"インターネットの普及には目覚ましい(41)。
かつて作家、ジャーナリスト、有名人などにしか許されなかった「自分の意見を世界に発信する」ことが、だれにでもいつでも可能になった。しかし、そこには匿名で(42)、無責任で悪意に満ちた言葉がひとり歩きする危険性がある。
一方、話している人が特定できる場合では情報を話す人のステイタスや状況いかんで、先入観を持って(43)。「有名な学者だから、きっと正しいだろう」とか、「女だから、非論理的だ」とか...。話すほうも、立場によっては遠慮が生まれる。「上司の言うことは間違っているけど、黙っていよう」とか、「反対したら、女らしくないと思われるかも」と、口をつぐむこともあるだろう。
こんな話がある。あるホームページ上で、議論が起こった。その中で、ある人物Aが興奮して攻撃的な文章を書き込み、タイするもう1人Bが冷静かつ知的に、しかもユーモアたっぷりに答えた。だれが見てもBんも圧勝であった。
その後、仲良くなった読者たちが実際に会う、いわゆるオフ会が開催された。
実際に顔をあわせると、Aは地位のある初老の男性で、Bは何と小学生の少年であった。
もし最初から顔が見えていたら、みんなはB少年の言うことに耳を傾けただろうか。
「口が立つ(44)、しょせん子供だ」と無視したかもしれない。顔が見えないからこそ、先入観なしにお互いの意見を聞き、「Bの意見が正しい’と判断し得たのだ。
ネットの世界は(45-a)言ったか」ではなく、(45-b)言ったか」で評価される世界と言えよう。"

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人間とは月のようなもの
この世を生き抜く上で知っておくべき言葉がある。
まず一つは、「人間は謎」だということ。
人は自分ではなんでもわかっているつもりでも、本当は自分自身のことをよく理解できていないものだ。 自分で自分のことを理解できていないのに、どうして他人のことを理解できるのか。これが、【41】一つ。
それからもう一つは「人間は月のような存在だ」ということ。自分が他人に見せている「自分」は、相手に 応じて見せる「光り輝いている部分」であって、ほかのところに行けば、また【42】顔をする。上司の前で は部下の顔をするし、お得意様(注1)の前に行けばそれなりの顔をする。自分だけじゃない、みんなが千変 万化する(注2)ものであり、人は他人に対して、基本的には常に自分の明るい部分を見せているということ だ。
他人には満月を見せていて、人という光に当たって誰もが輝いて見えているが、その裏側は黒く、暗いもの だ。その暗いものを自分が持っているということを最初からわかって【43 】、その人はもう、すぐにでも心 が平和になるだろう。
そうすれば、「あの人は信じられる」とか「信じられない」とか、「裏切られた」という思いもなくなる。人 間社会という宇宙の上に回っていて、その人間が裏側を見せている場合もあるのも仕方のないことで、人間関 係というのは‘引力’とかいろんなことが関係してくるということも【44 】。
だからこそ「人間は謎」であり、たまには元気がなくなったりして、三日月になったりするけど、いつも光 って見える。【45】裏側に、真っ暗で人に見せたくない部分を誰もが持っていて、そのすベての面を見るこ とは誰にもできない。
見えている部分の裏側にある面の存在を認識できていれば、変に気持ちが揺さぶられることもなくなるの だ。
(注1)お得意様:ここでは、取引先。
(注2)千変万化する:さまざまに変化する。

