(3)転職を考えることがときどきある。とはいっても、①
それほど本気ではない。ただ、もし別の仕事を選んでいたら、自分はどんな人生だったのかを想像してしまう。想像するだけでもけっこう楽しい。いまの仕事に大きな不満はないが、そうかといって格別面白いというわけでもない。もしこの仕事をしてみたら、自分はもっと充実するのかも、とついつい考えてしまうのだ。
まあ、隣のしば芝ふ生はよく見えると言われてしまえばそれまでだが、自分にピッタリの洋服がなかなかないように、誰しも
(注1)自分だけの仕事を探しているのだろう。洋服は試着できるが、仕事に関しては、試しにちょっと、というわけにはいかない。もっとも多少働いたとしても、仕事の本質はわからないだろうが。
昔に比べれば、われわれの職業選択の幅ははるかに拡がっている。だけど……これが②
自分の仕事だと胸を張って
(注2)言える人は意外と少ないのではないだろうか。
才能があれば、と思う人がいるかもしれない。子供の頃にあこ
憧れていた野球選手とか、大学時代に憧れた映画監督になっていたら、たしかに楽しいだろう。でも、現在、私が思うのは、そんなあこが憧れの世界ではない。たとえ
平凡な才能でも、自分にピッタリの仕事を探せればよいと思っている。誰しも、自由な職業選択における自分だけの“必然”
(注3)を求めているのではないだろうか。
(梅崎修『マンガに教わる仕事学』による)
(注1)誰しも:誰でも
(注2)胸を張って:自信を持って
(注3)必然:そうなって当然のこと
(1)「日本の消費者は世界一、目が
肥えている
(注1)」という言葉には2つの意味がある。第1は機能や味などへの要求水準が高いこと。第2には、わずかな傷も許さないなど見た目へのこだわりだ。
消費者は後者のこだわりを捨てつつある。それでは消費者は嫌々「傷物」に目を向け、
我慢して買っているのか。必ずしもそうではない。
衣料品や家具などでは中古品市場や消費者同士の交換が盛んだ。再利用でごみが減り、環境にもいい。商品の傷も前の使用者のぬくもり
<(注2)とプラスにとらえる
感性((注3)が若い人を中心に広がっている。
規格(注4)外の農産物も似ている。ごみになるはずのものを安く使い、エコロジーと節約を
両立させることに、
前向きの価値を見いだしているのではないか。不ぞろいな野菜は、むしろ手作り品を思わせる長所。消費者の新たな価値観に、企業がようやく追いついてきた。
市場が広がれば、
粗悪品
(注5)や不良品が出回る可能性も高まる。なぜ安いのか。本来の価値は
損なわれていないか。企業の責任は重い。消費者にも「きび厳しい目」をきちんと持つことが求められる。
(日本経済新聞2009年8月27日付朝刊による)
(注1)目が肥えている:よい物を見慣れていて、物の価値がわかる
(注2)ぬくもり:あたたかい感じ
(注3)感性:感じ方
(注4)規格:基準
(注5)粗悪品:
粗末で質が悪いもの
(1)現代は、①時間がどんどん加速されているとも言われます。何事にも「早く、早く」とせかされ(注1)、時間と競争するかのように忙しさに追われていることを、大人たちはこういう言い方をしているのです。いつも同じ速さで時間が流れているはずなのに、時間の間隔が短くなったような気分で追い立てられて(注2)いるためでしょう。それをエンデ(注3)は『モモ』という作品の中で「時間どろぼう」と呼びました。ゆっくり花を見たり音楽を楽しんだりする、そんなゆったりした時間が盗まれていく、という話でした。②いつも何かしていないと気が落ち着かない、現代人はそんなふうになっています。
その一つの原因は、世の中が便利になり、能率的になって、より早く仕事を仕上げることがより優れていると評価されるようになっているためと思われます。競争が激しくなって、人より早くしなければ負けてしまうという恐れを心に抱くようになったためでしょう。「時間は金なり」となってしまったのです。
しかし、それでは心が貧しくなってしまいそうです。何も考えずにひたすら決められた ことをしていて人生が楽しいはずがありません。ゆっくり歩むからこそ、道ばたに咲く花に気づいたり、きれいな夕日を楽しむ気分になれるのです。私たちは、時間を取り返し、もっとゆったりした時間を生きる必要がありそうですね。
(池内了『時間とは何か』による)
(注1) せかされる:急がされる
(注2) 追い立てられる:ここでは、何かをしないではいられない気持ちにさせられる
(注3) エンデ:ドイツの児童文学者
