ラグビーやバスケットなどのボールゲームにくらべて、サッカーは1試合あたりの得点が非常に少ない競技です。 2対ー1対0など一点差のゲームが多く、ドロー
(注1)での試合終了も珍しくありません。ボールゲームの面白さはなんといっても得点の場面ですが、サッカーは試合をする90分の間に数回しか見ることができません。競技によっては、試合を面白くするために、得点が入りやすくなるようなルール改正がおこなわれますが、サッカーにその
兆しは見られませんし、見る側も①
それを求めたりしません。
(中略)
点がなかなか入らないシステムでは、場合によっては強いチームが負ける可能性が残されています。これはサッカーの魅力のひとつです。優れているほうが勝ち、劣っているほうが負けるというのはスポーツの大前提で、それはサッカーにももちろんあてはまります。でも、②
そうはいかない結果も起こりうるというのが面白いのです。
サッカーだって、もっと得点が入りやすい競技にしようと思えばいくらでもできます。フィールド
(注2)狭くしたり、プレーヤー
(注3)の数を増やしたり。しかし、プレーヤーも観客も、③
1点の重みと、場合によっては何が起こるかわからない、
奇跡(注4)のようなことが起こる、それゆえの面白さを理解しているのです。
(稲垣正活「初耳だらけのオリンピックびつくり観戦講座」はまの出版)
(注1)ドロー:引き分け
(注2)フィールド:竸技場
(注3)プレーヤー:選手
(注4)
奇跡:信じられないような素晴らしいこと
「モンスター・ペアレント」とは、主に幼稚園や小学校低学年などの初等教育の現場に対して抗議を行ったりクレーム (注1)をつけたりする親を指す。最近このような親が増えていて、しばしば話題に上っている。一方、米国では「①へリコプター・ペアレン」と呼ばれる親の行為が社会間題化している。この呼び名は、もう大人として自立しなければならない年頃の大学生の子供を上空から旋回しながら (注2)見守り、地上の子供に何か間題が発生すると急降下して子供を救おうとする親の様子からつけられた。例えば、大学進学や大学生活のために実家を離れて生活をする子供に何か問題や不利益なことが発生した場合には、学校にり込みクレームをつけたり、就職試験にも付き添ったり (注3)、一緒に面接試験にまで顔を出したりもする。当の子供は何をしているかというと、②ただ身を任せているというのである。
このような親に対して専門家は「大学生が自分で考え、決断する力が衰えるなど、悪影響が出ている」と警鐘を鳴らしている (注4)。学ぶのは子供なのだから、保護者ば子供に対しては③適切な舵取り(注5)をすればいいのだという考えに立ち返る必要がある。
(注1)クレーム:苦情を言うこと
(注2)旋回する:円をえがくように回る
(注3)付き添う:世話をするために人のそばについている
(注4)警鐘を鳴らす:危険があることを知らせる
(注5)舵取り:人や集団の行動を一定の方向に導き、指導すること
世界的な経済不況の中で、今、企業は収益を拡大するために何をなすべきかを模索している。自国での需要の拡大が期待できない先進国の企業の多くは、新興国へ進出することに活路を見出そうとしている新興国での需要を生み出すためには。まずその国の国民の購買意欲を促進しなけれげならないのは当然であるが、それには①新しい文化の定着が必要だ。例えば、歯磨きの習慣がない国で歯ブラシなどの歯科衛生用品を扱う会社が成功するには、「歯を磨く」という行為が健康にとって重要であると人々に認識され、②歯磨きが実行されるようになることが不可欠である。つまり、企業が新興国でのマーケット戦略 (注1)を立案する際には、単に自国の経済性や利便性を追求するだけではなく、新興国の人々に幸福をもたすべきという視点を持つ必要がある。アメリカの大企業に端を発した (注2)世界的な不況は、企業や個人が目先の利己的 (注3)な経済性のみを追求した結果だと言えるのではないだろうか。最先端の計算技術を駆使して (注4)開発された金融商品は、結果として何を残しただろう。我々は、世界経済の建て直しを図ろうとする今、③本当に大切なものは何なのかということを自問しなければならない。
(注1)マーケット戦略:市場で成功するための方法
(注2)端を発する:始まる