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以下は、飼っている犬について、ある声優(注)が語ったことをまとめたコラムである。
 職場の同僚の飼っている犬が子犬をたくさん産んだというのを父が聞きつけて、「こいつが一番かわいかった」と勝手に連れてきました。
 大学に通いつつ仕事を(41)。ある作品で演じた役名から「直司」と名付けました。日本人の名前で祖父も覚えられると(42)。
 僕は末っ子です。直司はわが家では年齢や立場が一番下になるので、自分(43)もう1人いるような感じです。実家にいたときは僕が散歩に連れて行きました。前にも犬を飼っていたのですが、小さかった頃は犬が怖くて、好きになれませんでした。でも直司は自然となついてくれました。
 家が好きで、居間によくいます。雪が降った時、好奇心で外で走り回るかと思ったら、気持ちよさそうに舌を出してこたつで寝ていたこともありました。こたつから顔だけ出して寝ている祖父と同じような格好をして。
 家を出てからは実家にまめに電話して「直司、元気?」と父や母に(44)。帰省した時は、たわいないことを話しかけますが、愚痴は言いません。言葉の意味はわからないと思うけれど、人が言われて重い言葉は犬もストレスを感じると思うので。
 性格はおとなしいけど、メス犬が好き。目を離したすきに、ばっと近所のメス犬の方へ駆け寄っていくことがあります。シェパードの警察犬を演じたことがあるんですけど、その時は直司の様子や鳴き声が参考になりました。そのシェパードもスケベな性格だったものですから。
きれいごとのように単にかわいがるのは嫌いですが、ほっとけない存在です。直司の残りの人生もできるだけ近くに(45)。

(朝日新聞2013年5月23日付夕刊による)


(注)声優:アニメのキャラクターなどの声を演じる俳優

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以下は、小説家が書いたエッセイである。

十人十色


 マニュアルというものが、この世には存在する。機械を買った場合には、これを読む。書かれてある通りに動かないと困る。ビデオの再生ボタンを押したのに、録画が始まってはたまらない。ところが、生き物はそうはいかない。あちらに通用したことが、(41) 。うちで、ねこを飼い始めた当座は、何も分からなかった。吐いたりすると、それだけでびっくりしてしまった。あわてて、ねこを飼っている人に電話した。一番にかけたところが留守だと、ますます、動揺する。結局、関西の知り合いにまでかけて、「心配ありませんよ。ねこは吐くものですよ」という言葉をいただき、やっと安心。こんな具合だった。
 さて、(42) 時に、当然のことながら「ねこの飼い方」の本も読んだ。マニュアルである。なるほど――と思えることが書いてある。中でも納得したのが、(43) 。――「動物にとって、用足ししている(注1)時は、最も無防備な状態(注2)です。襲われたら大ピンチ。その最中、人に近づかれることを、ねこはとても嫌います。飼い主は、離れるようにし、のびのびとした気分でさせてやりましょう」これは頷ける。そこで、ゆずが―うちのねこの名前はゆずという―そうする時は遠慮していた。
 (44) 。朝、ねこトイレ(注3)の砂をかきまわし、汚れ物を取り始めると、「ご苦労」というように、ゆずがやって来る。そして、まだトイレに手を入れているのに、「どけどけ」というように中に入ってくる。そして、足を踏ん張り、―行うのだ。これ見よがしに(注4)
 あの説得力のあるマニュアルは、一体全体、何だったのか。なるほど、生きている物には
 個性があると、あらためて (45) 。

(北村薫『書かずにはいられない―北村薫のエッセイ』による)


(注1) 用足ししている:大便や小便をしている
(注2) 無防備な状態:危険に備えていない様子
(注3) ねこトイレ:箱の底に砂などを敷いた、ねこ用のトイレ
(注4) これ見よがしに:自慢げに見せつけるように