国際化時代になって外国に語学留学する人が増えてきました。語学留学は単にその国の言葉を学ぶことだけではなく人々の生活や習慣を知ることにもなります。あなたが出会った人にとってあなたが初めて出会う韓国人かもしれません。あなたの行動があなたの国の人に対する印象を決めてしまうでしょう。あなたがキムさんでもキムさんではなく韓国人と見なされるでしょう。よい行いをすれば韓国や韓国人の評判がよくなり、悪い場合は悪く言われるのです。大げさに言うとあなたは韓国人の代表になっているのです。
一方あなたも出会った人によってその国の人全員を評価してしまうでしょう。運良くいい人に出会えばその国の人はこんなに親切なのだと思い、運悪く意地悪な人に会えばひどい人たちなのだと思ってしまう。それは自然なことです。しかし実際には平均的韓国人あるいは平均的○○人という人はいなくて、キムさんあるいは日本人なら山田さん、イギリス人ならスミスさんという人がいるだけです。長くそこで暮らしているうちにあなたはきっとそれに気がつくでしょう。自分の国と同じようにいい人もいれば悪い人もいるとわかるでしょう。しかし、特別な場合を除いて多くの外国人と知り合うことはめったにありませんからあなたが与えた印象が固定化してしまう恐れがあります。ですから海外ではよく考えて行動しなければなりません。
昔は秋になると農家は次の年に畑にまく種を作るためにトウモロコシを軒先につり下げていた。しかし現在はほとんどの農家は種会社から種を買っている。その種のほうが自分で作った種よりもっとおいしかったり、病気に強かったり、もっと収穫できるからだ。しかしそれはハイブリッドと呼ばれる子孫ができない種なので、毎年買い続けなければならない。
農家にとって、特に貧しいアジアの国の農家にとって、毎年種を買うのは大変なことだ。フィリピンでは「ハイブリッド種」に反対する農民同士が種の交換を始めた。バングラデシュでは「輸入ハイブリッド種」を買うことが国内の種研究者の反発を招いている。ベトナムからはハイブリッドを使っても収穫量がわずかしか増えず、ハイブリッドは肥料がたくさん必要なので、結局利益はほとんど増えなかったという報告もある。世界のハイブリッド種のほとんどは欧米の会社が所有しているから、貧しい国からますますお金が吸い上げられていく問題もある。
ハイブリッド種が本当にいいのかどうかわからない。いいハイブリッド種もあるだろう。しかしいいとか悪いとかいう問題ではない。種を企業に握られていることこそが問題だ。それも多くの場合、外国の企業に握られているのだ。売ってもらえなくなったり、急に値上がりしたりする恐れはないのだろうか。種から作物ができ、またそこから種ができ、命がつながっていく。これは自然なことだ。無理な話だとは思うが、そうできる良質な種を作ってもらいたいと思う。
私たちは疲れを取るためによくお風呂に入る。しかし実際にはお風呂に入るとかえって疲労物質が増えてしまうそうだ。お風呂がいいのは実はその後ぐっすり眠れるからだそうだ。疲労物質を減らすには目を閉じてじっとしているのが一番いいそうだ。つまり睡眠が一番いいことになる。勿論昼寝もいい。
毎日睡眠時間が十分に取れればいいが、忙しい人には難しい。では1時間に1度でも十分に寝たら疲労物質を減らす効果があるのだろうか。寝すぎてかえって疲れたと感じた経験があるだろう。それは疲労物質が減っても疲労感が残っているからだそうだ。疲れ過ぎて脳が疲労を感じられなくなっているときに十分に寝るといままで働きが鈍かった脳が活発に働いて疲労を感じられるようになるのだ。そして「かえって疲れた」と感じてしまうのだそうだ。
また「頑張っているね」とか「おかげで助かったよ」とかほめられると疲労感が減るそうだ。栄養ドリンクやコーヒーを飲んだりしても同様の効果がある。甘い物を食べることもいい。うれしい・楽しいなどといった気持ちが疲労感を減らす。しかし疲労物質が減ったために元気になったのではないことを忘れてはならない。
疲労物質を減らすためにいい食べ物もある。鳥の胸肉に疲労物質を減少させる物質が最も多く含まれているそうだ。渡り鳥はその物質を持っているので何千キロも休むことなく飛び続けることができるそうだ。
(1)
人間というのは、自分でわかっていることに関しては手早くポイントだけを取り出して 相手に教えて、たくさんの説明をつい省略してしまいがちだ。そのせいで、教わる側が理 解しにくくなってしまうこともある。人に教える時には、自分が理解した時点まで戻ってていねいに相手に伝えないと,うまく理解してもらえないのではないか。
また、そのプロセスのなかで、教わる側が積極的に質問することがとても重要だと思う。質間をすれば、何を理解していないのか、何を題解しているのかが、教える側にとてもよくわかるからだ。それに,同じことでも繰り返し説明されることによって,理解が深 まるケース
