日本人に個性がないということはよく言われていることだけれど、今世界的に、1週間、或いは年間にどれだけ働くか、ということについて、常識的な申し合わせが行われていることには、私はいつも①違和感を覚えている。
 私は毎年、身体障害者の方たちとイスラエルやイタリアなどに巡礼の旅をしているが、一昨年はシナイ山に上った。盲人も6人、ポランティアの助力を得て頂上を究めた。普段、数十歩しか歩けない車椅子の人にも、頂上への道を少しでも歩いてもらった。②障害者にとっての山頂は、決して現実の山の頂きではない。もし普段100歩しか歩けない障害者が、頑張ってその日に限り、山道を200歩歩いて力尽きたら、そここそがその人にとっての光栄ある山頂なのである。
 人間が週に何時間働くべきか、とぃうことにも、ひとりひとりの適切な時間があると思う。労働時間を一律に決めなければならない、とするのは専門職ではない、未熟練労働に対する基準としてのみ有効である。未熟練労働者の場合は、時間あたりの労働賃金をできるだけ高くし、それによって労働時間を短縮しようとして当然である。
 しかし、専門職と呼ばれる仕事に従事する人は、労働報酬の時間あたりの金額など、ほとんど問題外だ。私は小説家だが、小説家の仕事も専門職に属するから、ひとつの作品のためにどれだけ時間をかけようと勝手である。短編をほんの2、3時間で書いてしまうこともあるし、10年、20年と資料を集ゅ調べ続けてやっと完成するものもある。ひとつの作品に私がどれだけの時間や労力や調査費をかけようが、昼夜何時間ずつ働こうが、それは私がプロである以上、自由である。
 日本の社会の中には、職場の同僚がお互いに牽制する(注1)ので、取ってもいいはずの休みも取れない人が確かにかなりいる。小さな会社の社長に頼みこまれると、したくもない残業をしなければならなくなる社員もいる。そうしないと会社が潰れて失職をすることが目にみえているからである。その結果「過労死」などということも稀には起きることになる。
 しかし日本人のなかには、仕事が趣味という人も実に多い。ブルーカラーと呼ばれている人たちの中にさえ、どうしたら仕事の能率が上がるか考えている人はざらである(注2)。趣味になりかけているものが、たまたま会社の仕事だから、時間が来たら帰らねばならない、というのもおかしなことだ。それは③プロの楽しみを妨げることであって、一種の個人の自由の東縛というものである。
 ただそれほど働きたくない人は仕事をしない自由を完全に守れるように、社会は体制を作り変えるべきである。しかし同時に、一律に休みを取れ、というような社会主義的発想は、いくら世界の流行だとはいえ、自由を手にしている人間に対しては、個人への干渉であり、非礼である。

(曽野綾子「日本人の心と家J読売新聞社による)