(注3)利己的(な):自分の利益だけを考える
(注4)駆使する:自由に十分に使う
言語論的転回
(注1)によって思想界に訪れた新たな動きは「フェミニズム
(注2)批評」と「構築
(注3)主義」などが有名だ。なお構築主義の対立
概念は本質主義という。これは、男らしさ、女らしさ、という言葉を使って説明するとわかりやすい。
「言語が世界」であるとする言語的転回を経て生まれた構築主義では、「人は人間として生まれてくるだけ。それが男は男らしく、女は女らしくなるのは言語を用いて学習するから」として、女性・男性の違いを決定するのは言語だと考える。一方、本質主義では、男らしさや女らしさは
染色体(注4)が決めてしまうものと考える。極端なことを言えば、無人島に赤ちゃんを連れていき置いてくる。そして10年放っておいても、男は男らしく、女は女らしくなっていると考えるわけだ。
フェミニズムは、構築主義の立場に立つ。フランスの思想家、ボーヴォワールが書いた現代フェミニズムの原典「第二の性」には、「人は女に生まれない。女になるのだ」という有名なフレーズ
(注5)がある。「女に生まれる」というのは( a )である。「女になる」というのは( b )だ。つまり、ボーヴォワールは「①( )」と言ったのである。ここから現代のフェミニズムは出発している。
社会が性を決めるとする( c )の社会学系の研究者と、染色体が性を決めるという( d )の生物学の研究者との間では、激しい対立がある。最近は、生物学が優勢で、フェミニズムはかなり立場が弱くなっている。背景には、ものすごいベースで染色体やDNAについての研究が進み、本質主義が広まっている状況がある。DNAの研究がさらに進むと、人が生まれた直後にその人が持つ能力を測定できる時代がくると言われている。そうなれば、 DNA情報が新たな差別を生み出す危険性がある。それを差別につなげないためには、②
構築主義の立場からの発言が必要になってくるはずだ。
(石原千秋「現代思想は15年周期」
「大学授業がやってきた! 知の冒険(桐光学間特別授業)」水曜社)
(注1)言語論的転回:言語論に基づいてみた社会の変化
(注2)フェミニズム:女性の社会的・政治的を高くし、女性を性差別から解放しようとする考えと行動
(注3)構築:組み立ててつくる
(注4)
染色体:細胞がを分裂するときにあらわれる小体で、遺伝情報が入っている
(注5)フレーズ :句、文
威張るのはよくないと思っている人が多い。しかし、威張るとは自分の役割に忠実になることである。そして役割に忠実になるとは、自分の権限と責任を自覚し、それを打ち出す勇気をもつということである。
たとえばスチュワーデスが「お客さま、お煙草はサインが消えるまでお待ちいただけないでしょうか」というのは自分の責任に忠実な瞬間である。出すぎたことでもないし、生意気をいっているわけでもない。教授が学生に「レポートは事務室に提出のこと。拙宅に郵送しても採点しない」というのは教師の①
権限を発揮しているわけで、権威主義とか押しつけというわけではない。
自分の役割を明確に打ち出さないから後で後悔したり、人に無視されたり、なめられたりするのである。組織とは役割の東である。各自が自分の役割に忠実になるから組織はスムーズに動くのである。②
遠慮は無用とはこのことである。
ところが給料は役割に払われていることの自党が足りない人がいる。いつもニコニコして人の和を保っている好人物であるという理由で給料をもらっているわけではない。権限と責任を発揮するという契約を果たすからこそ給料をもらっている。つまり給料をもらうには気合がかかっている必要がある。これを私は威張ることをためらうことなかれと少し極端に表現してみたのである。
(目分康孝『幸せをつかむ心理学』PHP文庫による)
私は、世界初、日本初、業界初、市場初などとついた商品が出るとワクワクするというミーハー
(注)だ。電卓が小型化、薄型化を競いはじめたころ、名刺サイズで厚さが5ミリメートルくらいのが初めて発売されたときには、結構な値段にもかかわらず飛びついてしまった。
数字に弱いにもかかわらず、仕事で電卓を使うことが多かった私にとって、電卓をいつも身につけることができる名刺サイズは、①