(注1)も多い。
個人的には、一回だけの説明で理解してもらえるケースというのは、実はとても少ない のではないかと思っている。
また、すべてを教えるのではなく大部分を伝え、最後の部分は自分で考えて理解させる ようにするのが、理想的な教え方ではないかと考えている。
一方的に入ってきた知識は、一方的に出て行きやすい。しかし、自分で体得
(注2)し たものは出て行きにくい。 小学生に大学の講義を聞かせてもチンプンカンプンな
(注3)ように、相手のレベルに 合わせて、相手が必要としていることを教えなければ意味はない。それは、非常に微妙な 調整を必要とする、
ある種の職人技だ。そんなところが、教える側の大きなやり甲斐では ないかと考えている。
(羽生善治『大局観一自分と闘って負けない心』による)
(注1)ケース:場合
(注2)体得する:身につける
(注3) チンプンカンプンな:全くわからない
(2)
近年、おもちゃメーカーが大人に向けたおもちゃに力を入れ、売り上げを伸ばしている。少子化に伴い, マーケットを大人にまで広げる必要性が出てきたという事情もある が、この売り上げの伸び方はそれだけでは説明できない。その裏には、大人に「おもちゃを買いたい」と思わせたおもちゃメーカーの戦略がある。
子供の時に欲しいおもちゃをすべて買ってもらえたという人はいないだろう。買ってもらいたかったのにという思いを忘れられず、今でもおもちゃに思いを寄せる大人は意外と多い。おもちゃメーカーはそこに注目した。 しかし、大人が子供向けのおもちゃを買うことには抵抗があると同時に、物足りなさも感じる。大人向けのおもちゃには、大人が買いたくなる工夫が必要だ。例えば、鉄道模型には特殊な素材を使用し、完成後にインテリアとして飾ることができる。組み立て式のミニギターは組み立て後に本格的な演奏も楽しめるし、色使いが落ち着いたカードのゲームは気持ちをリラックスさせる。このように、大人向けのおもちゃには単におもちゃとして遊ぶだけではない他の魅力がある。
また、大人向けのおもちゃは高いものが多い。高くしたほうが価値があると考えられて人気が出ることさえある。一般的にメーカーは商品価格をあまり高く設定できないものだが、大人向けのおもちゃならできる。おもちゃメーカーにとっては魅力的なマーケットである。
(3)
今の若い人は、ある程度完備した科学社会に生まれている。携帯電話もカーナビ(注1)も当たり前になった社会である。発展の過程を見ていない彼らは、どういった原理で それらが機能しているのかを知らない。知らなくても、その恩恵を受けることができる。充電さえしていれば、誰とでもいつでも連絡がつくと信じている。電波がどんなもので、どのような設備によって成り立っているのかを知らない人が多い。十数メートルしか離れて いない場所なのに、携帯電話が通じなくなることがあるなんて、考えてもいないだろう。
こういった「科学離れ」については、昔から問題意識はあった。だから、子供たち向け に科学を教育するシステムをいろいろな形で模険(注2)してきた。けれども、僕が感じることが一つある。そういう教育をしているのは、科学が好きな人たちだ。だから、口を揃えてこう言う、「科学の楽しさを子供たちに知ってもらいたい」と。この言葉を聞くた びに、「楽しさ」を押しつけている姿勢を感じずにはいられない。
読書の楽しみを知って もらいたい。スポーツの楽しさを感じてもらいたい。ほかの分野でも、こういった姿勢は 根強い。しかし、科学の場合は、そんな悠長な(注3)問題ではないと思うのだ。読書やスポーツが嫌いな人は、それをしなくても良いだろう。楽しみは、ほかにいくらでもある。しかし,科学を避けることは、この現代に生きていくうえではほとんど無理なのでる。(中略)もはや(注4)、好きとか嫌いで片づけら(注5)れるものではない、ということだ。
(森博嗣『科学的とはどういう意味か』による)
(注1) カーナビ:自分の車の位置を知らせながら道案内する装置
(注2)模索する:探し求める
(注3)悠長な:のんびりした
(注4) もはや:今ではもう
(注5)片づける:済ます
(1)
僕が接してきた学生というのは、国立大学の理系の若者だけです。だから、これが日本の平均的な傾向だとはいえません。ただ、二十年以上、毎年やってくる人たちを見ていて、昔と今の比較はできると思います。
まず、いえるのは、今の子は相対的に昔の学生よりも大人しくて、礼儀正しく、とても穏やかで素直で良い子が多い、と感じることです。これは、①
