今はどうか知りませんが、旧ソ連では、絵描きであることが尊ばれたそうです。ただし、体制的でないといけませんが・・・・・。ともかく「あの人は芸術家だから」とか「あの人はバレリーナだから、配給より少しよけいに食べさせてやらないとかわいそうだ」ということがあったといいます。ニューヨークでも、アーチストのためのマンションというのがあります。職業はみんな平等なのに、アーチストと名のつく仕事についている人は優遇されて(注1)安く住むところが用意されているのだそうです。
 日本では、優遇どころか、たとえば義務教育の教科の中から、美術の時間は無くなるか、もしくは減らされています。国策として科学的発見を願う時代に、「美」などは迂遠(うえん)(注2)ことのように思われ、直接コンピューターの教育を徹底すれば足りる、と考えられているようですが、わたしにはそう思えません。科学的にも、芸術的にも「美しいものを創造しよう」とする感性と執拗(しつよう)な努力が両輪となって、新しい境地を開くのです。

(安野光雅「絵のある人生岩波書店)

(注1)優遇する:ほかの人よりも良い待遇をする
(注2)迂遠(うえん)な:すぐには役に立たない

(1)この文章で筆者が最も言いたいことは何か。


 わたくしの目には、都市としての東京も大阪も大同小異(注1)の感があるのだが、日々まあこんなものかと東京と大阪を()()して暮らしていると、ときどき《小異》の部分であっと驚く発見をすることがある。
 先日、東京のある雑誌がもっとも《大阪らしい》都市風景を多角的に撮るという企画を立て、どこがいいだろうと相談を受けたわたくしは、迷わず大阪湾岸に広がる工場群と港湾施設と海の風景をその一つに選んだ。(中略)
 ところが、東京の編集者やカメラマンの驚いたこと、驚いたこと。いわく、なぜこんな岸壁(注2)・へ一般市民が出られるのかというのだが、なぜ、と尋ねられてこちらが驚いた。出られるのが当たり前だとわたくしは思っていたし、現に釣りをしてる人たちがいるのである。
 しかし東京では、岸壁という形で海に近づけるのは、日之出(ひので)桟橋か竹芝(たけしば)桟橋の水上バスやフェリーの発着場だけだという。
 今度はわたくしの方が、しばし考え込むことになった。東京も、大阪と同じく長い海岸線を持ち、同じように港湾施設や倉庫、工場がひしめき、埋立地(うめたてち)も多い。そのすべてが埠頭(ふとう)や桟橋という形で岸壁を持っているが、そのどこにも出られないというのは、嘘か(まこと)か。
 これはどうやら真の話らしい。海岸線がすべて企業の私有地ないし港湾局の管理地になっているのは大阪と同じだが、違いは閉じているか否かである。東京はすべての出入口が閉じられていて、大阪はほとんど開いているのである。

(高村薫「半眼訥訥」文藝春秋)

(注1)大同小異:細かい違いはあるが、だいたいは同じであること
(注2)岸壁:船から荷物の積み下ろしなどができるように、海岸に造られた壁

(1)この文章の内容として最も適切なものはどれか。


 いつの頃からかおふくろの味、という言葉をたぶん世の男性たちが作り、その郷愁にこたえてそういう店もでき、もの珍しさに女の私も幾度かのぞいてみると、何のことはない里芋とこんにゃく、ひじきと油揚げの煮付け、ナッパのおひたしなどのことなのである。
 要するにこれは昔のごく常識的な惣菜(そうざい)(注1)であって、何も母親に限らず隣りのおばさんでもうちの下女(げじょ)でも手軽に作り、また町のおかず屋にでも並べられていたしろもので、今だってちょいと一言(ひとこと)女房に頼めば家でもすぐ食べられる料理のことではないか。
 ただ、見た目は同じであっても、私にいわせて(もら)えば今のこれらの料理の素材は、郷愁のなかの昔の味とは似て非なるもの、というべく、第一野菜の味からして全く別物なのである。戦前はどこおいの家でも野菜をたくさん食べたし、需要とともに味の注文も多ければ、農家も美味しい野菜作りに情熱を込めたものだった。(中略)
 ところで、男性がおふくろの味にあこがれる原因に、主婦の家事の手抜きと子供中心の献立(こんだて)がいわれるが、私もその手抜き主婦の一人としていわせて頂くと、味覚というのは(はなは)だ流動的かつ身勝手なものとはいえないだろうか。つまり生活全般、現代と密着している人間のロに合うものといえばしよせん現代の味覚であって、今はもうないものねだりともいえる昔の味ではないのである。
 おふくろの味ムードに付き合って、漂白(注2)のため皮が固くなり味を失った里芋を、全国画一のだしの(もと)を使って煮ころがしてみたところで味気(あじけ)なさを()みしめるばかり。

(宮尾登美子「もうーつの出会い」新潮社)

(注1)惣菜(そうざい):おかず
(注2)漂白:日や水に当てたり、薬品を使ったりして白くすること

(1)この文章の内容として最戸適切なものはどれか。


 多少の誤解を恐れずに言うと、私は、いま、人びとは「支配」というものを求めはじめているのではないかと感じるのです。個人個人が、てんでんばらばら、勝手気ままに行動するのではなく、ある程度の協調や団結のもとに行動しようとしはじめている。そんな動きを感じるのです。人びとのこのような心理の変化が、「リーダーシップ論」の台頭(注1)と関係しているのではないでしようか。
 こ十年くらい、この国のほとんどの組織は、一一企業でも、組合でも、地域共同体でも一固定化された構造を「壊す」、あるいは「解体する」方向に進んできたと思います。「個人の自山」とか「個人の意思」といった言葉がとにかくよしとされ、反対に、上意下達式じょういかたつしき)(注2)に命令がなされることは「悪」であるかのように見なされてきました。
 多くの企業で、「チームワーク」より「個人の能力」が重視され、「権限委譲」とか「個人の裁量」といった言葉が、キーワードのように叫ばれてきました。年功序列型から成果型のシフトが進み、給与の面でも、「固定給」から個人の出来高できだか)による「能力給」に変えるところが続出しました。
 この傾向は先進的な組織ほど顕著(注3)で、がんじがらめの管理をやめて、個人が自由に能力を発揮できる環境作りをしよう、と叫んできました。もちろん、実態はそれほど「個人化」や「自由化」は進んでいなかったかもしれませんが、そうした取り組みが社会の新しいトレンドのようにもてはやされてきました。
 このような傾向のために、「リーダーシップ論」も、しばらく流行はや)らなかったのです。
 (中略)
 ではなぜ、いまになって「リーダーシップ論」が再燃してきたのでしようか。
 その理由の一つは、社会生活においても、プライベートにおいても、極度な情報化などのせいで「個人化」があまりに進みすぎたために、多くの人がどうしていいかわからなくなってきたからではないでしようか。すなわち、自由になりすぎたためにもたらされた「孤独」のせいで、つらくなってきたのです。