(注1)牽制する:相手に注目して、自由な行動をじゃまする
(注2)ざらである:よくある

(59)①違和感を覚えているのはなぜか。


(60)筆者は、②障碍者によっての山頂とはどこだと言っているか。


(61)筆者は、③プロの楽しみとは何だと言っているか。


(62)筆者の考えに合っているものはどれか。



 (前略)猿の生態を詳しく観察すると、我々がどうしてあいさつをしなければいけないのかが、よくわかる。つまりあいさっというのは、出合ったものが相互に殺しあい、その世界を自分ひとりのものにしようとする手続きの、回避策なのである。ただし、の点で誤解をしてはならないのであるが、あいさつをすることによって猿は、その世界を共有するべく了解するのではない。逆である。あいさつをすることによって猿は、それぞれが別世界に存在することを確かめるのであり、それがたまたまその一点で交叉したに過ぎないことを了解するのであり、従って殺しあう必要のないことを知るのである。つまりあいさっというのは、それぞれが存在する世界の位相(注1)が、すれ違っていることの確認である。
 その証拠に猿は、世界を共有しようとして近づいてくる相手に対しては、猛烈に排除する。逆に群棲しているもの同士は、それぞれにかぶさりあっていても位相を異にする別の世界に存在することカ認されているのであり、時にあいさつを交わしてそのことさえ確かめていれば、それぞれに侵略しあうことはないのである。
 このことは恐らく重要であろう。あいさっというものは、出合ったもの同士がそれぞれに無害であることを確かめるための手続きである、と一般にはみなされていて、それ自体は間違いではないのだが、その時我々は同じ世界を共有しているのではなく、全く別の世界にそれぞれ分離されているのであり、だからこそ無害なのである。つまりあいさつの中には、相手がそれ以上自分自身の世界に近接しないよう警告を発し同時に、相手を相手の世界の中に封鎖して閉じこめようとする呪術(注2)的要素が含まれているのだ。
 我々は、親しいものに対してはよくあいさつをし、①知らないものに対しては全くあいさつをしない。ということは、我々にとって、親しいものの方がともすれに肴害となるのであり、従って度々あいさつを繰り返して無害なものにするべく努力する必要があるであり、逆に知らないものの方がむしろなのであって、当然あらためてそれを無害なものにするべく試みる必要はないのだ、ということを示している。言ってみればあいさつは、従来言われているように「親しみをこめて」するものというより、むしろ「親しみをこめるのをやめてもらう」べくするものなのだ。親しいもの同士が、「はい、そこまで」というのがあいさつにおける②正しい姿勢である。
 
  (別役実「日々の暮し方」白水Uブッラス)
  (注1)位相:それが現在置かれている状況や位置。
  (注2)呪術:超自然的・神秘的な力を借りて、願いをかなえようとする行為。

(1)①知らないものに対しては全くあいさつをしない。のはなぜか。


(2)あぃさつについての②正しい姿勢とは、どのようなものか。


(3)この文章では、あいさつのどういうことを説明しようとしているか。


(4) 筆者の述べているあいさつの働きを以下のようにまとめる場合、(   )に入る適当なものはどれか。
「私たち人間は、あいさつすることで(  )」


 新国立劇場俳優研修所の研修生の選考基準を一言で、といわれてもそう簡単に答えられるものではありません。実際、選考方法も数名の委員で何度も討議を重ねています。特定の作品のオーディションならば、はじめから選考する作品のそのキャラクターが決まっていますから、たとえ何十人と会おうが、ある程度見た瞬間に①選ぶことは可能でしょう。
 ところが研修所では十年後を見据えなければなりません。今、せりふを上手にしゃベることができても、それがいったい何になるのでしょう。高校を事業したばかりの初々しい十八歳から小劇場を二つくらい経験してきたような三十歳までが集まっています。
 せりふを小器用にこなし、敏捷びんしょう)に体を動かせたりすることではなく、基本的にその人間としての輝きを見ること、その輝きが消えることのない情熱によるものとしか答えようがありません。三年間の基礎訓練のなかで、その人が自分をどう見つめ、鍛えていくのか、その後、より大きくなったその人がプロの俳優としてどのような方向へ進んでいくべきなのか、それも同時に考えておくべきことなのです。
 また、俳優としての基本的な技術だけを身につけても、それだけではまだ俳優ではありません。自分自身の表現のための確かな演技力と同時に、人間への観察と洞察を続け、世界への理解を深めていかなければ「俳優」にはなれないのです。
 音楽家が楽器を使いこなす技術を身につけたうえで、そこから自分の音楽をつくり上げていくように、俳優にも技術力と同時に、表現力と想像力が必要になってくうのです。そこで毎回違った自分と出会うためのレッスンが持続的に必要となり、粘土細工のように一つのカタチをつくってはその歪みに気づいて崩すという作業が繰り返され、いろいろな表現の可能性の幅を広げていくことが、新しい作品と出会うたびに求められるのです。
 では「努力は才能を超えるのか」という問いに対して、「素質の発見」が必要だと答えます。誰もが、必ず何かの素質を持っているはずであって、あるときはそれを自分で発見できるように導いてやることも必要でしよう。しかし、自分で自分を見つけることを教える教則本などは、ありません。自分が足を前に出さない限り、教師がいくら動いて見せても無駄であるように。
 演劇がどんなに好きであっても、俳優に向いていないこともあります。(中略)また、演劇の仕事を断念し、故郷に戻る人もいるでしょう。しかし、その場合でも、その人たちが故郷に帰って、いい観客になる。もちろん演劇を教える教師を志す人が出るかもしれない。そうやって②間口が広がっていくことで、大切な演劇人が広がっていくことにもなるのです。

