴史小説家との比較を中心に書かれた文章である。
歴史学では、史実の究明にはもちろんのこと、新しい歴史像を提示する時にも史料(注1)的根拠が必要です。そして、この史料的根拠を基盤とするがゆえに、歴史学者の歴史観は、相互に批判可能なものです。これは、物理や化学といった自然科学の世界で新理論を展開する場合に、その論拠、論理を他の学者にも検証可能な形で提示しなければならないことと同様です。
しかし、小説にこうした論証を求めるのは無理というものです。最近は小説家に歴史研究者同様の姿勢を求める向きもあるようですが、これは筋違いとしか思えません。やはり、歴史研究と歴史小説は、そもそも目的も手段も違うものなもだとしか言いようがないのです。
また、あるいは、次のような話が参考になるでしょうか。
ある時、理学部の天文学(注2)の先生に、「どうして彗星や小惑星などの新天体を発見する人には、アマチュアの天文家が多いのですか」と聞いたことがありました。新聞でも報じられるような天体現象の発見に、意外と専門研究者が少ないことが気になっていたからです。
すると、天文学の先生は、「天文学の先端では、彗星などの発見よりは、大きな電波望遠鏡を使って、ある一定の方向から地球に届く宇宙からの電波情報を継続的に受け取り、その数値の分析によって宇宙の大きさを推測したり、宇宙の成り立ちを究明したりしているのです」と教えてくれました。(中略)
歴史学者と歴史小説家の違いも、これに近いものがあります。歴史小説家を歴史のアマチュアとするつもりはありませんが、同じく歴史を扱いながらも、その立ち位置は違うものだと言えるでしょう。
歴史小説では、誰もがよく知っている人物や事件をとりあげて小説にすることが多いようですが、歴史研究ではむしろ誰も知らないような人物や事件を入り口として史実を究明することがほとんどです。また、政争に誰がいかにして勝ったかというような政治のダイナミックな人間の動きよりは、制度的な政治システムの変遷を追究する方が研究手法としては主流です。そのため、歴史学者が世間一般の歴史ファンを驚かせるような新説を立てる、というようなことは、稀なこととなるのです。
もちろん、天文学者であれば研究機関に属していようが星に無関心でないのと同様に、歴史研究者もメジャーな歴史トピックに関心がないわけではありません。しかし、一見地味な事例研究を積み重ねることによって、それまでの通説を修正する新しい視点が見いだされていくことを、研究者は知っているのです。つまり、一足飛びに(注3)通説を覆そうとして、特定の視点から史料を読むような真似(注4)は禁物なのです。

(山本博文『歴史をつかむ技法』による)


(注1)史料:歴史を研究するための文献や遺物。
(注2)天文学:宇宙と天体について研究する学問。
(注3)一足飛びに:ここでは、手順を無視して一気に。
(注4)真似:ここでは、行動。

(59)筆者によると、歴史学と自然科学の共通点は何か。


(60)天体現象の発見に専門研究者が少ないのは、なぜか。


(61)歴史小説家について、筆者はどのように述べているか。


(62)歴史学者について、筆者はどのように述べているか。