大きな福音に思えた。しかも、出はじめの商品であるだけに、同僚たちに自慢ができるというミーハー心もくすぐられたからでもある。
しかし、買ってしばらくは定期入れと一緒に持ち歩いていたが、1カ月もしないうちに元の電卓を使うようになり、カード電卓は机の引き出しで
埃をかぶってしまうようになった。
②
それは、名刺サイズにするためにキーを小さくしており、しかもその操作感も頼りないために使いにくかったからである。また、胸ポケットなどに入れると、本体がねじれるため接触不良をおこし、故障したりもした。
そういったことがあったため、その後、電卓が薄型化を競い合い、キーの突起がないフラットなものまで出てきたが、さすがにミーハーの私でも飛びつくことはなかった。もちろん、名刺入れに入るというカード電卓のよさはあるが、ある意味では非常用であり、指の大きさや器用さから言えば、ものには「適度な」大きさがあることを学んだのである。
(岸田能和「ものづくりのヒント」かんき出版による)(注)ミーハー:程度の低いことに熟中しやすく、流行に左右されやすい人
行列にもいろいろある。そして、行列は、私たちの生活に必要なものでもあり、重宝なものでもある。電車の切符を買うとき、スーパーのレジで、銀行のカードで金の出し入れをする自動の機械、あれは何と言うのだろうか、あの機械を使うとき、タクシー乗場やバスの停留所で、私たちは行列するが、あれは私たちの社会生活のルールであり、当然である。
けれども、回転ずしの空席待ちの行列などには、他ではいけないの、と言いたくなる。
食べ物屋には、よく行列ができる。うまい店だからであろう。だが、そういう行列を見ると私は、他にもうまい店は、たくさんあるのに、と思い、①
ズレを感じる。
そう言えば、以前、青山五丁目の小さなパン屋に、何日間ぐらいだっただろうか、パンを買う人の長い行列ができたことがあった。
パンが焼き上がる時刻が近づくと、数十メートルの行列ができる。親に、学校の帰りに買って来い、と言われたのであろう、ランドセルを背負った子供も並んでいた。
ところが、その行列は、間もなく消滅した。( ② )。行列がなくなってから、私はためしにその店のパンを買って食ってみたが、うまいパンであった。だが、他の店のパンもうまい。行列してまで手に入れなければならないほどのものとは思われなかった。あのような、瞬間的流行のような行列もある。
(古山高麗雄「行列」1999年5月11日『日本経済新聞』による)
自分の一人がサバンナにぽつんと立っていて、そこにライオンが来れば自分が食われてしまう可能性は非常に高いわけですが、もう一人いれば、確率は二分の一になります。三人いれば三分の一、というように、多くいればいるほど自分犠牲になる確率は少なくなるのです。
(中略)
では、集団は大きければ大きいほどいいのでしょうか。そんなことはありません。あまり大きくなると、こんどは①
損失が生じてきます。一人あたりの分け前が減るのです。有限の食物が集中して存在しているときには、それを食べる人数が増えれば増えるほど一人あたりの取り分は減ります。取り分を増やそうとすると、新たな食物を深さなければなりませんが、それには移動のためにエネルギーや時間を使わなければなりません。つまり、捕食者対策の利益と採食競合の損失の釣り合いがとれたところで、集団の大きさは決まっているといえます。
集団が大きくなると採食の面で損失が増えるといいましたが、実はこれは集団がひとつしかない場合のことです。隣接する集団がいて、同じ食物を巡って争っている場合はどうでしょうか。集団間の争いの場合、単純に考えて数が多い方が優位になります。ということは、数が多い方が採食にとって有利に働くこともあるのです。
(小田亮『ヒトは環境を壊す動物である』ちくま新書による)
(3)
「香り松茸、味シメジ」なんていうけれど、スーパーで売っている人工栽培されたシメジの味気ないこと。椎茸だってエノキだって同じ。味&香りは、採れてから経過した時間に反比例するのだから、今さら愚痴っても始まらないのだけれど。
その点に、山をほっつき歩いて
(注)見つけた茸は香ばしくて味が濃くて、おまけに見つけるまでの苦労や疲労や、吸い込んだ森の清浄な空気や、いちいち見とれた景色や、茸狩りの現場にやって来るのに費やした時間や金までが詰まっているのだから、