(姜尚中「リーダーは半歩前を歩けーー金大中というヒントよ集英社)

(注1)台頭:勢いを持って目立ってくること
(注2)上意下達式じょういかたつしき):他位が上の者が、下の者に一方的に注意をやり方
(注3)顕著:はっきり目立つ

(1)この文章の内容として最も適切なものはどれか。


 胃の存在は、しばしば意識される。多くの人が、日常的に「胃が痛い」とか、「胃が悪い」とか言う。だからといってそれが本当とはかぎらない。
 指の先が痛いというのは、はっきりわかる。なぜかというと、脳には指に相当する知覚の領野が、ちゃんとあるからである。逆に、脳のその部分に、なにかが起これば、肝心の指はたとえなんともなくとも、われわれは指が痛いとか、かゆいとか、なにかが触ったとか、そういう判断をする。つまり体の表面に関しては、われわれは脳に地図を持っている。体表とは、外界とわれわれの体とを、さかい)する部分だからである。そこはいわば国のようなもので、脳という司令部は国境で起こることであれば、それが国境のどの部分で起こったできごとかを、明確に把握しているのである。
 ところが内臓に関しては、脳にそういう地図はないらしい。そこは本来、「うまくいっている」はずの部分なのであろう。だから、脳はそこに関して、細かい地図を用意していない。それが用意してあれば、胃の小彎側しょうわんがわ)噴門ふんもん)から約三分の一の部分が痛いとか、幽門部ゆうもんぶ)の始まりの部分が輪状に痛むとか、見てきたようなことが言えるはずなのだが、もちろんそれは不可能である。

(養老孟司「からだを読む」筑摩書房)

(1)この文章の内容として最も適切なものはどれか。


 私の通った幼稚園には、幅二十センチほどの帯状の地獄があった。
 それは「お弁当室」と呼ばれる部屋の戸口の床の、なぜかそこだけタイルの色が変わっている部分のことで、そこを踏むと地獄に落ちると言われていた。
 どんな風に落ちるのかは誰にもわからなかったが、踏んだ瞬間に地面がガバッと裂けて、体ごと底なしの穴に吸い込まれてしまうのではないかというのが、園児たちのあいだでのもっぱらの定説ひるだった。お弁当室には、毎日ひる)に各自お弁当を取りに行かなければならなかったので、そのたびにみんな決死の覚悟で「地獄」を飛び越えた。

(岸本佐知子「ねにもつタイカ筑摩書房)

(1)この文章の内容として最も適切なものはどれか。


 昭和四十年代の庶民には、家族そろってデパートへ出かけるという日曜日の娯楽があった(平成の今日においては、たんなる買いものにすぎず、娯楽とは呼ばないだろう)。(中略)
そうした日曜日を、子どもは「おでかけ」と呼び、まえの週のうちから「こんどの日曜日」を楽しみにして、ふだん着とはちがう「よそゆき」でめかしこんで(注1)家をでる。ハンドバッグをさげ、帽子をかぶり、運動靴ではないエナメルのベルトつきの靴をはく。
 昭和四十年代のデパートとは、おとなも子どもも、それなりのおしやれをして出かけるところだった。ののつつましく、ささやかな幸福の感じは、バブル期以降に子ども時代を過ごした人には、まったく伝わらないと思う。昭和四十年代の多くの人々にとってのおしゃれとは、白いものは白く、磨くべきものは磨き、アイロンできちんとしわをのばし、しゃんとすべきときには背筋せすじ)をのばすことであって、ぜいたくな衣装で着飾ることではなかった。

(長野まゆみ「あのころのデパートよそゆきと、おでかけ」『yomyom』 2010年10月号新潮社)

(注1)めかしこむ:がんばって、おしやれをする

(1)この文章の内容として最も適切なものはどれか。


 そもそも医学や医療が生まれ発達してきたのは、人間に幸福をもたらすためであるということに異論を唱える人はいないだろうし、医学医療の恩恵により得られる「健康」が、人生の目的ではないということにも賛同いただけるであろう。つまり、医学医療は幸福のためのインフラ(注1)と考えたほうがよいことになる。一般にインフラは「安定供給による安心」が基本である。蛇口をひねれば水が出て、電気は常につき、電話はいつでもつながる。これが損なわれると国民はパニック(注2)になる。(中略)医療政策を考えたり、医療を学び実践するものは「幸福のための医療」を念頭に行動するべきであろう。

(寺下謙三「健康」「imidas 2007」集英社)