(栗山民也『演出家の仕事』岩波新書による)

(1)①選ぶことは可能でしょう。とあるが、何を選ぶのか


(2)筆者は、俳優研修所の研修生の選考基準は何であると述べているか。


(3)②間口が広がっていくとあるが、どういう意味か。


(4)筆者が述べてぃることと合ってぃるものはどれか。


 テキストを一段落ずつ生徒に声を出して読ませるということは、日本の学校の国語の授業でも度々行う。
 「はぃ、◯◯君、良く読めましたね。では、△△さん、次の段落を読んでください」
 となる。ところが、ソビエト学校の場合、一段落読み終えると、その内容を自分の言葉で掻い摘んで話すことを求められるのだ。かなリスラスラ文字を読み進められるようになり、おおよその内容も理解できるようになった私も、この掻い摘んで話す、ということだけは大の苦手だった。当然、絶句してしまい先生が諦めてくれるまで立ち尽くすということになる。非ロシア人ということで大日に見てくれていたのだ。
 ところが、ドラゴンは執念深かった。なかなか諦めてくれない。しかし、十二分に楽しんだはずの本の内容を話して聞かせようとするのだが、簡単な単語すら出てこないのである。俯いて沈黙するわたしに、ドラゴンは助け舟を出してくれた。
 「主人公の名前は?」
「ナターシヤ……ナターシヤ・アルバートヴァ」
「歳は幾つぐらいで、職業は?」
「ハチ。ガッコウイク。ニネン。」
「ふ―ん、八歳で、普通学校の二年生なのね。それで」
(中略)
 わたしの話を聞き取ることに全身全霊を傾けている、ドラゴンの獰猛(どうもう)に輝く青緑色の瞳に吸い込まれるようにして、わたしは何とか本のあらすじを最後まで話し、さらには作者のメツセージを曲がりなりにも(注1)言い当てることができた。それでもドラゴンは飽き足らず、二冊目の本について話すよう催促し、同じような執念深さで聞き取っていく。ようやくドラゴンから放免されて図書館から出てきたときは、疲労困憊(こんぱい)して朦朧(もうろう)とした意識の中で、金輪際(注2)①ドラゴンの尋間は御免被りたいと思ったはずなのに、まるで肉食獣に睨ままれて金縛りにあった小動物のように、わたしは図書館の本を借り続けた。そして、返却するときにドラゴンに語り聞かせることを想定しながら読むようになった。活字を目で追うのと並行して、内容をできるだけ簡潔にかつ面白く伝えようと腐心(注3)しているのである。
 (中略)
 ある日、国語の授業で、声を出して読み終えた後、国語教師はいつものように期待せずに、②形だけの要求をした
 「では、今読んだ内容を掻い摘んで話して下さい」
 わたしは自分でもビックリするほどスラスラとそれをやってのけた。いつのまにか、わたしの表現力の幅と奥行きは広がっていたのだった。国語教師もクラスメイトたちも、しばし呆気にとられて静まりかえった。

 (米原万里『心臓に毛が生えている理由J角川文庫による)

