交換と交易(注1)の歴史は非常に古く、何万年も前までさかのほれるようだが、貨幣経済は進化史的 に言えばごく最近のことである。どんなものにも変えることができる抽象的な価値とは、とんでもない発明だと思う。(中略)
 それは、貨幣というものが、確かに人間の生活を変え、世界を見る目を変え、欲望のあり方を変え、人 生観を変え、結局のところ人間性を変えてきているように思うからだ。貨幣経済の真っただ中で暮らし ている私たちにとって、貨幣は当たり前の存在だが、ヒトという生物にとって、こんなものの存在は決 して当たり前ではなかった。そして、大量の砂糖や脂肪の存在に私たちの脳も体もうまく対応できてい ないのと同じく、この貨幣という存在にも、実は私たちの脳はうまく対応できていないのではないだろか
 ヒトが狩猟採集生活をしていた頃、ヒトは自分たちの手で集められる食料を食べ、自分たちの手で作れ る道具や衣服を使って暮らしていた。できることは限られていたし、望めることには限度があった。ま さに等身大(注2)の生活である。それ以上の世界の可能性を知らなければ、欲望にも限りがあった。 「欲しい物」というのは具体的な物であり、それを手に入れる方法は限られていた。そして、ヒトはそ のことを知っていた。
 しかし、何にでも交換できる抽象的な価値が手に入るようになると、それ自体を得たいという新たな欲 望が生まれる。「金の亡者」(注3)は、何か特定の物が欲しいから貨幣を得るのではない。ともかく貨 幣をためることが何にもまして大事な目的なのだ。そこには限度がない。
 また、何にでも交換できる抽象的な価値は、人間関係を買うことも、幸せな気分を買うこともできる。 貨幣がない時には、人間関係を築いていなければできなかったことが、個別の人間関係抜きに手に入 る。逆に、貨幣なしではほとんど何もできない。
 そして、今では、貨幣を手に入れることは一つの職業につくことである。一つの職場で一つの仕事を し、その対価(注4)に貨幣をもらう。そうすると、ヒトは、自分が独立して生きていると思う。本当 は、今でも狩猟採集生活時代と同じように、みんなで共同作業をすることで生きているのだ。農家がい なければお米も野菜もない。物流や商店がなければ、買うことができない。医者がいなければ病気を治 せない。学校の先生がいなければ教育ができない。今でも、みんなでともに生き、生かされて暮らして いるのだが、それぞれに貨幣が介在しているので、共同という感覚がなくなる。便利なものには必ず負 の面がある。ちょっと立ち止まって考えてみた方がよい。
(注1) 交易: ここでは、取り引き
(注2) 等身大の: その人の状況や能力に合った
(注3) 金の亡者:異常に金銭に執着する人
(注4)対価:ここでは、報酬

1。 (64)とんでもない発明だと思うのは、なぜか。

2。 (65) 狩猟採集生活をしていた頃のヒトの欲望について、筆者はどのように述べているか。

3。 (66) 筆者によると、ヒトは貨幣を手に入れてどうなったか。

4。 (67)筆者が最も言いたいことは何か。