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 近くの商店街を歩いていたら、新しい店ができていた。お好み焼き屋のようだ。さりげなく覗くと、客はまばらで、しらじらとした灯りがテーブルに反射している。一緒にいた友人と「大丈夫なのかな、こういう店」などと言いながら通り過ぎようとしたら、突然ドアが開いてエプロンをした若者が飛び出してきた。「よろしくお願いしますッ!」と店のカードを差し出す。勢いにのまれて受け取ると、ぺこりと一礼して戻っていった。店を覗いていた私たちに気がついて、反射的に店から(41)。
 「やるねえ、あの子」と友人。彼女は企業の管理職である。理屈ばかりで身体が動かない若者が多いとぼやき(注1)「ああいうのが一人、部下に(42)」と言った。「ほんとほんと」と私。
  (43)だって若いころは、考えることと身体が動くことの間に時差がなかった。駆け出しの編集者時代、ロケやスタジオ撮影の現場では、指示されるより先に走りだしたものだ――。友人に向かって自画自賛しながら、頭の隅で思っていた。本当は今だって、そうじゃなきゃマズイんじゃないか、と。
  フリーランサー(注2)の私は、一生、管理職になることはない。アルバイトか店主かは知らないが、あの若者と同じ立場なのだ。(44)いつの間にか、ひどく腰が重くなっている(注3)
  よし、明日からは臨戦態勢(注4)でいくぞ。見習うべきは(45)。思わずそう力んで苦笑した。しかし気分は悪くない。若者よ、ありがとう。

(日本エッセイスト・クラブ編『散歩とカツ丼ー10年版ベスト・エッセイ集」による)


(注1) ぼやく:不満に思っていることを独り言のように言う
(注2) フリーランサー:組織に所属せず個人で仕事をしている人
(注3) 腰が重くなっている:行動を起こすのが遅くなっている
(注4) 臨戦態勢:ここでは、いつでも動けるように準備ができている状態

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長細い箱が届いた。
そう云えば、ものすごく若くて、ものすごく浅はかだった三十年ばかり前のわたしは、細長い箱に入ったバラの花(棘ははずしてある)の贈りもの、というのに憧れていたなあ。どんなひとから贈られること想像していたのか。ともかく、箱入りバラを受けとるにふさわしい女性になり たいと【41】
結局、箱入りのバラを贈られることはなかった。そうだ。それを受けとるのにふさわしい女性にはなれなかった。だが、それはそれでよしとしよう。
長細い箱が届いた。
さて、この目の前の長細い箱のなかみ【42】、開ける前からわかっている。長ねぎである。夫の実家(埼玉県熊谷市)の畑からやってきた長ねぎ。実家のあるあたりは、深谷ねぎや下仁田ねぎで有名な地もほど近いのを見ても、ねぎとは相性のいい土壌なのだろうか。どの季 節のねぎも、おいしい。
【43】、私の大雑把な「おいしい」は丹精してねぎを育てる義父(ねぎはおもにちち担当)を喜ばせないだろう。なぜと云って、ちちにすれば、育てたねぎにはその都度、「上出来」、「普通出来」、「甘みもうちょっと」、「おいしいが細い」など、その評価に細かいランク付けがあり、ときには「いまひとつだったんよぉ」と云いながら、またあるときには「これは、よくできた」と顔をほころばせながら、手渡してくれる。だから、どのねぎに向けても、等し く「おいしい」と云うのなんかは......。
このあいだもらってきたばかりなのに、また【44】送ってくれたところを見ると、よほど の自信作なのだろう。
箱入りの長ねぎの花束である。