 (注1)曲がりなりにも:不完全だが。完壁ではないが一応。
 (注2)金輸際:決して。絶対。
 (注3)腐心する:ある目的のために一生懸命になること。苦心する

(1)ソビエトの学校では、読んだ文について自分の意見を言わなければならない。


(2)「ドラゴン」は、どんな人だと考えられるか。


(3)①ドラゴンの尋間とあるが、「尋問」 の目的として最も考えられるものはどれか。


(4)②形だけの要求をした


 (前略)この変化の激しい現代日本社会において、①大人が子どもに伝えるべきものとは、何なのだろうか。
 端的に(※1)言えば、それは、「およそどのような社会に放り出されても生き抜いていける力」であろう。とはいえ、現代は原始時代ではないのだから、「生きる力」は単純な生物学的な生命力だけを意味するわけではない。もちろんこの単純な生命力はあらゆる活動の基本となるものであるから、これを活性化させる意義は大きい。それを前提とした上で、現代社会における「生きる力」とは、具体的にはどのようなものなのだろュな。
 私が考えるに、この「生きる力」とは、「上達の普遍的な論理」を経験を通してく(技化(わざか))しているということである。どのような社会にも仕事はある。たとえ自分が知らない仕事であっても、仕事の上達の筋道(※2)を自分で見出す(※3)ことができる普遍的な力をもし持っていれば、勇気を持って新しい領域の仕事にチャレンジしていくことができる。
 このように言うと一見抽象的なようだが、周りを見渡せばこれを技化している人間がいることに気づくのではないだろうか。私自身は、上達の論理の技化ができている人にこれまで何人も出会ってきた。その中で印象的であったのは、イラン人のビリさんという人である。(中略)
 彼の言語の学習の仕方は、徹底的に自学自習主義であつた。テレビやラジオから言葉を聞き取り、それをノートにとって反復して(※4)覚えたり、積極的に日本人と話すことによって実践的に会話力を鍛えていた。向学心にあふれ、分からない日本語があるとどういう意味なのかとすぐに聞いてきた。彼は、当時流行っていたブレイクダンスをやって見せてくれた。「どこで習ったのか」と開いたが、②彼は少し驚いたように、「どこでも習つていない。うまい人がやっているのを見て、それを何度もまねて、自分で練習して覚えた」と答えた。(中略)
 イラン人が皆、このような生き抜く力を持っているわけでは、必ずしもない。来日三ヶ月のビリさんに頼っている同郷の友人も、かなりいたようだ。ビリさんは何をやるに際しても、自分は上達するという確信を持っているようであった。特定の事柄についてではなく、上達一般に自信をもっていた。うすい人のやることをよく見て「技をまねて盗む」ということが、上達の大原則にすえられていた。
 うまい人のやることをよく見て、その技をまねて盗む。これが、上達の大原則である。こんなことは当然だと思う人が多いかもしれない。しかし、それを強い確信を持つて自分の実践の中心に置くことができているかどうか。③それが勝負の分かれ目なのである

(斎藤孝「できる人」はどこがちがうのか」ちくま新書による)