「近頃の若者は~」なんていうよく聞かれる話とは正反対かもしれません。どうも、若者が礼儀を知らないとか、言葉遣いがなっていないとか、いろいろ言われているようですけれど、そういったもの言いは、きっと②
どの時代にもあったことでしょうし、誰だって、歳をとれば、若い人の粗が見えるようにはなるものです。しかし、マスコミもなにかといえば「昔は良かった」という方向へ話を短絡的に持っていこうとしますからね。③
そういうふうに見たい、という固定観念がそもそもあるのではないか、とも思われます。
近所で遊んでいる子供を観察しても、今の子供たちは、昔に比べると大人しいと思えます。無茶をしないし、賢くなっているんじゃないでしょうか。
(森博嗣『大学の話をしましょうか』中央公論新社)
(2)
こんなことを言うと①
非科学的だと笑われてしまうかもしれないが、人間と機械との間にはどうも相性のようなものがあるように思えて仕方がない。相手は機械なんだから、誰が使おうが作動する時は作動するし、壊れる時は壊れるはず…だのに特定の人間に対してのみ、悪意を抱いているのではないかと疑いたくなる時がある。
例えば以前、仕事場で使っていた某社のコードレス留守番電話機。②
こいつとぼくとの相性は、まことに悪かったと言わざるをえない。買った当初から調子が悪く、急にベルがならなくなったり、会話にひどい雑音が混ざったりしたのだが、どういうわけかぼく以外の人が使うと何の支障も生じないのである。仕様書には「微弱式なので子機は親機から六メーター以内でご使用ください」と書いてあるのに、ぼくが使うと三十センチの至近距離でも、
「ぴーぴーぴーぴー」
と警告が鳴ってしまう。そこでぼくは親機にオデコがひっつくほど接近して電話をかけていたのだが、③
これじゃあ何のためのコードレスなのか分かりゃしない。ところが来客たちがこれを使うと、隣の部屋からかけても警告音ひとつ鳴らないのである。
「オメー、体から変な電波をぴろぴろ出してるんじゃねえのか?」
と友人に言われたりもしたが、断じてそんなことはないッ(と思う)。一応修理にも出してみたが全然ダメで、結局買い換えてしまったのだが、これはやはり相性のせいだと思えてならない。
(原田宗徳『買った買った買った』新潮社)
(3)
最近の①ゲームの進化には驚かずにはいられない。携帯型ゲームや、TVゲームは今までは子どもや若者のもので、一人で遊ぶ個人的な娯楽という印象があった。しかし、今ではユーザーの年齢層も広がり、活用法も様々になってきた。
新しい使い方としては、受験、資格対策、外国語学習などがあり、英単語学習に取り入れている学校もあるようだ。さらに、「脳を鍛える」というゲームまで、登場している。
女性や主婦に人気があるのは、ダイエットや、レシピ集、家計簿などだ。また、スポーツを楽しめるものもある。例えば、ヨガゲームのように健康管理をするものや、テニス、野球ゲームのように実際にはしたことがないスポーツでも画面上で楽しめるものもある。これらのスポーツのゲームは楽しくトレーニングができるので医療機関や老人ホームでも取り入れているところもあるそうだ。
②今日のゲーム機は娯楽性を高めつつ、老若男女を問わず、多くの人が知識を深めたり、健康を維持したりするのに役立っている。ゲームは「一人で部屋にこもって遊ぶもの」という負のイメージから、大勢で楽しさを共有できるもの、友だちはもとより、親と子、祖父母と孫を結ぶものというイメージも持つものとなっている。正にゲーム機は世代を超えた③人と人が触れあうコミュニケーションの道具に変化してきたと言っても過言ではない。
(4)
21世紀に入って一段落した頃から①
ネコ型社員が増えてきた。その理由は結構単純で、若い世代を中心に「平坦な
(注1)未来」を自然に感じている人が増えたからだと思う。
とても優秀だな、と思うような若手からこんなことを聞かれることも多い。
「そもそも、経済ってどこまで成長する必要があるんですか?」
これは結構難しい問いだと思う。景気が後退し、職を失う人が街に溢れるのはいいことではない。また、飢餓
(注2)や貧困を脱したいとは誰もが願う。
恐慌
(注3)とされるほどのマイナス成長は、確かに人々を不安に陥れる。しかし、経済成長率が高いほど私たちは幸せになれるのだろうか。
むしろ景気が良くなると胡散臭い連中
(注4)が幅を利かせるようになる。結局、上手にタイミングをつかんだ者だけが富を得られることが成長の果実なのか。そんな、感覚になってもおかしくはない。
②
経済成長が横ばいでも、幸せな生活は十分できるのではないだろうか?