ありがたいことこの上ない。
同じ狩りと言っても、鹿狩りや猪狩り、熊狩りなどに比べて茸狩りは、ひっそりと穏やかで殺生の罪悪感を覚えなくても済むというのに、ハンティングの魅力を十分に持ち合わせてもいる。狩りの対象を探索しなくてはならないということは、すなわち見つからない可能性もあるということで、賭け事につきものの偶然を必然にすべく(茸の特性や現場についての)一定の知識経験や技術を必要とし、その上さらに、幸運を必要とするということなのだ。未知と偶然があり、運不運があることこそが、人を狩りに駆り立てる魅力ではないだろうか。
まあ、そんなわけで、山で採りたての茸の味を覚えてからというもの、スーパーの茸売り場はパスするようになった。
(米原万里『心臓に毛が生えている理由』角川文庫による)
(注)ほっつき歩いて:あちこち歩き回って
寿司屋のカウンターで最初に注⽂するのが中トロ。ある︖なんか⽂句ありますか。え、はなから中トロは邪道だって。いいじゃん、好きなんだから。なんたって、寿司の王様はマグロですよ。それも、いい塩梅にとろりとした中トロ。このネタの具合で、その⽇の仕⼊れも想像がつく。なんてほど⾷通ではござんせんが、⼀時マグロの具合の悪かった時期がある。
⼤陸の⽅でも鮮⿂を⾷べるようになったとかで、⽇本の市場が買い負けている、てのが理由らしい。要するにマグロが⾼くなったのだ。結構じゃござんせんか。マグロは安くなくていい。マグロが⽫に乗ってくるくる回りながら安売りされてる図なんて、考えたくもねえんでござんすよ。そうやっているうちに、うまいマグロがいなくなったら、世界中でマグロ戦争が勃発する。いや、戦争にならなくったって、世界中の寿司屋のカウンターからマグロが消滅して、代⽤品のアボガドが並ぶようになる、つうもんですぜ、いやさ。
うまいマグロは⼀⽣懸命に働いて貯⾦して、記念⽇とか誕⽣⽇に清⽔の舞台から⾶び降りる覚悟で⾷べるくらいがよいんでやんす。世の中では⾼いからうまい、という理屈が⽴派に通⽤するんでござんすぜ。
大昔の人びとは、花に囲まれていました。だから、花をわざわざ表現しようと思わなかったのです。ところが、人間は文明を発達させるにつれて、自然をこわしていきます。そして、自然をこわせばこわすほど、人は①
花を表現するようになったのではないでしょうか。
森林や草地を開いて、垣根をつくります。垣根のなかには、木を植えたり草花を植えたりして花を楽しみます。建物のなかはいくつもの部屋に分かれた完全に人工的な空間です。この人工的な空間のなかで、人間は長い時間をすごすようになってきます。そうすると、殺風景な気分を和らげるために、そこに自然をもちこみたくなります。部屋の壁に花の模様を使ったり、花の絵を飾ったりします。生け花を飾り、鉢植えの花をもってきたりします。窓の外には花壇をつくります。
(中略)世界的にみても花の造形の歴史は新しく、とくに花専門の絵が出てくるのはわずか100年前のことなのです。このように花の造形の歴史がひじょうに新しいという事実の解釈として、知的な発達で人間は花を愛するようになったという解釈もあります。しかし私はむしろ、人間は自然をこわせばこわすほど花を愛するようになったのではないかと考えているのです。
(佐原真『遺跡が語る日本人のくらし』岩波ジュニア新書)
(1)
すでに地図の空白がなくなった現在、地理的な冒険や探検といった行為は、時間が経つにつれてどんどん不可能になってきている。ジャーナリストの本多勝一氏は、冒険の条件として「命の危険性」と「行為の主体性」の二つをあげているが、①
近代の冒険は、その後者が重要なのだ。それはつまり自己表現の問題とも密接に関かかてくる。ここでいう表現とは、地図上に誰もたどったことがない軌跡を描くという意味である。これまでの人類の歩みを俯瞰
(注1)して、その隙間を見つけ、自分なりの方法で空白を埋めていく行為と言い換えることもできる。わかりやすいところでは、登山におけるバリエーション・ルートや、8000 メートル峰
(注2)を無酸素で登ることや、厳冬期にどこそこを横断するとか、はじめて大陸の最高峰に全部登るとか、そういうことだ。末踏