 (※1)端的に:要点をわかりやすく
 (※2)筋道:物事を行うときの正しい順序や論理
 (※3)見出す:見つける
 (※4)反復して:繰り返して

(14)①大人が子どもに伝えるべきものとは何だと筆者は考えているか。


(15)②彼は少し驚いたようにとあるが、どうしてピリさんは驚いたのか。


(16)③それが勝負の分かれ目なのであるとあるが、それとは何を指しているか。


(17)筆者がピリさんの例を取り上げて最も言いたかったことはどれか。


 その男は、何匹かのネズミを飼っていた。かず多くのなかから選んだ、敏感な性質のネズミばかりだった。(中略)
 男がネズミとくらしているのは、かわいがるだけが目的ではなかった。男はいつも、背中をなでてやりながら、こんなことをつぶやく。
 「考えてみると、おまえたちがいなかったら、わたしは何回も災難にあっていただろうな」
 ネズミには、近づいてくる危険を、あらかじめ感じとる力があるのではないだろうか。男はこのことに気づき、その利用を思いたったのだ。そして研究は成功し、①役に立った
 かつて、ある日、ネズミたちが、とつぜん家から逃げ出したことがあった。わけがわからないながらも、男はそれを追いかけ、連れもどそうとした。
 その時、激しい地震がおこった。さいわい外にいたから助かったが、もし家に残つていたら、倒れた建物の下敷(したじ)きになっていたはずだ。死なないまでも、大けがをしたにちがいない。
 また、こんなこともあった。船に乗ろうとした時、連れてきたネズミたちが、カバンのなかでさわぎはじめた。乗るのをやめると、ネズミたちは静かになり:=読した船は、(A)。
 こんなふうに、ネズミのおかげで助かつたことは、ほかに何回もあつた。それらを思い出しながら、
 「なにしろ、事故や災害の多い世の中だ。これからも、おたがいに助けあつていこう」と男がエサをやっていると、ネズミたちがそわそわしはじめた。いままでに危険が迫った時、いつも示した動作だつた。
 「ははあ、なにかがおこるのだな。こんどは、なんだろう。火事だろうか、大水だろうか。いずれにせよ、さつそく引っ越すことにしよう」
 急ぐとなると、その家を高く売ることはできなかつた。また、安い家をゆっくりさがしているひまもなかつた。しかし、それぐらいの損はしかたがない。ぐずぐずしていて、災難にあったらことだ。
 新しい家に移ると、ネズミたちのようすは、もとにもどった。気分が落ちつくと、男はあわなくてすんだ災難がなんだったかを、知りたくなった。ぞこで、電話をかけて聞いてみることにした。(中略)
 「そういえば、あれからまもなく、となりの家に住んでいた人もかわりましたよ。そんなことぐらいです」
 「そうですか。こんどの人は、どんなかたですか。きつと、ぶつそうな人でしょうね」
 と男は熱心に聞いた。災難は、②となりにやってこた人に関連したことだろう。あのまま住んでいたら、いまごろiよ、やつかいな事件に巻きこまれたにちがいない。だが、相手の答えは、意外だった。
 「いいえ、おとなしい人ですよ」
 「本当にそうですか」
 「たしかです。ネコが大好きで、たくさん飼っているような人ですから」
 たくさんのネコ。人間にはべつになんでもない。しかし、ネズミたちにとっては、ただごとではなかった(※1)のだ。
 

(星新一著「災難」〔角川文庫刊『きまぐれロボットJ所収〕※一部省略あり)

(※1)ただごとではない:なんでもないことではない、大変なことだ(ネコはネズミを食べると言われていることから)

(14)研究はどのように①役に立ったのか。


(15)( A )に当てはまるのは、どれか。


(16)②となりにやってこた人はどんな人だったか。


(17)この小説の内容に合わないものはどれか。


 不思議なもので、食事が終わって満腹(まんぷく)になっていても、甘いものなら食べられることがあります。これを俗に「別腹(べつはら)」と表現することがあります。例えば、「ケーキは別腹」などと言います。
 実は、①別腹は気分の間題ではありません。大阪大学の山本教授は、別設のできる仕組みを次のように説明しています。甘味は他の味に比べると最も強い快感をもたらします。甘味刺激は、脳内にβ ー エンドルフィンという至福感(しふくかん)(注1)陶酔感(とうすいかん)(注2)を引き起こす物質、ドーパミンという食欲を生じさせる物質、さはらにオレキシンという摂食(せっしょく)(注3)促進物質を分泌(ぶんびつ)させます(注4)。このオレキシンには胃から小腹に内容物を送り出したり、胃を(ゆる)めたりする作用があります。つまり、オレキシンは満腹状態の胃に新たなスペースを作ります。まさに、②甘味刺激は別腹を作り出すのです。これは、飢餓(きが)(注5)(たたか)うために最大限のエネルギーを摂取(せっしゅう)しようとする生物の本能ともいうべき作用なのでしょう。
 さて、③別腹という言葉がこれほど頻繁(ひんぱん)につかわれるようになったのは新しいことのようで、ほとんどの国語辞典にまだ載っていません。道浦俊彦氏の指摘によると、あまり地城差はなく一九九〇年代前半ごろから使われているそうです。いわゆる「グルメブーム」(注6)のころで、ティラミスやバンナコッタなどのデザートが次々に世の中を席巻(せっけん)した(注7)時期と重なります。さまざまなおいしいデザートが別腹におさめられ、一気に俗語として広まったのでしよう。
 バブルは過ぎても、デパ地下(注8)のスイーツ(注9)は小さな贅沢(ぜいたく)として定着しました。見た目にも美しい甘味は脳内でオレキシンを誘発(ゆうはつ)して④「もう結構です」などとはとても言えない状況に私たちを追い込むのです。