2008年からの不況は、世界中が「成長を過剰に見込んだこと」の調整的な面がある。若手社員が感じていた、③
成長への感覚的な懐疑は未来の本質を突いていたように思う。それがネコ型社員となって表れる。
彼らは、成長期の観念から抜け出せない人々に対して懐疑的だ。
(山本直人『ネコ型社員の時代』新潮社)
(注1)平坦な:平らな様子
(注2)飢餓:食べ物が不足すること
(注3)恐慌:経済がひどく悪い状態
(注4)胡散臭い連中:怪しい人たち
「⽇本の消費者は世界⼀(注1)、 ⽬が肥えている」という⾔葉には2つの意味がある。第1は機能や味などへの要求⽔準が⾼いこと。第2には、わずかな傷も許さないなど⾒た⽬へのこだわりだ。
消費者は後者のこだわりを捨てつつある。それでは7消費者は嫌々「傷物」に⽬を向け、我慢して買っているのか。必ずしもそうではない。
⾐料品や家具などでは中古品市場や消費者同⼠の交換が盛んだ。再利⽤でごみが減り、環境にもいい。商品の傷も前の使⽤者の ぬくもり(注2)とプラスにとらえる 感性(注3)が若い⼈を中⼼に広がっている。
規格(注4)外の農産物も似ている。ごみになるはずのものを安く使い、エコロジーと節約を両⽴させることに、前向きの価
値を⾒いだしているのではないか。不ぞろいな野菜は、むしろ⼿作り品を思わせる⻑所。消費者の新たな価値観に、企業がようやく追いついてきた。
市場が広がれば、 粗悪品(注)や不良品が出回る可能性も⾼まる。なぜ安いのか。本来の価値は損なわれていないか。企業の責任は重い。消費者にも「厳しい⽉」をきちんと持つことが求められる。
(注1)⽬が肥えている︓よい物を⾒慣れていて、物の価値がわかる
(注2)ぬくもり︓あたたかい感じ
(注3)感性︓感じ⽅
(注4)規格︓基準
(注5)粗悪品︓粗末で質が悪いもの
体を温める食べ物と冷やす食べ物がある。どちらがいいということではなく体のためには季節やバランスを考えて食べるのがいい。暑い国に住んでいる場合は体を冷やす食べ物が、寒い国に住んでいる場合は温める食べ物が必要だ。しかし病気を抱えているときはほとんど体を温めたほうがいいようだ。
基本的には暖かい地方で採れる食物は体を冷やし、寒い地方の食物は温める効果がある。採れる季節も同様だ。果物や葉物(注)は地上で作られるから冷やし、タマネギ、ジャガイモのように地下で作られる物は温める。ただしリンゴ、サクランボ、ブドウ、プルーンなどは寒い地方で生まれたので体を冷やすのではなく温める。特にリンゴは「医者いらず」と言われるほど体にいい食べ物だが、体を冷やさないこともその理由の1つのようだ。水分が少なく硬い物は、柔らかい物より体を温める。塩分が多いものや辛い物も体を温める。全ての食べ物が二分されるのではなく、私たちが主食としている玄米、トウモロコシ、芋類、大豆はどちらにもいらないそうだ。
昔は季節の物やその地方で採れた物を食べていたから、どれが体を温めるとか冷やすとか気にしなくてもよかった。今は1年中トマトやキュウリが食べられる時代だ。だから健康維持のために食べ物が体を温めるか冷やすかを知っておく必要がある。
(注)葉物:ほうれん草などのように葉を食べる野菜
たとえば、「⾛る」ことは、⼀⾒単純で誰にでもできる運動ではあるが、「速く⾛る技術」となると、なかなか①⾝につけることが難しい。教えられたように⾛るフォームを改善することが簡単ではないからだ。
誰でもできる運動なのに、なぜその改善が難しいのだろう。
実は、普段慣れている動作ほど、その動作に対する神経⽀配はしっかりとできあがっているからだ。運動の技術やフォームを改善することは、その運動を⽀配する神経回路を組みかえることになるので、そう簡単にはいかない。
