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以下は、文字を持たない民族について研究している人が書いた文章である。
本に書いてあることは、ことさらに(注1)中身を全部覚えておかなくても、それについてと''の本に書いてあったかが思い出せればよろしい。インターネットが発達した現代においては、ちょっとしたことならすぐに検素できる。バッハとヘンデル(注2)はどっちが先に生まれたかなどと不意に(注3)聞かれたとしても、クラシックファンでなくても、手元にネットにつながったパソコンがあれば、わけもなく(注4)返答できる。 しかし、それは自分自身の知識が増えたわけではない。そこに文字として書かれているものは、すべて自分のタト側にあるものであり、それにアクセスできなくなったとたんーー早い話が本が全部焼けてしまうとか、停電になるとかしたとたん—— そのほとんどが自分とは無縁のものになってしまうのである。
文字を使わないということは、常にその状態にあるということである。自分が記憶していないものは、存在していないのと同じ。(中略)本を読んだり、ピデオやDVDで同じ映像を何度も再生して見ることに慣れた我々は、その瞬間に頭に入らなくとも、もう一度見ればよいと考えてしまいがちである。しかし、そういう文化の中で育っていない人たちにとっては、その瞬間を逃したらそれまでであって、同じ人から同じ話を聞く機会はもう二度とないと考える。そのような気持ちで人のことばを聞くことによって培われた(注5)力が、 記憶する力となっているのであろう。
文字を学び、書かれたものを読む能力は、人間の取得可能な知識の範囲を格段に(注6)広げたことは事実である。しかし、それは取得した知識が増えたことを、なんら(注7)意味してはいない。
(注1)ことさらに:ここでは、特に
(注2)バッハとヘンデル:どちらも18世紀に活躍した作曲家
(注3)不意に:突然
(注4)わけもなく :簡単に
(注5)培われた:育てられた
(注6)格段に:ここでは、大きく
(注7)なんら:少しも