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文芸の毒
 「事実は小説よりも奇なり」___と言われるのは、たいていの場合、事実は平凡で小説が奇であるからこそ、いや、そうでないこともあるのだぞ、という警告を込めてのことであろう。
 実物よりもそれを写した写真や絵の方が美しく、実在の悪党よりもそれを主人公として描いた小説や映画の中に出てくるそいつの方が、ずっと、悪球残虐な印象を与えるということがある。芸術の力、言葉の(41)。
 私は永井荷風の小品「春のおとずれ」(明治42年作)を読んだとき、かるい衝撃を受けた。生まれてこのかた、何十回もの春の訪れを実験(実際に体験)してきたにもかかわらず、荷風がたった七、ハページの文章の中で描写した春の息吹き、鼓動の一万分の一すらも私は実感したことがないということに気づいたのである。
 私は荷風の文章___庭の土の色の変化+E55や庭先に生動するや野菊の様子、流れる渡る日の光、風ともつかぬゆるやかな大気の動き、驚や権の声、それらの仔細を美しい言葉にのせて綴った文章を読んで、はじめて、訪れる春の本質というものを感じ、かつ知ったような気がした。大自然を凌駕する文芸の力がそこにあった。
 私の敬愛する知人の一人が(42)言った。___「昔、文学をやろうと思ったこともあったが、永井荷風がいるんでやめたよ。荷風があれだけのことをやっているんだもの。おれが何か書いたってかないっこないし、またその必要もないしね。」
 はじめ、冗談半分のつくりごとか、照れかくしのための大げさな言い回しかと思っていた。この言葉を聞いて二十年たち、その間、この人と文学談めいた話は二度と交わしたことはないが、このごろ、あれはホンネだったのだと、(43)。
 文筆の才があり、今も若い人たちに慕われている人である。表立ったところには一切ものを書こうとはしない。著書なんかとんでもないという人である。私はこの人は荷風の毒にあたったのではないかと思う。あまりにもすぐれた文芸は、そのつよいであとに来る人の意気を要してしまうことがあるのではないか。(44)明治四十二年以来、有名作家の筆になるもので、春の訪れそのものを描いた作品はほとんど見当らないようであるか?
(注1)永井和風:20世紀初めから半ばにかけて活躍した小説家
(注2)意気を要する:やる気を失わせる

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装飾という架け橋


 「自然には直線がありません」 子どもの頃テレビから聞こえた言葉に、幼いながらはっ としたことを覚えている。その情報が正しいのかを確かめるために、それ以来自然をよく観察 するようになった。地を這う蟻や、道ばたの植物、切り立った崖の岩に、たしかに完全な直線 と呼べるものは(41)。そして自分の身体にも直線が存在しないことに気づいた。爪の一枚 から歯の一本、耳の内部にいたるまで、全ての輪郭はゆるやかな弧を描いている。
 (42)、身の回りには直線が溢れてもいた。机や鉛筆、黒板、箸やマグカップ、お菓子の箱 に直線は存在していた。自然の造形と人工の造形に明確な差異があることを理解したのは(43)。大人になるにつれて、そんな人工物の表面を覆う「装飾」に関心を持つようになった。植物や動物、空や星をかたどった色とりどりの模様に目を奪われたのだ。装飾の歴史は古く、紀元前に作られた土器の模様は、装飾が人類にとっていかに根源的な行為であるかを示している。
 (44) 最古の装飾は魔除け(注1)のために用いられたのだという。そうと知って最初の うちは、人の手跡(注2)を残すことが魔除けのために重要なのだと考えていた。しかし、た とえば縄文土器がその模様から火焔土器と呼ばれるように、他の渦や縞の模様も、雲の流れや水の波紋など自然の織り成すかたちに着想を得たものである。つまり人間は、土器という人工 の造形に自然のかたちを刻むことで魔除けとしたのだ。自分たちの手作った自然とは異質な造形を自然に溶け込ませることが、邪悪なものを遠ざける道であったのである。
 歴史上、装飾は余分なものとして排除されたこともあった。しかし実のところ、装飾は私た ちの造形と自然の造形とをつなぐ架け橋という至要な(注3)役割を(45)。
(注1) 魔除け:悪い物を近づけないようにすること
(注2) 人の手跡:人の手を加えた跡
(注3) 至要な:とても重要な