(注l)インフラ:産業や生活の基盤を形成する道路・鉄道・通信施設などの構造物
(注2)パニック:災害などによる混乱状態

(1)この文章で筆者が最も言いたいことは何か。


 わたしは幼い頃から銭湯せんとう育ちで、ほとんど毎日当たり前のように、知らない裸、たくさんの裸とともに生活の一部分を過ごしてきたのですが、銭湯が好きな反面、いつもなんだか落ち着かない、そわそわしたような気分もありました。女風呂には男児を除いては基本的に女性しかいないのですが、同じ女性という枠組みの中でも、赤ん坊、老女、妊婦、少女、そのときどきの本当に様々な体、が一堂にかいするわけです。
 お湯につかってそんなたくさんの体のバリエイションを眺めていると、赤ん坊を見ては「わたしにもあんなときがあった」と思うし胸のしっかり膨らんだ体を見ては「もうすぐわたしも膨らむのか」と複雑な気分になったし、幼少の頃は想像力が追いつかなかった老女の体を見て、最近はああこれも、順当にいけばわたしの体の未来である、としみじみ感じるようになり、そうすると日々変化する替えの利かない自分の体を抱えながらも、そこにあるたくさんの体がすべて自分の体である、つな)がっているのだと思えてくるから不思議。そんな錯覚というか実感に襲われることがある。あれもわたしだ、これもわたしだ、というように。
 なるほど個人がひとつきりの体でその人生を生き、それを指して「わたし」と言いながらも全部がわたしと感じるゆえに「このわたし」なんてものは個人を超えた大きなものの、やっぱり一瞬間でしかないような気持ちにさせられます。

(川上未映子「世界クッキー」文藝春秋)

(1)筆者は、銭湯せんとう)へ行くとどう感じると言っているか。


 赤ちゃんが無事に誕生して、生まれて初めて見せる笑い、それを「エンジェル・スマイル」と言ってきた。どんな赤ちゃんにも現れるという。授乳を受け安心してすやすやと眠っているときに見られであるが、この何とも言えない微笑を見て、親が「笑った!笑った!」と反応して喜ぶ。もちろん赤ちゃんに親の反応が分かるはずもないが、この微笑は、赤ちゃんがこの世に出てきて、初めて親に示す挨拶ではないか、と私は解釈したい。親を喜ばせ、よろしくお願いしますというサインではないかと考えるのである。人間は、一人では生きられず、生まれたての赤ちゃんは全く無力で、親の世話がなければ生きられない存在である。だからこそ、微笑が親へと送られるのだ。そういう仕組みが人間の遺伝子に刷り込まれてあるのだと考えたい。私は、人間が生得的(注1)に備えた「笑いの能力」はまず、新生児の微笑から顕在化(注2)すると考える。そして、その微笑が、人間関係の最初に位物するところの笑いと考えておきたいのである。
 この新生児微笑は、人によってはまったく問題にもされず、一種の生理的痙攣けいれん)(注3)であると言う人がいる。私は、ある助産婦さんにこの赤ちゃんの微笑はどのようにとらえていますかと尋ねたところ、その方は先輩たちから「神さんが笑わせている」と教えられてきて、痙攣などと思ったことはないと言う。「神さんが笑わせている」という表現は言い得てみょう)(注4)である。

(井上宏「笑い学のすすめ」世界思想社)

(注1)生得的:生まれつき持っている (注2)顕在化:はっきり表れること
(注3)痙攣けいれん):筋肉が発作的に細かく動くこと(注4)言い得てみょう):うまい言い方

(1)この文章で筆者が最も言いたいことは何か。


 チーム全員でものごとを成すというのは本当に面白いが、ときにはチームが一つにまとまらず、あるメンバーがおびただしくチームの足並みを乱す要因になってしまうこともある。大変残念なことだが、もしそうなったら、リーダーはその現実から絶対に目を背けないことだ。
 周りのメンバーからNOを突きつけられた人については、その人がどうしても変われないなら、あなたがチームから外すことを決断する勇気もときに必要だ。
 ただし勘違いしてはならない。外すという決断は、決して軽々しくしていいものではない。そもそも、周りとかみ合わない人がチームにいるというのはよくあること。それはまだ、本人に「変わる」余地がいくらでもある状態であり、まずはあなたがその人を変えていけばいい。
 たとえば私は、他のメンバーの反応がよくない人ほど、1対1で何度も話し合うようにしている。その席では「周りがこんな不満を感じている」ということを率直に伝え、こうして話し合っていることをメンバーにもわかってもらっている。そのうえで、数か月後に周囲との関係が改善されていなければ、本人に異動を打診。それならば残念な結果になっても、周りのメンバーも納得するし、誰もが受け入れやすくなると考えているのだ。つまり、チームからあるメンバーを外すなら、外すという決断の「重み」を本人にも周囲にも感じてもらえるよう、まずあなたが正面切ってその人に何度も働きかけることが先なのだ。

(藤巻幸夫「フジマキ流 アツイチームをつくる チームリーダーの教科書」インデックス・コミュニケーションズ)

(1)この文章で筆者が最も言いたいことは何か。


 もちろん、人生には多少は苦しいこともあろうから、それはそれなりにやってよい。山を登るのに、汗をかくこともあろう。しかしぼくは、それを山頂をめざすためとばかり思うより、登り道のあれこれを、汗を流しながらも楽しむほうを好む。山頂の自雲に思いをはせることはあっても、それは夢でいろどりをそえるためで、やはり現在の登り道にこそ、楽しみはある。
 山頂を望み、そして山頂に達することで満足するだけでは、山だっておもしろくあるまい。まして、人生は山登りではない。山頂なんて定まっていない。

(森毅「まちがったっていいじゃないか」筑摩書房)

(1)この文章で筆者が最も言いたいことは何か。


 物体は激しく動けば、それだけ摩擦が大きくなる。人間だって、激しく動くと熱を持つのだ。はた)から見れば、輝いている人間のことが、きっとうらや)ましく見えるのだろう。
 だけど、輝いている本人は熱くてたまらないのだ。
 星だって、何千光年という遠くの地球から見れば、美しく輝く存在だ。
 「いいなあ、あの星みたいに輝きたい」
 人はそう言うかもしれないけれど、その星はたまったもんじゃない。何億度という熱で燃えている。しかも、燃え尽きるまで、そうやって輝いてなくちゃいけない。
 これは真面目まじめ)に、けっこうつら)いことなのだ。
 カッコつけているわけじゃない。自分がそうなてみて、実感としてそう感じる。

(北野武「全思考」幻冬舎)

