多くの人が今の社会は生きづらいと言う。
長いこと農林業者や職人、漁業者達に会って話を聞いてきた。明治生まれも大正生まれも昭和の方もいた。その方々も、自分たちは生きやすく、楽しい人生を送ってきたとは言わなかった。
私が会った多くの方々は徒弟制度(注)のなかで技を身につけ生き方を学んできた人達だった。林業者達は親方や先輩に仕えて、道具の使い方や山や木の性質、癖を読み取る方法を覚えて一人前になった。漁師達もそうだ。父や兄の船に乗り込み、飯坎きから始めて、その日の水温や風の流れを読み、漁場を決め、そこに合った道具を選び、漁獲を得るようになる。
教える親方や先輩達は「見て学べ」と言うだけだった。自分の指先や感覚、体が覚えた技を伝えるには言葉はあまりに幅が狭すぎるからだ。
(中略)
やがて一人前になり、腕を上げれば、効率は上がり、利益も出るようになるが、目指す到達点が遠いことに気づく。だから日々の①努力を惜しまなかった。努力だけが自分を補ってくれる手段だったからだ。努力は辛いものであったが、喜びも伴っていた。積み重ねれば明日があり、報われることがあったのだ。
しかし、②時代は変わった。時間のかかる訓練を避け、効率の向上を目指した。効率こそが価格競争に勝てる最高の武器だと考えたからだ。工場はもちろん、漁師は機械を満載した高速船を手に入れ、農業者はトラクターを買った。森林の伐採も機械がする。
世の仕組みも、人々の考えも努力や修業、技を持つ体を不要なものとしたのだ。技はデータとして機械に組み込まれ、人間に付属するものではなくなってしまった。修業は人を磨き、生き方を支えるものであったのだが、それがなくなった。
今、人は働かされていると感じている。そこでは隠された能力が引き出されることがない。見つけ出す過程がなくなったからだ。報いは金銭であり、喜びが薄っぺらなものになってしまった。働くことの意味が変わったのだ。
働くことと生きることは人生の裏と表であった。生きづらい世の中と思う人が多いのは、働くことに喜びが伴わなくなったからではないか。私の会ってきた人々は自分の仕事を語るとき、苦しかったとは言いながら、表情に生気があり、誇りがにじんでいた。
社会が変わっても人は生きていかねばならない。働かねばならない。機械を捨てろというのではない。効率も必要だ。しかし、新しい時代の中で働く意味と喜びを見つけ出さなければ、生きづらさが増すばかりだ。
働くことの喜びをどうやって復活させるのか。お手本はほんのこの間までの日本にある。たくさんの方達の話を聞いてきてそう思う。
(注)徒弟制度:ここでは、弟子として技を習得する制度