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以下は、作家が書いた文章である。

横暴な小説係


 マルチタスク (注1)という言葉が世の中に行き渡るようになって久しいけれども、自分自身の実態には程違い身の処し方である。いや、テレビをつけながら、傍らに読みかけの文庫本を置き、上うわの空そら(注2)でスマートフォンを眺めつつ、 晩ごはんは何にしようか、と考えているようなことはたくさんある。そういうことをやたらしてしまうために、わたしは、自分が同時にいろんなことをやるとすべての物事の達成率が著しく下がってしまっていることを熟知している。
 なので以前、自分しか見ないメモ帳には、分別のある自分が「スマホを見るときはテレビを(41)と書いていた。守ったり、守らなかったりだ。
 一日のうちに、いろいろな自分が出没しては退場していく。家事をしている自分、風呂で休んでいる自分、テレビを見たり本を読んだりと娯楽に接している自分、そして仕事をしている自分なとそれぞれに淡々とがんばっているが、中にはひどい(42)もいる。
 わたしがいちばん持て余しているのは「小説を書く係の自分」である。それを職業にしているのに身も蓋もない情けない話なのだが、本当にこいつは扱いにくい。ゲラ(校正紙)を見る係は心配性なので一日のノルマを越えて仕事をしたりもするし、書評係などは、真面目すぎて気の毒なぐらい考え込む時がある。随筆係は、ぐずぐずしたところはあるが、そんなに 時間帯や備品のコンディションは問わない。
 (43)、小説係は「まずお茶とお菓子だ」などと要求し、真夜中でないと仕事はしないとわがままである。しかもすぐに気が散って、動物の画像を検索したがる。そして落ち込みやすい。「文筆課の他の係を見習えよ」とわたしは思う。しかし、 この係を中心に結成された文筆課なので、今更組織図から(44)。
 ダメな社内ベンチャーのようなものである。今日もわたしは、小説係のためにお茶を作り、お菓子を調達し、「とにかく書かないと出来不出来はわからないよ」と(45)。
(注1)マルチタスク : 複数の作業を同時に処理すること
(注2)上うわの空そら:集中できていない状態

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以下は、小説『望月青果店』(小手鞠るい著)についての書評である。
 思春期の頃ころ、母親の存在を疎うとましく(注1)思った。初めて恋をした頃ころだった。恋するという感情が 嬉うれしいような恐ろしいような気がしていて、何かのせいにしたかったのだと思う。自分の中には母親と同じ血が流れていて、だから恋なんかするんだ、全てお母さんのせいなのだと変な理屈で恋心を納得させようとしていた。
 本書の主人公・鈴子(41) 母親は天敵のような存在で、母からいつも逃げたいと思っていた。そして 結婚に猛反対した母を捨てるような気持ちで誠一郎と一緒になったのだ。
 50代になった鈴子は、盲目の夫・誠一郎と目人の茶々(つやつやっとアメリカでペンションを経営しながら穏や かな日々を過ごしている。(42) 、小さな青果店を営む岡おか山やまの実家から母親の体調が悪いことを知らされ、5年ぶりの里帰り(注2)を計画するのだが、大雪による停電が続き里帰りは危ぶまれる。
 停電の中で様々な過 去の記憶が甦る。母との確執、初恋の人・隆史と交わした約束...。過去の記憶を過ぎたことと忘れてしまえればどんなに楽かと(43)。
 記憶は塗り変えることが出来ないから厄介で、いつまでも胸を締め 付ける。思春期の頃(ころ)に母親に投げかけた酷ひどい言葉がふとした時に生々しく心の中に甦って居たたまれないような気持ちになる(注3)ことがある。(44)、記憶は塗り変えられないけれど、新しい記憶を 育むことは出来る。
 停電の中で鈴子は、結婚前に再会した隆史が時間を超えて果たしてくれた 約束を思い出す。それは、母から誠一郎へと旅立つ鈴すず子この背中を強引に押してくれた。誰にも言えない秘密の思い出だった。
 記憶は人の心を締め付けることも温めることも出来る。誠一郎との暮らしの中で育まれてゆく静かで豊かな幸福な時間は、鈴すず子この母への思いを少しずつ和らげてくれる。物語 の最後で交わされる母娘の電話の会話はとっても可愛くて微笑ましかった。本を閉じた後、(45)車を実家に走らせた。
(注1) (うと)ましい:いやな感じがして避けたい
(注2)里帰り:実家に帰ること
(注3)居たたまれないような気持ちになる : ここでは、落ち着いた気持ちでいられなくなる

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