(早川文代「食べる日本新」毎日新聞社)

(注1)至福感(しふくかん):非常に幸せだと感じること
(注2)陶酔感(とうすいかん):酔ったように非常に気持ちがよいこと
(注3)摂食(せっしょく):食物をとること
(注4)分泌(ぶんびつ)する:体の中に特殊な物質をつくる
(注5)飢餓(きが):食べ物がなくて飢えること
(注6)グルメブーム:おいしいものを食べたり、探したりすることの流行
(注7)席巻(せっけん)する:激しい勢いで自分の勢力を広げる
(注8)デパ地下:デパートの地下食品売り場
(注9)スイーツ:仕いもの、葉子類 

(1)①別腹は気分の間題ではありませんとあるが、これはなぜか。


(2)②甘味刺激は別腹を作り出すとあるが、この仕紐みの最も重要な点は何か。


(3)筆者が③別腹という言葉がこれほど頻繁(ひんぱん)につかわれるようになった理由として考えるのはどんなことか。


(4)④「もう結構です」などとはとても言えない状況に私たちを追い込むとあるが、これは例えばどのようなことか。


 もともと(たたみ)の上で生活していた日本人は、イス座の生活様式が導入されても、再び下へ降りていく傾向がある。
 あるとき、立川駅で驚くべき光景を目にした。駅のホームのはじで、女子高生たちが征服を着たまま、車座(くるまざ)(注1)になって座り込んでいたのである。幸い、まわりの人に迷惑をかける場所ではなかった,汚くないのだろうかとびっくりしてしまった。 やはり日本人は、坐の文化が好きなのかと、思わず徴笑してしまった。
 それは極端にしても、イスの上でいかに坐るかも重要だが、そのような私たち日本人に親しい生活習慣を肯定し、並立させることも大事ではないだろうか。
 幕末(ばくまつ)(注2)の文章を読んでいると、話をするとき、二人が寝ころがって話すというシーンによく出会う。西郷隆盛(さいごうたかもり)(注3)は、ゆっくり話そうと言って奥の座敷に忱を二つ並べたという。山内容堂(やまうちようどう)(注4)も、勝海舟(かつかいしゅう)(注5)に寝ころぶことを勧めた。日本人は,とりわけ,寝ころがることを好む。放っておけばユカに寝ころがってしまうし、ソファの上でも寝ころがるし、テレビを見ていても寝ころがる。
 寝ころがる姿勢は、どうしても①娯楽的な姿勢ととらえられがちだ。生産的な行為とは対極にあると考えられがちである。だが、日本人はもともと寝ころがりたい人たちなのだから、寝ころがる人生を積極的に生活のなかに取り入れていきたい。
 たとえば本などは、机に向かって読むより、むしろ寝ころがって読むほうがずっと楽なのは誰もが経験して知っているだろう,私の場合も本を読む場合、寝ころがって読んでいる時間がかなり長い。ソファに完全に仰向(あおむ)けいになってしまうとつらいから、コーナーのところにクッションなどを置いて、上半身を軽く起こしながら本を読む。そうしている人は多いだろう。
 寝ころがるときのもうひとつの姿勢は、うつぶせ(注7)がある。ただ、完全にうつぶせになっても、とても本は読みにくい。ひじで上半身を持ち上げても、ひじで体を支え続けるのはつらい。そういう場合は、枕やクッションをお服や胸の下に置くと。快適に読書できる。頭と本の間に距離がでさるから、三色ポールペンで本に線を引くことも可能になる。
 机の前に生るのは、文字を書いたりパソコンを打ったりするなど、集中が必要で何か生産をしなくてはけない場面だ。喫茶店などの机も、そういう作業に向いている。しかし読む行為は、寝ころがってもできる。あるいはテレビやビデオを観るのも、寝ころがっていたほうが楽だ。そのような情報収集には、長時間その姿勢に耐えられる、寝ころがりがとても向いている。
 寝ころがることは頭をゆるませることだという。②思い込みから解放されたい。寝ころがっているときにも、頭は活性化させていてよい。体が楽なのだから、持続もしやすくなる。

