人間はおかしなもので、自分が苦労して作ったり、特定の誰かが自分のために作ってくれたと思うと、より深い満足感を覚えるものらしい。それは恋人が編んでくれたセーターをプレゼントされた時のことを思えば、容易に想像できよう。モノにではなく、そこに込められた「思い」こそが人を満足させ、幸福にするのである。
だとすると「労働や生産」を家庭から切り離すことで成立する大量生産・大量消費システムの進展は、身の周りからそうした「思い」や「かけがえ(注1)のなさ」を消し去っていく過程だったと言えなくもない。
かつて何でも手作りしていた時代には、身の周りに手作りのモノやサービスがあふれてたため、金銭を払って得る商品やサービスにそんな「思い」や「かけがえのなさ(注1)」を要求する必要もなかった。人々が商品に求めたのは単に機能と安さだった。だからこそ、均質な機能を持つ商品を安く供給できる大量生産が有効だったのである。
しかし、ある程度商品が行き渡ると①事情は違ってくる。人間は持たざる時には人並みを求めるが、ひとたび人並みになるや、今度は人との違いを求めだし、人と同じ商品では満足できなくなるからだ。この隘路(注2)を現代の資本主義はデザインによってモード(流行)を作りだしたり、特定の商品を持つことが社会的地位の象徴であるかのように思わせることで切り抜けてきた。
頻繁に繰り返される自動車のモデルチェンジや、去年買った服を今年着るのが恥ずかしいくらいに目まぐるしく変わる流行のファッション。機能的には軽自動車で十分であるにもかかわらず、乗っている自動車の大きさや豪華さによって自分の価値が判断されるような気がして、 より高級な車を買いたくなるのもそのためだろう。(中略)
ただ、モンによって自分を他と差別化するというこのやり方は、②深刻な矛盾に陥らざるをえない。つまり、社会に流布された豊かさや幸福のモデルに自分を合わせることで個を主張するわけだから、自分を個性化しようとすればするほど本当の自分の色を消し去り、逆に没個性化していくという矛盾である。
消費財がほぼ万人に行き渡り、しかも所得の大きな格差も無くなって、モノによって自分を他者と差別化することが困難になりつつある現在、この矛盾はこれまでになく鮮明になってきている。もう買いたいモノがないという現状は、その端的な現れだろう。こうした消費社会の矛盾を自覚した時に人が立ち戻る場所は、やはり「思い」とか「かけがえのなさ」しかないような気がする。
記号と化したモノに人が操られている現状を脱し、人がモノを使う本来の姿に戻るためにも、満足感や幸福感は何によってもたらされるのか、今一度考える要があるのではないか。
(注1) かけがえのなさ: 他に代わりがないほど貴重だあること
(注2) 隘路:ここでは、難しい状況