(1)この文章で筆者が最も言いたいことは何か。


 鼻はロの上に建てられた門衛小屋のようなものである。生命の親の大事な消化器の中へ侵入しようとするものをいちいち戸口で点検し、そうして少しでも胡散臭さんくさ)うい(注1)ものは、即座に)ぎつけて拒絶するのである。
 人間の文化が進むにしたがって、この門衛の肝心な役目はどうかすると忘れられ)ちで、ただ小屋の建築の見てくれ(注2)の美観だけカ題になるようであるが、それでもまだこの門衛の失職する心配は当分なさそうである。感官(注3)を無視する科学者も、時には匂いで物質を識別する。

(寺田寅彦「匂いの追億」「椿の花に宇宙を見るよ夏目書房)

(注1)胡散臭さんくさ)うい:なんとなく怪しい(注2)見てくれ:外見(注3)感官:感覚器官

(1)この文章で筆者が最も言いたいことは何か。


 「くつろぐ」というのは、その語感といい、平仮名で書いたときののびやかさといい、私の好きな言葉の一つである。もちろん、くつろぐ状態そのものも、大好き。
 そして、私がいちばん手っとり早くくつろげるのは、一時間ほどで行ける箱根はこね)の温泉へ浸ることであった。
 常宿じょうやど)にしているPホテルで、緑濃い風景を眺め、湯にのびのびと手足をのばせば、日ごろはりつとめていたものが、一気にゆるむというか、)けて、流れて、去って行く。
 ところが、この一年、それができなくなった。
 箱根へは、いつも家内と一緒に出かけていたのがあだ)になって(注1)目に入ったとたん、ホテルの建物が物を言う。
 ドアも、ロビーも、エレベーターも、廊下も、もちろん、いつもの部屋も。
 そのドアも、テープルも、ソファーも、すべてが語り出す。家内のことを、その家内が居なくなったことを。

(城山三郎「この命、何をあくせく」講談社)

(注1)あだ)になる:かえって悪い結果になる

(1)この文章の内容として最も適切なものはどれか。


 素晴すば)らしい、短編小説に出会うと、自分だけの宝物たからもの)にしたくなる。小さいけれどしっかりした造りの宝石箱にしまい、他の誰も知らない場所に隠しておく。
 長編小説だとそうはいかない。それは海や川のように世界に横たわているので、どこかにしまっておけるはずもなく、大勢の人がいつでも自由に眺めたり泳いだり漂ったりできる。
 短編小説との関係はもう少し秘密めいているように思う。読書の途中、心打たれるとしばしば私は「何なんだ、これは・・・・・・」と、感動の声を上げるのだが、短編の場合は長編に比べてその声の調子がかすれ気味になる。威勢よくを叩いて叫ぶのではなく、誰かに盗み聞きされないよう用心しながら、自分一人に向かってささやいている。読み終わるとまた宝石箱の中に納め、鍵を掛け、裏庭の片隅にひっそりと湧き出ている泉の底に沈める。
 何かの都合で立ち上がれないくらいに疲れ果ててしまった時、海や川のほとりまではとてもたどり着けそうにない時、自分の庭に隠しておいた宝物が役に立つ。泉に手を浸し、箱をすくい上げ、掌にのるほどの小さな世界にも、ちゃんと人間の営みが満ちあふれていることを確かめれば、もうそれだけで安心だ。自分はただ一人荒野に取り残されているのではなく、誰かの ぬく)もりに守られているのだと実感できる。

(小川洋子「博士の本棚」新潮社)

(1)この文章で筆者が最も言いたいことは何か。


 明治二十年代は、日本の近代文学史上、最初の女性作家の時代でした。(中略)そのような歴史の流れのなかで、明治時代、とくに二十年代を一つの画期として、女性作家たちが次々と登場するようになったのはなぜでしょうか。
 ーつには、西洋思想の影響によって、女性たちをとりまく状況が変化したことがあげられます。明治初期を代表する啓蒙的けいもうてき)(注1)な知識人たち一福沢諭吉ふくざわゆきち)中村正直なかむらまさなお)森有礼もりありのり)ら一は、西洋思想の影響を受け、女性たちの社会的な覚醒(注2)や地位向上が日本の近代化にとって重要な意義を持つことを認識し、雑誌その他のメディアを使って、女性の地位向上の必要性を説きました。新時代の指導的立場を自認する人々が開明的な女性論を展開していくなか、女性の社会進出を受けいれる精神的な土壌が、不十分ではありましたが用意されつつありました。
 そして、何より強調すべきは、女子教育の成立です。明治の女性作家の第一世代は、その多くが女学校での新しい教育を受けた人々でした。明治十年代を中心とする多くの女学校の創立は、それまでの日本には存在しなかったく女学生〉という新しい層を生み出しました。女学生の絶対数が増加すれば、彼女たちを対象とした雑誌も次々と刊行されるようになります。女性たち自身の内面的な覚醒は、外的・内的条件の両面から促されていきました。、このような中で、自ら語る主体であろうとする女性たちが文壇ぶんだん)に登場し始めたのです。

(菅聡子ほか「明治大正昭和に生きた女性作家たち一木村曙樋口一葉金子みす 尾崎翠 野溝七生子 円地文子」お茶の水学術事業会)

(注1)啓蒙的けいもうてき):人々に新しい知識を与え教え導く
(注2)覚醒:目を覚ますこと

(1)この文章の内容として最も適切なものはどれか。


 では、いったい、装飾という面から見た、人間と動物との決定的な違いは、どういう点にあるのであろうか。
 このことについて、おもしろい意見を述べている人は、名高い「衣装論」を書いたエリック・ギルである。ギルの意見によると、人間と動物との違いは、人間が服を着ている点にあるのではなくて、むしろ人間が服を脱ぐことができる点にある、というのだ。
 動物にも、立派な服を着ている種族は多いのだけれども、人間が人間たる所以ゆえん)(注1)のものは、自分の意志で、気の向くままに、服を着たり脱いだりすることができる自由、自分の好みに合わなければ、さっさと服を脱ぎ替え自由をもっている点にある。つまり、人間は、自分を満足させるために服を着るのであって、動物には、そういう自由はない、という意味なのである。
 なるほど、そういわれてみれば、その通りにちがいなく、これは当たり前すぎるほど当たり前の話ではないか。ただ、「服を脱ぐ」という点にポイントを置いたところがおもしろく、こういう意見を、パラドックス(逆説)というのであろう。
 着物ばかりではない。人間は室内装飾においても、住宅においても、アクセサリーにおいても、また髪型や化粧においても、自分の好みに合わせて、自由にこれを採用したり捨てたりすることができる。それだからまた楽しいのだ。異性との交友の場合だって、その通りだといったら叱られるだろうか。