(齋藤孝「坐る力」文秋)

(注1)車座(くるまざ):大勢の人が輪になって座ること
(注2)幕末(ばくまつ):江戸時代の未期
(注3)(注4)(注5)、」西郷隆盛(さいごうたかもり)山内容堂(やまうちようどう)勝海舟(かつかいしゅう)幕末(ばくまつ)期に活躍した人物
(注6)仰向(あおむ)け:類や体を上に向けてる姿勢
(注7)うつぶせ:傾や体を下に向けて寝る姿勢

(1)筆者が言う①娯楽的な姿勢とは、どのような姿勢か。


(2)②思い込みとは、ここではどんなことか。


(3)筆者自身が読書をするときによいと言っている姿勢はどれか。


(4)次の文のうち、筆者の意見に合っているものはどれか。


 一時期、コンビューターがどんどんすすんでいけば、脳を上回る機化を持つようになるのでは、と思われていました。 たしかに、チェス(注1)でコンビューターが人間の名人をうち破るなど、コンビューターが人間の能力を超える場面も出てきました。
 ならば、このままコンビューターが進化を続ければ、人間の脳を超えてしまう日がくるのでしようか。
 ①(  )。いくら記憶の量とか、計算速度でコンビューターが圧倒的にリードしていようと、それだけでは人間の脳を超えることは決してできないことがわかってきています。
 脳とコンビューターの一番大きな違いは、脳は変わりつづける存在であるのに対して、コンビューターは変化しないということです。
 脳は、新しい情報を効率よく処理するために、それ自体をどんどん変化させていきます。入ってきた情報に対して、脳のネットワーク、つまり、脳神経細胞のネットワークが変化していくのです。②脳の存在の目的そのものが、脳の中のソフトウェアの書き換えであるようにも見えます。
 一方、コンビューターは決められたソフトウェアにそって、入ってきた情報に順番に反応して、結果を出します。入ってきた情報にして、コンビューター自体が変化することはないのです。
 コンピューターはいくら使っても処理速度が速くなることはありません。性能をアップするにはCPU(注2)を取り替えるしかありません。しかし、脳は使うごとに脳の中のアルゴリズム(情報処理の方法)が変化し工いきます。脳は使えば使うほど、より状況に応じた答えを出しやすくしていくのです。
 脳は他人の顔を非常に速いスビードで認識して、誰だか思い出すことができます。そのスビードには、いまのスーパー・コンビューターをもってしても追いつけません。もちろん、似た人に反応してしまったりして、脳の精度が落ちることもあります。しかし、だからこそすばやい応が可であり、危険があった場合はすぐにそれから身を守ることもできるのです。
 頭をよくするには、やはり頭をどんどん使うことが重要といえるでしよう。

(米山公啓「もの忘れを防ぐ28の方法」集英社)

(注1)チェス:西洋のゲームのひとつ。日本の将棋(しょうぎ)に似ている。
 (注2) CPU: central processing unitの略。中央処理装置。コンビューターの中枢部分に当たり、さまざまなプログラムを実行する。