コーチは、腕の振り、膝の運び⽅、上体の前傾の取り⽅など、フォームを矯正しようと指導し、指導を受けるランナーも指摘された体の動きの修正に意識を向けてトレーニングするのが普通である。しかし、動作の修正には多くの時間と繰り返しが必要であり、またその結果が上がらないことも多い。そして、トレーニングの効果が上がらない⼈は、「運動神経」が良くないということになる。
②この場合、運動技術の修正は、「運動の神経回路を修正する」ことであると考えることによって、解決の系⼝がみつかる。
スポーツ技術や「⾝のこなし」の習得には、神経回路に直接的に刺激を与えるようなトレーニング上の⼯夫が必要である。
⼯夫をいろいろと重ねるうちに、「動作をイメージし、それを体感する」ことが、運動の神経回路を改善するのにきわめて有効であることがわかってきた。
(⼩林寛道「運動神経の科学―誰でも⾜は速くなる」講談社による
(注1) 神経回路︓ここでは、神経をつなぐ仕組み
(注2) 矯正する︓正しくなるように直す
(注3) ランナー︓⾛る⼈
(注4) 系⼝︓きっかけ
(注5) ⾝のこなし︓体の動かし⽅
(2)
私はどちらかと⾔えば根が楽天的だが、昔は営業の強烈なノルマ
(注1)に苦しんだこともある。そういう⽇々の中から①
いつしか⾝につけたことのひとつが「幸せ感のハードル
(注2)を低くする」だった。
たとえば、あと⼀歩のところで契約が結べなかった⽇、会社に戻ってしょげかえる
(注3)代わりに「あの社⻑と⼀時間も話せるところまできた」と⾃分の成果を⾒つけて評価する。そうやって⼀⽇を締めくくれば
(注4)、明⽇への活⼒も湧いてきた。
仕事そのものも、「仕事は趣味や遊びとはちがう。仕事はお⾦をもらうのだから、楽しくないことがあっても当たり前」と思ってやってきた。②
そこを基準にすれば、少々のことは当然のこととして受け⼊れられる、何かいいことがあったときは「お⾦をもらいながらこんな気持ちを味わえるなんて」と幸せ感も倍増する。
どうせ⼈⽣の⼀定の時間を仕事に費やすのなら、その時間が楽しいと思えるほうがいいに決まっている。それに楽しいと思ってすることは、何かとスムーズに運び成果もあがるものだ。こうして好循環が⽣まれてくる。
⼈は楽しいから笑顔になるのだが、「まず笑顔をつくると、それによって楽しい気持ちが湧いてくる」という研究結果があるという。これにならえば、充実感を得られる仕事を⼿にするには、楽しめる仕事を探すのも⼤事だが、⼩さなことでも楽しめるようになることも意外にあるどれない
(注5)ポイントだ。
(⾼堿幸司「上司につける薬︕-マネジメント⼊⾨」講談社による)
(注1)強烈なノルマ︓厳しい条件で課される仕事
(注2)ハードル︓ここでは、基準
(注3)しょげかえる︓ひどくがっかりする
(注4)締めくくる︓終える
(注5)あなどれない︓軽視できない
寒さを防ぐ便利な道具であるにもかかわらず、⼈類は歴史のほとんどの期間を通じて、ボタンを知らずに過ごした。(中略) ⽇本⼈は帯で締めていた。古代(注1)ローマ⼈は確かに⾐服の飾りとしてのボタンは使ったが、ボタンに⽳をあけるという発想が⽋けていた。また古代sub>(注1)中国では紐に棒を通しはしたものの、⼀歩進んでボタンとボタン⽳を発明することはなかった。① こちらの⽅がより単純で便利であるのに、だ。
