(1)
そこは、ぼくが東京に来て初めて入った食べ物屋さんだった。受験のために上京したぼくは、そば屋に入るのさえこわがっていたのだ。そして、すきっ腹をかかえて、やっととび込んだこの店で、恐る恐る壁に書かれた品目を見上げ、一番安いものを注文したのだ。あれから11年が過ぎていた。得た物も多い。だがその間に失くしたものも大きかった。
「えっ? こんなとこに入るの?いやよ、あたし]
硝子戸に手をかけたぼくに、連れの女は露骨に
(注1)不快表情を向けてそういった。その女との結婚を考えをていたぼくは、急に心が冷めたように感じた。
①
ぼくはかまわずに戸を引いた。そのとき、ぼくの脳裏
(注2)に高校生の娘の顔が浮かんだ。注文を受けた彼女は、数分後に申し訳なさそうな目をして、作られだ料理をぼくの前に置いたものだった。それを見て、ぼくは②
全身に冷や汗をかいた。玉ねぎの薄切りが出ていたからだ。オニオンスライス。何かの飯だとぼくは思っていたのだ。
「いらっしゃいませ」
暖かい目をしたふくよかな
(注3)③
女性が11年ぶりにぼくを迎えてくれた。
(高橋三千綱「心の風景] i中品り小説」 新潮文庫による)
(注1) 露骨に : 実際にあったとおり、少しもかくさないで
(注2) 脳裏 : 頭の中
(注3) ふくよかな : 少しふとっている