(澁澤龍彦ー夢のある部屋」河出書房新社)

(注1)所以:わけ、理由

(1)この文章で筆者が最も言いたいことは何か。


 一般に自由はどのようにとら)えられているだろう?
 言葉の使われ方を観察すると、たとえば、自由行動、自由時間という場合、決められたスケジュールがない状態を示している。多くの人は「自由」を、「暇な」とか「することがない」状態としてイメージしているかもしれない。
 必ずしも、「自由」は素晴らしい意味には使われていない。仕事や勉強に追われていると、ついついゆっくりと休みたくなる。少しくらいは怠けたくなる。「一日中寝ていたい」というような欲求が、「自由」から想される個人的な希望である場合が多い。
 はたして、これが本当の自由だろうか?
 もちろん「支配からの解放」であることにはまちがいない。ただし、多くの人にとっては解放されること自体が、自由の価値になっている。解放されたことで何ができるのか、といった「自由の活用」へは考えカ吸んでいないように見える。

(森博嗣「自由をつくる自在に生きを集英社)

(1)この文章で筆者が最も言いたいことは何か。


 たとえば、タバコは体に悪いからもうやめようと決心しても、なかなかやめられなかったり、ダイエットを決意して間食はやめようと決めても、目の前にケーキを出されるとつい食べてしまったりするのはなぜなのか。
 多くの人の答えは、「意志が弱い」かいうものである。また、英会話を習得するために、毎日テレビの英語番組を見ようと決めたのに3日もつづかない。「どうせやる気がない」からとか「本気じゃない」からだと考える。また、人前ではっきり自分の意見を言えず、われながらじれったいと思う人もいる。なぜだろう。「))思案じあん)(注1)」だから、あるいは「気が小さい」からだろうか? 
 このように、「意志の弱さ」「やる気のなさ」「引っ込み思案な性格」というものを、行動の原因として考える人は多い。しかし、意志とか、やる気とか、性格というのはいったい何なのだろう。
 そもそも、自分も含めて、ある人が行儀がいいとか悪いとか、意志が強いとか弱いとか、やる気があるとかないとか、引っ込み思案なのか度胸がある(注2)のか、ということがなぜわかるのかを考えてみたい。禁煙を決意しながらタバコに手が伸びてしまうのは、意志が弱いからだった。では、なぜ、その人の音志は弱いといえるのだろうか。それは、タバコをやめようと思っているのにやめられないからである。どこか変ではないか。
 おかしい理由は2つある。タバコをやめられないことと、意志が弱いこととが循環論に陥っていることが1つ。もう1つは、意志が弱いというのは、タバコを吸う原因ではなく、禁煙を決意したのにタバコを吸っていることを別の言葉で言い換えたにすぎないのである。

(杉山尚子「行動分析学入門」集英社)

(注1)))思案じあん):積極的に何かをするのが苦手な性格
(注2)度胸がある:物事を恐れない強い精神力がある

(1)この文章で筆者が最も言いたいことは何か。


 人間は"私"の身体は周囲の自然から独立したものだ、と思っている。"私"の皮膚ひふ)から外の世界は他者だ、と思っている。しかし、これは人間の個体意識が作りだした大きな錯覚だった。
 人間の身体は、もともとすべての自然、すべての生命とつながったものだ。"私"はもともと"我々"だったのだ。科学技術を進歩させる過程で人間はそのことを忘れかけていた。しかし、宇宙飛行士たちは、科学技術の進歩の最端で、逆に①そのことを思い出し始めている。

(龍村仁「地球のささやき講角川学芸出版)

(1)①そのことは何を指しているか。


 近所づきあいが薄れてくると、町内にどんな人が住んでいるかを知ることもできなくなってしまいます。特に、家に引きこもりがちな、災害弱者とよばれる人の情報は欠如することが多く、市町村の防災関係部局(注1))でさえも、災害時に支援の必要な市民について把握しているところは、25%しかありません。個人情報保護法の施行以来、プライバシーに関わる情報の管理はいっそう厳しくなっていて、災害弱者をますます孤立させてしまう傾向にあります。生命にかかわる災害救助には、情報の活用を許されているといいますが、①そのような柔軟な対応は、あまりとられていないのが実情です。

(中田実ほか「町内会のすべてが解る!疑問・難問100問100答」じゃこめてい出版)

(注1)防災関係部局:役所や役場で、災害を防ぐ仕事を担当している部や課

(1)①そのような柔軟な対応とあるが、その説明として最も適切なものはどれか。


 眠ってからしばらくすると、レム(REM)睡眠というものが始まる。マブタがピカピカする。のレムの間に、頭はその日のうちにあったことを整理している。記憶しておくべきこと、すなわち、倉庫に入れるべきものと、処分してしまってよいもの、忘れるものとの区分けが行なわれる。自然忘却である。
 朝目をさまして、気分爽快であるのは、夜の間に、頭の中がきれいに整理されて、広々としているからである。、何かの事情で①それが妨げられると、寝ざめが悪く、頭が重い。
 朝の時間が、思考にとって黄金の時間であるのも、頭の工島の中がよく整頓されて、動きやすくなっているからにほかならない。

(外山滋比古「思考の整理学ょ筑摩書房)

