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 私たちは頭の中で「考える」とき、決して論文のように筋道の立った記述のように考えるわけではな い。たとえば私の評論を書くときの経験では、論旨のエッセンスとなるような直感とか、ハイライト部分(注1)の「決め」になるようなフレーズ(注2)を思いついたときに「これは書ける」なんてわくわ くして思い立つのである。つまり、その瞬間の頭に浮かんだものは、ばらばらな断片と大まかな展望に 他ならない。そのピンポイント(注3)の断片と他の断片との間を、スムーズな説得力のある流れにな るように継ぎ足していく作業が「書く」という仕事である。
 しかし、スムーズにつなぐことに集中しすぎると、もとの目的地から逸れた方向へ論旨が勝手に伸びて いってしまうことが、ままある(注4)。(中略)ひとは書こうとしていたことをきちんと書けるわけ ではなくて、むしろ積み木のように書き足しているうちに、最初は書こうともしていなかったことを知 らず知らずに書いてしまうことが少なくないのである。そのくせ書き上げてしまうと「そうか、自分は こういうことを考えていたんだ」などと思えてくるから不思議だ。
 私たちの意識は、言葉とイメージの網の目をふわふわ漂っているようなものである。それが言葉や文章 に定着したとき、「考え」というものになる。言葉を抜きにして「考え」は存在しない。順序として 「考え」がもともとあったから言葉が出てくるのだと思いがちだが、逆に言葉が出てきて初めて「考 え」ははっきりするものなのである。だから言葉の運動が勝手に作り上げてしまった論旨が、いつのま にか自分の「考え」になってしまうという現象が起こるわけだ。
(注1) ハイライト部分:ここでは、重要な部分
(注2) フレーズ: ここでは、言葉や表現
(注3) ピンポイントの:ここでは、中心となる
(注4)まま:時々

1。 (50)筆者によると、書くとはどういうことか。

2。 (51) 不思議だとあるが、なぜか。

3。 (52) 筆者の考えに合うのはどれか。