(注3)の地がなければ、点と点を結んで誰もおこなっていないことをすればいい。そうした点と点を結ぶのが厳しい土地、アクセスの難しい場所、思いもよらないルートを形成するなら、なおさらその注目度は増していく。冒険の世界には、海でも山でも空でも、そういう志向が必ずどこかに存在している。白紙のキャンバス
(注4)に絵を描くためには表現力が必要なように、②
地理的な空白がなくなった時代を生きる現代の冒険家たちは、そこに特別な自分なりの題材を見つけなくてはいけない。だからこそ③
冒険者はアーティストでもあるといえる。
(石川直樹『最高の冒険家』による)
(注1):俯瞰(ふかん)する:全体を眺める
(注2):8000 メートル峰(ほう):8000 メートル級の山
(注3):末踏:まだ誰も足を踏み入れたことがないこと
(注4):キャンバス:絵を描くための布地
(2)
世界の食糧供給の頭打ち
(注1)、かつての日本と同じように、経済成長のために農業を衰退させ、一方では食生活の向上を図るアジアの動きなど、私たちが暮らしている輸入大国の基盤は意外に脆い。
私たちは、①
このへんで食糧の危機管理体制を考えておく必要があるのではないか。危機管理とは、いったんことが起きた時に、生産から流通までをどうするか、前もって体制作りを考えておくことである。②
体制を制度にしておかないと、食料確保のためのある程度強制力を持った政策を実施することなど不可能である。畑にはイモ類を優先的に植えなければならない。個人的に嫌だという人がいても、国民が最小限の栄養をとるために協力してもらう必要がある。この点を制度化しておく方が良いのではないか、ということである。
平和な時には、この制度は眠らせておけばいい。いざという時に
(注2)政府が発動
(注3)するのである。普段は、政府はなるべく食料の生産や流通には介入すべきではない。それぞれの立場の人たちが、自由に活動出来るような環境を整えておく役割だけでいい。しかし何かの時には、食料管理に責任を持つ仕組みに移行するのである。多くの場合は、異常事態が過ぎ去るまでの一時的な措置になるだろう。
(中略)
食糧の危機管理体制とは、非常事態に備えた生産から流通までの仕組み作りである。発動する
(注3)ことがないように祈りながら、制度を検討しておく必要があるのではないか。
(中村靖彦「コンビニ ファミレス 回転寿司」による)
(注1)頭打ち:限界に達して、それ以上に伸びなくなること
(注2)いざという時に:非常事態の起こった時に
(注3)発動する:ここでは、制度を実際に使う
(3)
①
日本の建築は寿命が短いが、これは木造自体の耐久性から決まるのではない。木造建築でも百年や二百年は持つ。千年以上持たせることも可能である。しかし、構造部材
(注1)のメンテナンスが必要なので耐久性を考えると大材
(注2)を用いたほうが良い。しかし、城郭
(注3)や宮殿、館、寺院仏閣
(注4)の類でないとなかなか大材を用いることができない。入手も難しいし加工にも手間暇
(注5)がかかる。また、一般的に木造建築は火事や地震で失われることも尐なくない。
日本人は白木の新しい建物を愛したが、時が経つと木の表面が黒ずんでくる。そこで、余裕がある者は、地震や火災に遭った時は勿論、ある程度老朽化してくると建て直し、周囲はその建て主のことを「甲斐性
(注6)がある」といって褒め称えた。しかし、建て直すといっても、大まかにいえばもとと同じものが建つ。勿論少し大きくなったり小さくなったり間取りが変わったりするが見た目に大差がない。そこで、街並みや風景は長期にわたって維持される。しかも木材はリュース
(注7)、リサイクルされた。
②
これは、日本独特の更新の文化と呼んでも良い。この典型が伊勢神宮である。二十年ごとに隣合う敷地に交互に建て直されるが、建てられるものは全く同じである。建物を更新するためには、木材が必要であり、樹木も植林によって更新される。若木のほうが二酸化炭素の吸収能力が優れているから、若木への更新は環境上も評価できる。同時に職人技術も更新される。更新は環境に優しく、人々に仕事を与え、ゆっくりとした変化をもたらす木の国の優れた文化である。
(小西敏正『平成 日本らしき宣言』による)
(注1)構造部材:建物に加わる力を支える材料(例えば、柱)
(注2)大材:ここでは、長期の使用に耐える大きな木材
(注3)城郭:城とその外側の囲い
(注4)仏閣:寺の建物