ところが⼀三世紀に⼊ると、突如として(注2)北ヨーロッパでボタンより正確にはボタンとボタン⽳が出現した。この、あまりにも単純かつ精巧な(注3)組み合わせがどのように発明されたのかは、謎である。科学上の、あるいは技術上の⼤発展があったから、というわけではない。ボタンは⽊や動物の⾓や⾻で単純に作ることができるし、布に⽳をあければボタン⽳のできあがりだ。それでも、このきわめて単純な仕掛け(注4)を作り出すのに必要とされた発想の⼀⼤⾶躍(注5)たるや、② たいへんなものである。ボタンを留めたりはずしたりするときの、指を動かしたりひねったりする動きを⾔葉で説明してみてほしい。きっと、その複雑さに驚くはずだ。ボタンのもうひとつの謎は、それがいかにして⾒出されたか、である。だって、ボタンが徐々に発展していった様⼦など、 ③ とても想像できないではないか。つまり、ボタンは存在したか、しなかったかのどちらかしかないのだ。
(注1) 古代︓古い時代
(注2) 突如として︓突然に
(注3) 精巧な︓細かくてよくできている
(注4) 仕掛け︓何をするための装置
(注5) ⾶躍︓急に進歩しる
遠くから自分の社会を見る、という経験のいちばん直接的な形は、異国
(注1) で日本のニュースを見る、という機会です。ある朝、小さい雑貨店の前の石段に腰を下ろして「午前」のバスを待っていると、新聞売りの男の子がきて「日本のことが出ているよ!」という。日本のアゲオという埼玉県の駅で、電車が一時間くらい遅れたために乗客が暴動を起こして、駅長室の窓がたたき割られた、という報道だった。世界の中にはずいぶん気狂
(注2)いじみた国々がある、という感じの扱いだった。ぼくは①
その中にいた人間だから、朝の通勤時間の五分一◯分の電車のおくれが、ビジネスマンにとってどんなに大変なことか、よくわかる。分刻みに追われる時間に生活がかけられているという、ぼくにとってはあたりまえであった世界が、《遠くの狂気 》のようにふしぎな奇怪
(注3)なものとして、今ここでは語られている。
近代社会の基本の構造は、ビジネスです。businessとはbusyness、「忙しさ」ということです。「忙しさ」の無限連鎖
(注4)のシステムとしての「近代」のうわさ。②
遠い鏡に映された狂気。ぼくはその中に帰って行くのだ。
(見田宗介『社会学入門』岩波書店)
(注1)異国:外国
(注2)狂気:精神状態が正常でないこと
(注3)奇怪:常識では考えられないほど変わっていて不気味なこと
(注4)連鎖:つながっていること
現在世界では太陽光発電、LED、リチウム電池、水の浄化装置などの開発及び販売競争が起こっています。日本の技術はどれをとっても一流です。しかし常に価格競争に巻き込まれて企業はどう利益を出したらいいのか悩んでいます。そこでこれらの技術をバラバラに売るのではなく、技術を集めた野菜工場を売り出すことにしました。
日本では50ほどの野菜工場が動いてます。畑で野菜を作れるのは年に2~3回ですが、工場では月に1回ぐらい収穫できます。また工場で作られた野菜は無農薬なので少し高くてもどんどん売れています。洗う必要もないのでレストランなどでも喜ばれています。北海道のような寒い地域では工場で作られた野菜が大活躍です。遠い暖かい地方から運ばれてくる野菜は運送費がかかりますが、現地で作られた野菜は輸送費が安いので価格でも十分に勝負できるようになりました。
この野菜工場のシステムを砂漠や寒い国に売ろうとしています。電気が来ない場所でも使えるように上に太陽電池パネルを取り付け、太陽の光の代わりに消費電力が少なくても済むLED電球を使いました。またできた電気を保存するためにリチウム電池を、さらに水の消費を抑えるために循環装置をつけました。こうした装置を1つの箱に入れて売るのです。野菜工場を輸出するのは始めてです。成功する気がしてきました。