(1)①それは何を指しているか。


 私企業の主導的原理である「自己利益の追求」に衝き動かされて馬車馬のようにさんざん働いた親の世代を見て、今の若者は「彼らは結局のところ幸せだったのか」と問い直し、そうした生き方を考え直そうとしている面が確実にある。「不況の中の豊かさ」とも言える不思議な環境を享受する、ある意味で幸運な時代に生きているからこそ、若者は「何らかの活動を通じて自分なりに何か生きがいを見つけたい」「人とつながることによって喜びや充実感をともに感じたい」「だれかの役に立っことによって自分自身の居場所を見つけたい」という願望を実現できる可能性を感じとっている。①こういう意識が若者を、広い意味のボランタリーな活動(注1)に向かわせているのだ。

(丸楠恭一、坂田顕一、山下利恵子「若者たちの《政治革命》組織からネットワークへ」中央公論新社)

(注1)ボランタリーな活動:参加者が金銭的な報酬なしで協力する活動。募金活動や福祉活動のことが多い。

(1)①こういう意識とはどのような意識か。


 ポール・セローのある小説の中で、アフリカにやって来たアメリカ人の女の子が、なぜ自分が世界のあちこちをまわりつづけることになったかについて語るシーンがあった。ずっと昔に読んだ本なので、台詞せりふ)の細かいところまでは正確には覚えていないので、まちがっていたらごめんなさい。でもだいたいこんな内容だったと思う。「本で何かを読む、写真で何かを見る、何かの話を聞く。でも私は自分で実際にそこに行ってみないと納得できないし、落ち着かないのよ。たとえば自分のしかい手でギリシャのアクロポリスの柱を触ってみないわけにはいかないし、自分の足を死海しかい)の水につけてみないわけにはいかないの」。彼女はアクロポリスの柱を触るためにギリシャに行き、死海の水に足をつけるためにイスラエルに行く。そして彼女はそれをやめることができなくなってしまうのだ。エジプトに行ってピラミッドに上り、インドに行ってガンジスを下り・・・・・、そんなことしてても無意味だし、キリないじゃないかとあなたは言うかもしれない。でも様々な表層的理由づけをひとつひとっ取り払ってしまえば、結局のところ①それが旅行というものが持つおそらくはいちばんまっとうな動機であり、存在理由であるだろうと僕は思う。

(村上春樹「辺境・近境ょ新潮社)

(1)①それは何を指しているか。


 愛情には、相手を尊重し、相手に不快感を与えたくないといった気持ちが含まれているだろう。けれども、相手を束縛せずにはいられない側面をも特つ。「あなたを愛しているからこそ、あなたにはこのようにしてほしい」「大切なあなただからこそ、こんなことはしないでほしい」といった気持ちが生じてくるのは当然であり、そうでなかったら愛情とは呼べまい。つまり相手に関心があり好意があればあるほど、無意識のうちにその相手をコントロールしたくなる。人の心にはそのような宿命がある。さらに、他人にコントロールされることは押し付け・強制・無理強むりじ)い・束縛といった具合にマイナスイメージで想像してしまいがちだが、必ずしも不快で窮屈だとは限らない。もしもわたしが本気で陶芸家(注1)にでもなりたいと考え、尊敬する作家のところへ弟子入でしい)りした、(注2)とししようする。わたしは師匠ししょう)に指導を受けることのみならず、あれこれ命じられたり無理難題を言わ罵声を浴びせられることにすら充実感と喜びを覚えるのではないだろうか。尊敬する師匠にロールされることが、ひたすら嬉しく感じられそうに思える。おそらくアスリートとコーチ係にも似たところがありそうな気がするし、監督と俳優との間にも①そんな図式が成立するあるかもしれない。

(春日武彦「精神科医は腹の底で何を考えているか」幻冬舎)

(注1)岡芸家:茶わんや皿を作る芸術家
(注2) ~へ弟子入でしい)りする: ~を師匠ししょう)(指導者)にして、教えてもらう関係になる

(1)①そんな図式とは何か。


 いま、婦人雑誌で女性がいちばん心をときめかせるのは、ファッションでも料理でもなく、インテリアのページだという。日本人も衣食足って、住といういちばんコストのかかる消費財にまで、手を仲ばしはじめたということなのだろうか。食べものなら、胸がむかつくほどにあふれている。タンスの中だってそでも通さない洋服で満杯だ。あと足りないのは、暮らしを入れるハコー絵に描いたようなマイホームだけである。
 もちろん、(中略)住宅に投資できる人とできない人とは、所得階層によってはっきり分かれてくる。しかし、①インテリアは違う。家具や照明のように固定したものだけでなく、カーテン、カーベット、ルームアクセサリー、そしてプラント(観葉植物)のような可動的な室内装飾品は、ハコよりも安価に、ハコが果たすはずの夢をかなえてくれる。

(上野千鶴子「増補<私>探しゲーム」筑摩書房)

 裁判官の仕事は、争っている者に対してどちらが正しいかを示すということである。しかし、単にどちらかを勝たせればいいというわけではない。示す判断は、客観的な事実関係に基づいていなくてはいけない。争っている本人たちだけでなく、本人以外の第三者も納得する判断が求められる。争っている者たちは主観的な意見や生の要求をぶつけあうかもしれないが、まず冷静に「主観的な意見」と「客観的な事実」とを①区別することから始める必要があるのだ。
 「NO!」と言える労働者になるためには、まずは自分たちの働き方のなかに「法律違反」があるかを知り、その救済手段を知ることが第一です。今の50代、60代は会社に守られて生きてきた「知らなくて済んだ世代」ですが、今の若者たちは自分たちで生活を守らなければならない「①知らざるを得ない世代」。働くことで生活が成り立ち、将来が保障され、人生設計ができるということは、前提にはならない時代を生きています。

(湯浅誠「「NO!」と言えるビジネスマンが社会を変える」AERA Biz 2010.10.10号朝日新聞出版)