(注5)手間暇:労力と時間
(注6)甲斐性(かいしょう)がある:ここでは、何かを行う経済力があって立派だ
(注7)リュース:再使用
(1)
以前、花見をしている時に「桜の花は本当にきれいな正五角形
(注1)だね」と言ったら、風情のない人だと笑われたことがあった。確かに、桜の花びらには微妙な色合いや形、そして香りに加えて、散りゆく美しさがある。花を愛でる和歌や俳句は数限りないが、そのなかに「正五角形」という言葉が使われたことはおそらく一度もないであろう。科学者特有の美意識は、風流とはかなり異質なものなのだと悟った。
科学において本質以外を切り捨てるためには、大胆な抽象化と理想化が必要である。桜の花びらのたくさんの特徴の中から、「正五角形」という形だけを取り出すこと。これが抽象化である。実際に数学的な意味で完全な正五角形を示す花びらは少ないだろうが、そこにはあまりこだわらない。これが
理想化である。
自然界で正五角形のような対称性を示すためには、必ず規則的な法則があるはずである。花の場合、品種によって花弁
(注2)の回転対称性が遺伝子で決定されていることは間違いないから、うまくこの遺伝子を突きとめられれば、花の形を決める普遍的な法則が見つかるに違いない。このように、抽象化と理想化によって自然現象は単純に整理でき、普遍的な法則を見つける助けになる。
(酒井邦嘉『科学者という仕事』による)
(注1) 正五角形:五つの辺の長さが等しい五角形
(注2)花弁:花びら
(2)
住居を買おうとするときは、その資産的な価値に重点を置いて考える人が多い。普通の人にとっては、一生に一度の買い物とでもいうべきもので、多額の金を費やさなくてはならないので、当然のことだ。買った後で、何らかの事情で売らなくてはならない羽目になったときに、価値が減少していたのでは、大損害を被る。
だが、住居にとってより重要なのは、その有用性
(注1)である。住みやすさが必要なのはもちろんだが、自分のライフスタイルに合った構造になっているとか、生活のしやすい環境にあって利便性
(注2)に富んでいるとかの点も、重要な要素である。それらは必ずしも
世間一般の価値基準とは一致しない。したがって、自分たちの考え方や行動様式に従い、それに照らし合わせて判断する必要がある。
特に、終の住処
(注3)として考えるときには、自分たちの生き方をはっきりと見極め、その視点に立ったうえで、選択し決めていかなくてはならない。年を取ってくれば、当然のことながら、行動する能力は衰えてきて、動き回る範囲は狭まってくる。
自分たちの余生がどのようなものになるかについて、計画を立てたうえに想像力を働かせて、確実性の高い予測を組み立ててみる。その未来図に従って、住むべき場所の見当をつけ、住居の大きさや構造などを決めていく。もちろん、将来の経済状勢の大きな変化に備えて、予算を大きく下回る出費に抑えておくことも必要であることは、いうまでもない。
(山崎武也『シニアこそ都会に住もう——田舎暮らしは不安がいっぱい』による)
(注1)有用性:役に立つこと
(注2)利便性:便利さ
(注3)終の住処:人生を終えるまで住む家
3)
人間は、所詮、時代の子であり、環境の子である。わたしたちの認識は、自分の生きてきた時代や環境に大きく左右される。ある意味、閉じ込められているといってもいい。認識できる「世界」はきわめて限定的なのであり、時代や環境の制約によって、認識の鋳型
(注1)ができてしまうから、場合によっては、大きく歪められた「世界」像しか見えなくなることもある。わたしたちは、①
そういう宿命を背負っているのである。
だから、「世界を知る」といいつつ、実は、偏狭な認識の鋳型で「世界」をくり貫いて
(注2)いるだけということが生じたりする。鋳型が同じであるかぎり、断片的な情報をいくら集めたところで、「世界」の認識は何も変わらない。固まった世界認識をもつことは、「世界」が大きく変化する状況では非常に危険なことである。
一方で、これほど情報環境が発達したにもかかわらず、②
「世界を知る」ことがますます困難になったと感じている人も増加している。果てしなく茫漠
(注3)と広がり、しかも絶えず激動する「世界」が、手持ちの世界認識ではさっぱり見えなくなってきているからだ。たしかに、ただ漫然とメディアの情報を眺めているだけでは激流に呑み込まれてしまう。