(2)②脳の存在の目的そのものが、脳の中のソフトウェアの書き換えであるの説明として適当なものはどれか。


(3)脳とコンビューターを比較した結果について、文章の内容と合うものを選びなさい。


(4)筆者の考えに合っっているものをびなさい。


 わたしは文具店の前を通るたびに、どうしようもない店だなあと思いつつ、なぜかショーウインドウを睨いてしまうのだった。ひょっとしたら今日は何か変化でも起きているかもしれないなどと、あり得ない期待をしていた。漂流物(ひょうりゅうぶつ)(注1)でも探すような気分が、いつもしていた。
 気落ちするようなことがいくつも重なっていたせいかもしれない。ある日わたしは、鬱々(うつうつ)(注2)しながら(くだん)(注3)ショーウインドウの前で立ち止まっていた。普段は歩調をゆるめながらく程度だが、その日に限っては動きを止めていた。自分の影が黒々とショーウインドウの内部へ仲び、地球儀(注4)がひっそりと影の中に鎮座(ちんざ)して(注5)いる。
 とりとめもなく地球儀を観察していた。するとわたしは、①あること当気づいた。この地球儀はもう長い長いあいだ回転することもなく、いつも同じ側面を陽にさらしつづけてきた。それがために、カラフルな筈の表面は色褪せている。だが、ちょっと注意して見れば、直射日光にはさらされない「向こう側」の半球は新品のときの鮮やかな色彩がそのまま保たれている。視角を変えて覗けば、ちゃんと片鱗(へんりん)(注6)(うかが)えるではないか。
 その瞬問、わたしは理由もなく②救われた気分に包まれたのである。この地球儀を半回転させれば、目の前にはたちまち真っ青な海や色とりどりになり塗り分けられた国々が出現するのである。誰にも知られることなく陰となったまま保持されてきた鮮烈な(注7)色彩に気づいて、わたしは心を揺さぶられていた。みずみずしく発色している「地球儀の裏側」の秘密に、ショーウィンドウのガラス越しに気づいたのである。
 その事火に勇気づけられたわけでもなければ、思い入れをしたわけでもない。が、日常の中から卒然(そつぜん)として(注8)思いも奇らめ現実が浮かび上がってきたことによって、わたしは閉塞感(へいそくかん)(注9)から抜け出していた。スイッチが切り替わったみたいに、感情が変化した。
 自分が生きている世界には、見えるものあれば、見えないものもある。気がつくこともあれば、気付くことなく終わってしまうものもある。日の前の覇気(はき)(注10)を欠いた風景は、倦怠(けんたい)(注11)に満ちた空気の中にも、不意打ちのようにして清新な存在は浮かび出てくるのかもしれない。
 三好達治(みよしたつじ)(注12)は「昼」という詩の中で書いている。「すべてが青く澄み渡った正午だ。そして、私の前を自い矮鶏(ちゃぼ)(注13)の一列が石垣にそって歩いてゐる。ああ時間がこんなにはつきりと見える!」
 時間すらがはっきりと見えたように思える明間が、我々にはあり得るのだ。③そうした事実を人生の一部としてさりげなく織り込むことが出来たとき、我々は幸福の手触りをほんの少しだけでも知っていることになるだろう。

(春日武彦「幸福論ー講談社)

(注1)漂流物(ひょうりゅうぶつ) : 風や波に流されてきたもの
(注2)鬱々(うつうつ)と : 心が睛れないようす
(注3)(くだん)の : 前に述べた。あの
(注4)地球儀 : 地球の模型
(注5)鎮座(ちんざ)して : その場所にあって
(注6)片鱗(へんりん) : 一部分
(注7)鮮烈な : 鮮やかではっきりした
(注8)卒然(そつぜん)として : 急に
(注9)閉塞感(へいそくかん) : 閉じてふさがっている感じ
(注10)覇気(はき) : 積極的に取り組もうという気持ち
(注11)倦怠(けんたい) : 飽きていやになること
(注12)三好達治 : 詩人
(注13)矮鶏(ちゃぼ) : ニワトリを品種改良して小形にした島

(1)①あること当気づいたとあるが、筆者は何に気づいたのか。


(2)②救われた気分に包まれたのはなぜか。


(3)③そうした事実を人生の一部としてさりげなく織り込むことが出来たとはどういうことか。


(4)この文章にある「地球儀の裏側」とは何を表しているか。