(1)「①知らざるを得ない世代」とあるが、何を知らざるを得ないのか。


 中欧を巡る八日間のテレビの仕事をしたとき、気がついたことがいくつかある。その一つは、テレビ関係者が極端なまでに「視聴者の声」を気にすることだ。
 番組のなかに高名な政治評論家が登場して、ハンガリーやチェコがEU (欧州連合)に加わった意味を語る場面があった。場所はウィーンのシェーンプルン宮殿の前庭。かたわらにインタビュアー役のアナウンサーがいて質問するかたち。
 政治評論家はグレーの)ぞろ)い、胸にハンカチをのぞかせていた。アナウンサーは赤いフードつきの厚手のヤッケ。さっそく非難が殺到した。アナウンサーのいで立ちがだらしないというのだ。①もっときちんとした服装を心がけろ
 この場合、政治評論家が"ヘン"なのだ。時は厳寒のさなかであって、気温が零下五度。しかも寒風の吹く屋外である。そこへカクテルバーティーのような格好で出てくるのがおかしいのだ。立ちどまっていたウィーン市民たちは、その異様さに目を丸くしていた。むろん、誰もが厚手のヤッケやオーバーを着こんでいた。

(池内紀「世の中にひとこいNTT出版)

(1)①もっときちんとした服装を心がけろとあるが、これはだれが言った言葉か。


 人生が思うようにならないとき、私たちは、その責任を押しつけられる対象を探してしまう傾向があります。親をはじめとする周囲の人間、家庭環境、学校、会社、時代、世の中、運、学歴、容姿・・・・・・それらが今の自分の不幸感に関わりがあったとしても、原因の一つにすぎないのに、すべてであるかのように思いたがるのです。
 自分の能力の限界や内面の問題を認めれば、自尊心が傷つきます。問題を直視し、改善すべく努力するのはつらい作業ですし、その努力がなかなか実らなければ、さらに傷つく。それを無意識のうちに避けようとして、自分以外の誰かや今さら自分では変えようのない何かのせいにしてしまうのでしょう。
 不幸の原因を自分以外に求め、責任を押しつけることと同様に危険なのが、自己憐憫れんびん)にとらわれることです。「私ってかわいそう」という思いにとらわれると、心のアンテナが内向きになります。そうして自分の苦悩にばかりアンテナを向けていると、どんどん視野が狭くなり、客観性も失われていく。自分が誰よりも不幸に思えてきて、周囲の人が抱えている痛みには鈍感になり、①人間関係にも悪影響を及ぼしてしまいかねません

(加賀乙彦「不幸な国の幸福論」集英社)

(1)①人間関係にも悪影響を及ほしてしまいかねませんとあるが、何をすることが悪影響を及ほしてしまいかねないのか。


 身近なもの、基本的なものほど語源がたどれない。木の名前で考えてみようーー
  マツ 松
  スギ 杉
  クス 楠(中略)
 マツをなぜマッと呼んだのか。それぞれ日本語としての音の由来には説明がないのだ。いつも寝ているから「寝る子」からネコになった、という類の民間語源説があるけれど、猫の属性は寝るだけではない。他を排してその点にばかり注目した理山は何か。
 基本語彙の語源は本当は間うてはいけないのかもしれない。地面の高いところがヤマと呼ばれ、常に水が流れるところがカワと呼ばれることの理由を聞いてはいけない。日本語の起源にさかのぶ)って、例えばタミル語であるなどと説を立てても、それで語源が明らかになるわけではない。①問いはただそちらへ持ち越されるだけだ。

(池澤夏樹「風神帖ーみすず書房)

(1)①問いはただそちらへ持ち越されるとはうどういうことか。


 最近私が腹が立ったのは、小中学校の国語の教科書に対してだ。中学校の教科書から漱石そうせき)鷗外おうがい)(注1)が消えたのはニュースになった。しかし、それ以前から小中の国語の教科書は質量ともに薄かった。驚くほど幼稚な文章ばかりだ。世界の文学や批評は皆無に近く、グローバル化に逆行している。
 これでは、硬くて栄養のある言葉から栄養を吸収するだけの強いアゴと腸が鍛えられない。ファーストフードのような柔らかいものばかりでアゴが弱くなってきているが、言葉を)み締めるアゴの力も弱められている。国語教科書が①ハンバーガーになってしまっているのだ。
 文章はすべての意味がわからなくてもいい。幼児にモーツァルトを聴かせるように、子どもに総ルビ(注2)で最高の日本語をはじめから与えるべきだ。暗誦あんしょう)(注3)素読そどく)(注4)の文化がつちか)った感性は、生涯にわたって生きる。「満足できるわからなさ」には味がある。

(齋藤孝「「するめ」をかみしめよう」「ああ、腹立つ」新潮社)

(注1)漱石そうせき)鷗外おうがい):夏目漱石なつめそうせき)森鷗外もりおうがい)。器明治・大正期に活躍した日本を代表する小説家
(注2)総ルビ:漢字全部にふりがなをつけること
(注3)暗誦あんしょう):文章を記憶して、それを口に出して言うこと
(注4)素読そどく):文章の意味を考えずに、声を出して文字だけを読むこと

(1)①ハンバーガーになってしまっているとはどういう意味か。


 いまの日本社会では、万一事故が起こったときに、管理者が徹底的に責められる風潮があります。その意味では、安全対策が「危険の管理」ではなく「危険の排除」の方向にいってしまうのは自然の流れかもしれません。
 本当に管理がいい加減である場合は責められても仕方がないと思いますが、被害者自身が禁止行為や予想外の行動をしていたり、原因が想定外ないし未知の問題であったりするときなどは①違います。こういうケースでは、設計者や管理者が失敗の経験を生かし、危険を制御する方向で安全対策を見直すことが社会の利益にもなります。

(畑村洋太郎「危険不可視社会よ講談社)

(1)①違いますとはどういう意味か。


 どんなささいなことがらについてでも、それを愛し、そのことについて調べたり、試したりしている一群の人々が必ずいる。そのような人々は通常、地球上の各地に散在してそれぞれ日々の暮らしを送ってはいるのだが、やはりそのことについてのこまごました情報やささやかな発見を、ときに交換したりひかえめに自慢したくなるものである。そこで人々は、ウェブが発達するずっと以前から、様々な方法グレイプヴァイン)によってお互いの存在を知り、定期的に集うことを約束しあった。人々は、そのことが好きで、ずっと好きであり続け、そして①小さな縦穴を深く掘り続けている、という点だけを共有している。