いまこそ、時代や環境の制約を乗り越えて、「世界を知る力」を高めることが痛切に求められているのではないか。
もちろん、時代や環境の制約から完全に自由になることはない。しかし、凝り固まった認識の鋳型をほぐし、世界認識をできるだけ柔らかく広げ、自分たちが背負っているものの見方や考え方の限界がどこにあるのか、しっかりとらえ直すことはできるはずだ。
(寺島実郎『世界を知る力』による)
(注1)鋳型:ここでは、画一化した型
(注2)くり貫いて:ここでは、切り取って
(注3)茫漠:広がりがあり過ぎて、はっきりしない様子
(1)
以下は, 市民向け講座の講師を務めた大学教員の話である。
正直なことをいうと、成人した人々の集まりであるNHK 文化センターで, 美術史の話をするのは, 最初はかなり疑わしい気分だった。というのは、多かれ尐なかれ社会に出たり、家庭を持ったりした経験があって、それなりの見識なり専門なりを持ている人々が、いまさら“役にも立たぬ”過去の芸術に、それほど深い興味を持つだるうなどとは思えなかったからである。また、仮に持ったとしても、それは、自分の好みに合った美術品を, 楽しんで眺める、といった種類のものかと思っていた。ところが、それが①
大変な間違いだということがわかった。
ひたひたと押し寄せてくる、にせものでない, 深い興味が近頃の大学生にこそ見つけることのできないものであった。はたちになるやならずの若者たちは, 多くの場合, 単位をとるためにそこにいるのであって、どこまで心からきょうみを抱いてそこにいるのか全く疑わしい。(中略)②
市民講座の熱心さは、かつて, 喜びもなく学生時代を過ごしてしまった人々の、いわばノスタルシー
(注)の場合なのであるうか。失われて初めて、その喜びを知ったというわけなのか. 私はそう思うようになった。
ところが、それもまた、間違いだということがわかった。1年と数カ月講座を続けた今は、あることがわかったのである。つまり、芸術は、子供には“わからない”ということである。芸術とは, 人生の経験であり、憧れであり、また失望と悲哀である。一片の絵にも, 人生が詰まっている。人生を生きていないものに、絵がわかるわけがない。もちろん、若者でも、ある程度はわかる。しかし、本当に深くわかるのは、すでに生きた人々である。
(みどり「レット・イット・ビー」による)
(注)ノスタルジー:過ぎた日々を懐かしがること
(2)
以下は、国立国会図書館についての新聞記事である。
8月上旪、地下1階に用意された大型保温テントに66箱の段ボールが運びこまれた。 に置いた6本のボンベから、濃度60%の二酸化炭素ガス流し込まれた。
段ボールの中身は、個人や団体が所蔵していた1930~40年代の和紙製の書籍や小冊子だ。同図書館資料保存課の中島尚子さんは「室温25度、濃度60%で2週間燻蒸する
(注1)と、成虫はもちろん、目に見えない卵までか駆除できます」と話す。
同図書館の書庫の大半は閉架
(注2)で、見学者以外の一般人は立ち入る機会がない。これまで虫食い被害は数件しかなく、外部からの害虫の侵入はあまり警戒されてこなかったという。
ところが、2006年に館内一斉調査をすると、過去に古書店から購入した和紙の巻物
(注3)2本が、保管ケース内で繁殖した甲虫の一種「シバンムシ」の幼虫に食べられているのが見つかった。
07年には書庫内でカビ発生し、数千冊の本に被害が出た。カビは本そのものを傷めるだけでなく、虫の餌にもなる。
調査の結果、外部から持ち込まれる本や、ホコリに付着した虫やカビが、図書館内で増する可能性があることがわかった。
これまでも、虫が見つかった本を取り出し、化学薬品で駆除してきた。二酸化炭素は人や環境への影響も尐なく、低費用で済む。書庫に入れる前に、段ボールごと一斉駆除できるのが最大のメリットとうい。
同図書館は、こうしたノウハウをホームページや論文で国内外に紹介している。
( 朝日新聞2010年8月17日付く夕刊による)
(注1)燻蒸する:ここでは、ガスや煙で殺菌殺虫を行う
(注2)閉架:利用者に書棚を開放せず、請求に応じて本を取り出して見せるシステム
(注3)巻物:長い紙に書かれて、巻いて保管された昔の書物