「好き」という言葉の罠

「好き」という言葉は曖味だ。意味が曖昧なわけではない。言葉に込められる感情の強さの度合いがはっきりしないのだ。ないよりはあったほうがいいという程度の「好き」もあるし、それを奪われたり失ったりしたら死んでしまうかも知れないという強烈な感情や意志を伴う「好き」もある。私事で恐縮だが、わたしは小説を書くのが好きではない。じやあ嫌いなのかというとそうでもない。おそらくそれがなくては生きていけないくらい重要で大切なものだが、非常な集中を要するのでとても好きとは言えないのだ。(41)小説を書くことは好きという言葉の枠外にある。
 子どものころから文章を書くことは得意だったが、好きではなかった。もし自分が小説を書くことが好きだったらどうなっていただろう、と考えることがある。もし好きだったら、たぶん日常的な行為になっていただろう。つまり小説を書くことが自分にとって特別なことではなくなっていただろう。(42)小説を書くことそのものに満足を覚えるようになったかも知れない。執筆が日常的な行為と化すこと、書くことそのものに満足すること、いずれも予定調和(注1)に向かう要因となる。わたしにとっては忌避すべきことだ。
 「好き」という概念を(43)。だが好きという言葉は自家撞着(注2)•満足の罠に陥りやすい。程度の差はあっても、好きという感情には必ず脳の深部が関係している。理性一般を司る前頭前皮質ではなく、深部大脳辺縁系や基底核が関わっている。「好き」は理性ではなく工モーショナル(注3)な部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から湧いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギヤツプが(44)、逆に、他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。
 「なぜあの人が好きなの?」「お金持ちだから」というようなやりとりを想像すればわかりやすいが、説明可能なわかりやすい「好き」は、何かを生み出すような力には(45)。
(注1)予定調和:ここでは、創造的でない状態
(注2)自家撞着:自己矛盾
(注3)エモーショナルな:感情の

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