(福岡伸ー『世界は分けてもわからない』講談社)

(1)①小さな縦穴を深く掘り続けているとはどのような意味か。


 以前、「〇Xモードの言語中枢」と題した文章を書いたことがある。こ日本人が欧米人に較べて、情報を非論理的に羅列する傾向が強いこと。同時通訳をしていると、スピーカーの①脳のモード差がモロに体感できること。それは、学校教育において、欧米では口頭試間と論文という能動的な知識の試し方を多用するのに対して、日本では〇X式と選択式という受け身の知識の試し方が圧倒的に多いせいではないか、という愚見ぐけん)(注1)を披露した。(中略)
 先ほど、同時通訳をしていると、スピーカーの脳のモード差がモロに体感できると述べたが、それは切実極まる問題だからだ。通訳者は、スピーカーの発言を訳し終えるまでは記憶していなければならない。ところが、論理的な文章はかなり嵩張かさば)った(注2)としてもスルスルと容易に覚えられるのに、羅列的な文章には記憶力が拒絶反応を起こすのだ。
 要するに、論理性は、記憶の負担を軽減する役割を果たしているわけで、文字依存度が高い日本人に較べて、それが低い西欧人の言語中枢の方が論理的にならざるを得ないのではないだろうか。

(米原万里「心臓に毛が生えている理由」角川学芸出版)

(注1)愚見ぐけん):自分の意見(謙譲語として使われる)
(注2)嵩張かさば)った:量が多い

(1)①脳のモード差とは何を指すか。


 学生時代に末弘すえひろ)厳太郎いずたろう))先生から民法の講義をきいたとき「時効(注1)」という制度について次のように説明されたのを覚えています。金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババ(注2))をきめこむ不心得者ふこころえもの)がトクをして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするという結果になるのはずいぶん不人情な話のように思われるけれども、この規定の根拠には、権利の上に長くねむっている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。この説明に私はなるほどと思う・と同時に「①権利の上にねむる者」という言葉が妙に強く印象に残りました。いま考えてみると、請求する行為によって時効を中断しない限り、たんに自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権(注3)を喪失するというロジックのなかには、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味がひそんでいるように思われます。

(丸山真男「日本の思想講岩波書店)

(注1)時効:一定の期間が過ぎたために、権利を失うこと
(注2)ネコババ:拾った物などをそのまま自分の物にしてしまうこと
(注3 )債権:貸したお金や財産を返してもらう権利

(1)①権利の上にねむる者とはだれか。


 音声言語の発達によて、人間の社会はゆるぎない(注1)ものとなったといた。しかしこれは、人間の社会をゆるぎないものにするために、音声言語が発達したという意味ではない。社会は結果であり、目的ではなかった。
 一般に動物の構造や機能は、まことによく環境に適応しているとおもわれる点もあるが、逆に、どうしてこんな変なことになっているのだろうかと、ふしぎにおもわれる点もたくさんある。動物というものは、目的論的にすべて説明できるわけではない。人間についてもおなじことがいえる。それはただ、ながい進化の歴史的結果であるというだけのことである。はるかな過去からの遺産をうけついで、そのうえに多少の変化をかさねつつ、現在が存在するのである。
 感覚器官、脳神経系(注2)の発達にしても、①おなじかんがえかたができるであろう。これはなんらかの目的があってのことではない。人間は、かしこくなりたいと努力したために、脳がおおきくなったのではない。脳がおおきくなったために、かしこくなったのである。なにが原因で脳がおおきくなったのか。その点については確定的なことはいえない。

(梅棹忠夫「情報の文明学」中央公論新社)

(注1)ゆるぎない:安定している
(注2)脳神経系:情報を頭(脳)に伝えたり、脳から体に伝えたりする系統

(1)①おなじかんがえかたができるの意味として、最も適切なものはどれか。


 水中では、体重が10分の1ほどになる。水泳がはかのスポーツと決定的に異なっているのは、体の特定部位、たとえばひざなどに体重が集中しないことである。かつ運動量を自在に加減できるという点も大きなメリット(注1)で、その気になれば短時間でエネルギーを消費することも簡単にできてしまう。
 もうーっ、意外な効果がある。水中では体温を保つために体内のエネルギーを燃焼させる仕組みが自然に働くことから、知らずに大量のエネルギーを消費していることになる。つまり①何もしなくとも水中ではカロリーを消費するのである

(岡田正彦『人はなぜ太るのかー肥満を科学する』岩波書店)

(注1)メリット:いい点、長所

(1)①何もしなくとも水中ではカロリーを消費するのであるとあるが、それはなせか。


 動物進化には「進化の二大車輪」と言われるものがあります。ーつは有名な「自然選択」。環境の変化にうまく適応した動物だけが生き残るというものです。もうひとつが、あまり知られていませペじゃくんが「性選択」。なぜ孔雀くじゃくの羽根は美しくなたのかというと、環境にしたからではなく、メスが美しい羽根を持ったオスを選び、そういうオスの子を生み続けたからです。人間もこれとよく似ていて「文化進化の性選択」がなされます。
 女の子がどういう男の子を好むかによて、実は男の子の生き方が大きく方向づけられ、それが将来的には一国の文化を形成することになります。女の子たちが昔から生きてきた、そして最近になって男の子に対しても強く望むようになた「コミュにケーション志向」は、戦いによる上昇や支配をめざす「コントロール志向」と違って、殺人や傷害に結びつかず、その意味で成熟社会にふさわしいものです。①女の子の役割はものすごく大きいのです。

(宮台真司「意味なき世界をどう生きるか?」「人生の教科|書よのなか|」筑摩書房)

(1)①女の子の役割はものすごく大きいのはなせか。